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東三河エネルギー研鑽会の探求

穂の国東三河を中心に、三遠南信の歴史と謎、エネルギーを探求しています。またブログタイトル変えちゃいました。

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  1. 隠れ南朝伝説
  2. cm: 21
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南朝リレーその5 ~天恩寺 岡崎市~

岡崎市片寄町(旧額田郡額田町)。ホタルの里でも知られる山里に天恩寺というお寺があります。

三河南朝研究の藤原石山氏の資料を読んでいた時に、このお寺のことが出てきたので、気になって探索に出かけてきました。

とはいえ、天恩寺について、あまりよく下調べもせずに出かけてしまったので、どんなお寺なのか全く分からずだったのですが、訪れてみると、なんとまあ、素晴らしく美しいお寺でビックリでございました

さて、天恩寺というのはどんなお寺かというと・・・、

建武2年(1335年)。矢作川の戦いに敗れた足利尊氏は、「明日の戦に勝利させていただけたら、報恩のためにこの地に寺を必ずや建立いたします」と延命地蔵菩薩に戦勝祈願をすると、翌日の戦に大勝利。その後、将軍となり室町幕府を開くが、尊氏はその約束を果たせず、遺言とした。貞治元年(1362年)、三代将軍の足利義満がその遺言に従い、見性悟心(けんせいごしん)禅師に命じて天恩寺を建立。見性悟心禅師は、師である円応国師を近江より招き開山とし、自らは第2世となる。境内には、徳川家康ゆかりの大杉がある。長篠城の戦いの出陣の折、この辺りまで来た時、大杉の影から敵が矢を射かけるところを、延命地蔵の呼びかけにより難を逃れた家康は、これを大いに喜び、地蔵菩薩の前に三拝九拝し、何度も何度も馬上よりこの大杉を遥拝しつつ戦場に向かった。それにより、この大杉を「家康公見返りの杉」と呼ぶ。慶長7年(1602年)、徳川家康より寺領百石の寄進があり、以後江戸幕府により保護を受けた。建物の作者は不詳なれど、貴重な室町時代の禅風の建築であり、仏殿、山門は国の重要文化財。ご本尊は延命地蔵菩薩。臨済宗。


tenonji101.jpg
<天恩寺略由緒>


tenonji100.jpg
<道路際の駐車場に車を止めて、木立に囲まれた石段を登っていくと、門が見えてきます。>


tenonji102.jpg
<門をくぐると見えてくるのが・・・>


tenonji104.jpg
<大きな杉。>


tenonji103.jpg
<この杉が家康ゆかりの大杉です。>


tenonji105.jpg
<石垣が組まれた上に凛とした建物が見えます。>


tenonji107.jpg
<貞治元年(1362)創建当時の姿が残る仏殿。入母屋、檜皮葺、桁行3間の室町時代初期の大変貴重な建物。国指定重要文化財。天に向かって反り返った屋根がとても美しいです。>


tenonji108.jpg
<横から見るとこんな感じ。>


tenonji110.jpg
<そして、天恩寺の境内には、古い土塀が残っていて・・・>


tenonji111.jpg
<その土塀の瓦には菊の紋>


tenonji112.jpg
<菊の紋>


tenonji109.jpg
<足利一門諸家の家紋、二つ引両紋もありました。>


tenonji106.jpg
<江戸時代に組まれたという石垣ですが、まるでお城のようでもあります。>


tenonji113.jpg
<天恩寺への登り口の石柱。帝国特別保護建造物と書かれたこの石柱は、戦前に建てられたようです。>

以上が天恩寺のあらましでしたが、天恩寺の創建の逸話となっている建武2年の矢作川の戦いというのは、後醍醐天皇の命を受けた新田義貞と足利尊氏旗下の足利直義・高師泰が三河国の矢作川で布陣し、足利勢は敗れて遠江国へ退却した戦いのことです。

史料によると、矢作川の戦いで出陣し、足利軍を率いていたのは尊氏の弟の足利直義と高師泰となっているので、足利尊氏が岡崎の地で戦勝祈願したというのは、はてさてどうなんでしょうか?

創建の由来となっている矢作川の戦いですが、この戦いに敗れた足利軍は10日ほど後に、現静岡県駿河区で手越河原の戦いを行いましたが、これも南朝方の勝利で終わっています。そして、この一連の合戦の中に、“鷺坂の戦い”というのが三河であったとされ、それは現在の豊川市八幡町西明寺付近の地名に由来するといわれますが、豊川市篠束町にある篠束神社付近にも鷺坂の名がありました(神社の氏子が鷺坂会という名で活動しています)。

他にも鷺坂の名は、静岡県磐田市にもあって、ここで行われた戦いが“鷺坂の戦い”という説もあるようですが、鷺坂の戦いについては、どこで行われたのかが諸説あり、また、矢作川の戦いという合戦も、愛知県岡崎市の矢作川付近から静岡県の手越河原に至る広域な合戦のことだと思われます。後世においては、合戦自体の詳しい資料などが残っているわけでもなく、太平記などの記述を参考にするしかないのです。ちょっと横道にそれますが、国府がおかれた場所(豊川市と磐田市)に鷺坂と呼ばれる地名があるというのは面白いですね。

ちなみに豊川市八幡町の西明寺は南朝ゆかりのお寺で、長慶天皇並びに松良親王の位牌が安置されているそうです。目と鼻の先に住んでいたのにホントに知らなかったわん

もうひとつ疑問ついでに、天恩寺の創建について、「貞治元年(1362年)、三代将軍の足利義満がその遺言に従い建立した」となっていますが、1362年の時点では義満4歳で、将軍にもなってないんですけど・・・、とツッコミを入れたくなります(^_^;)

さて、お寺の伝承では天恩寺は北朝方となりますが、南朝を供養するお寺であるという考えと、三河から遠州地方にかけて展開する南朝方に睨みを利かせる拠点としての役割のお寺という考え方も出来るかと思います。

藤原石山氏の資料には、天恩寺のある地域は、作手街道の要衝の地であり、額田町の山中に南朝の残党が多く潜居したことから、足利氏も重要視し、天恩寺を建立して、南北戦死者の供養につとめると共に、南朝に味方した残党の台頭を抑えたのではないか。額田の山中には南朝方の皇子皇女をはじめ、戦死した犠牲者を弔う供養も多数散在しているとあります。

南朝方を供養するお寺といえば、今川氏によって1441年に創建された妙厳寺(豊川稲荷)だということですが、年代的には南北朝の争乱がだいぶ落ち着いてからの話になります。天恩寺の場合は、創建年代から考えると、南北朝真っただ中ということになりますので、供養だけというのは少し違うのかもしれません。

なので、南朝方に睨みを利かせる拠点として考えてみるのが、スッキリ来るかなと思います。

しかし、もう一丁、ひねりを利かせて考えてみると、南朝方の拠点だったのかな?とも思えてきます。

なぜそう思うのかというと、天恩寺の仏殿、あの姿かたちが、三河南朝御所、王田殿にあったとされる念仏堂にソックリな点がとても気になるからです。


nenbutudou002_20120928154846.jpg
<豊川市御津町の大恩寺にあった念仏堂。写真でも十分に分かると思いますが、この建物と天恩寺の仏殿はソックリだと思いませんか?!>

三河南朝御所・王田殿にあった阿弥陀堂を移築したのが大恩寺の念仏堂。こちらは桁行5間なので、天恩寺の仏殿より大きいですが、サイズこそ違え、室町時代の様式、屋根の形、雰囲気がホントにソックリです。どちらも室町時代の極上の逸品で、ひょっとしたら、施主か大工は同じかも知れないと思えてくるほどです


zusi002_20120930143945.jpg
<これは大恩寺念仏堂内の厨子ですが、天恩寺仏殿の内部にも、これとよく似た厨子がありました。>

江戸時代に作られたといわれる天恩寺の石垣も、本当は南北朝時代のことで、実は城郭のような役割だったのかも知れないと妄想してしまいます。

で、もうひとつ、ちょっと気になるのが、お寺の名前。岡崎の天恩寺、南朝に関係するとされる豊川市御津町の大恩寺と豊川市平井町の報恩寺(懽子内親王の伝説)。これらのお寺に“恩”という字があるのは単なる偶然なのかなぁ?

テンオンジ
ダイオンジ
ホウオンジ


onji002.jpg
<オンジ繋がりに何か暗号でもあるのだろうか・・・?と大変気になるべ。>

そんなこんなで、ややこしい南北朝絡みの話は色々ありますが、天恩寺はとても素敵なお寺でしたこれからの季節は紅葉もきれいだと思いますので、ぜひ訪れてみてくださいな

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テーマ : スピリチュアル    ジャンル : 心と身体

  1. 2012.10.01 (月) 01:31
  2. URL
  3. まーきち
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こんばんは

実は我が家のすぐ近所に七面神社がありまして、こちらのコメントに興味を持ち、お散歩ついでに(不謹慎な・汗)お詣りに伺わせて頂きました。身近に南朝ゆかりの寺社仏閣があるなんて、三河サイコー!!(またまた不謹慎な・汗)
  1. 2012.10.01 (月) 07:28
  2. URL
  3. かわいい花ちゃん
  4. [ edit ]

NoTitle

おはようございます。
一昨年に大恩寺の念仏堂を探して歩きましたが、焼失していたとは知らずにいました。
おかげで在りし日の堂を見られてありがとうございます。

私も、天恩寺の北朝説に付いては、後南朝方への信抑を
押さえる目的の為にそうしたものと思います。
この地方では
井伊家や奥山方広寺などが堂々と十六花弁の菊の紋を
使っているのと対照的に足利の家系では取って付けたように菊の紋を付けています。
平八稲荷の直ぐ北の須部家(足利方)でも足利紋の傍らに、ちょこんと菊の紋があります。
勢力的には南朝を滅ぼした足利も人々の心に残る南朝迄もは制圧出来なかったのですね。
この地方では今でも憎きは足利とゆう風潮が残ってます。
  1. 2012.10.01 (月) 14:25
  2. URL
  3. 東三エネ研
  4. [ edit ]

まーきちさんコメントありがとうございます。

ご訪問ありがとうございます。

七面神社と南朝が、日蓮を介して繋がるということは花ちゃんさんのブログで解明しました。

花ちゃんさんの記事を読まないと分からなかったことであります。

自分たちだけで調べても分からないことが多々ありますので、同好の士と交わることも新たな発見に繋がるのだなと、考えさせられる次第です。

向山霊園の片隅にあのような神社があるとは思ってもみませんでした。崖の下からだと分かりやすいですが、霊園方向からだと、ホントの隅っこのドン詰まりになるので、気が付く人も少ないのではないかと思います。

豊橋にも、意外と身近に南朝の足跡があるようです。

高浜市呉竹町の正林寺には、"呉竹の井"という井戸があって、これは南朝皇子の義良親王の遺跡といわれているそうです。

で、同じ名前のお寺が豊橋市松山の正林寺で、ここも吉田の三名水の一つである"呉竹の井"があるといわれています。

同じ名前のお寺に同じ名前の井戸があるという所からして、南朝の皇子の誰かにまつわる場所ではないかと思われます。

松山の正林寺は、七面神社からすぐ近くです。

七面というと、天恩寺の近くの岡崎市切越町にも"七面塚"というのがあるそうです。ここも南朝の遺臣にまつわる場所らしいです。

他にも橋良町にも伝承が残っているようですが、両方ともまだ未調査です(^_^;)

今後もよろしくお願いします(*^_^*)

  1. 2012.10.01 (月) 14:43
  2. URL
  3. 東三エネ研
  4. [ edit ]

花ちゃんさんコメントありがとうございます。

こんにちは。

昨日の台風は大丈夫でしたか?今日は後片付けで大変なことになっているのではないかと思われる中、コメント入れていただきありがとうございました。

大恩寺の念仏堂の跡は、駐車場の片隅で目立たないので、分かりにくいですよね。私たちも、最初行った時には全く気がつかなかったです(>_<)

平八稲荷の北の須部家というのは、北朝方の一族の末裔なんでしょうか。

その須部さんは肩身が狭いのかな?なんて思ってみたりして・・・(^_^;)

蒲郡市の南朝ゆかりのとある神社が、菊紋の瓦をなぜか漆喰で塗り固めて、隠しているかのような状態になっています。

これはまたブログで記事を書きたいと思っていますが、ちょっと変わった菊紋の変形の紋もあって、結構怪しげです。

人の心に残る南朝まで制圧できなかったというのは、その通りですね。

先祖が南朝に従ったり、味方して、その後割を食ってしまった人も多いようですが、権力に寝返って北朝方になった人よりも、志は尊く、それは今も大事に守り続けているのだと思います。
  1. 2012.10.01 (月) 18:00
  2. URL
  3. かわいい花ちゃん
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こんにちは。

都田の須部家は江戸時代からの須部家長屋門があります。
家紋は足利家と同じ丸に二の字です。
江戸時代の庄屋と思います。
しかし第一印象はとても暗い感じです。

三嶽城が在った三岳山には、宗良親王に随行した楠正成の子孫と足利系の子孫が土着して住んでいますが
楠木系の人々が南側の浜名湖が見渡せる風光明美な場所に住んでいるのと対照的に足利系は東向きの痩せた土地の斜面に住んでいます。
足利系の人達の方が山際の痩せた土地の厳しい環境に住んで、南朝系の人達が田がある肥沃な土地に住んでいます。

足利自身は思いを達しそれなりの暮らしをしたのでしょうが、この地方に派遣され土着した北朝の者は、南朝を本当の天子様と崇める人々から少なからずの迫害を受けていたことと思います。

特に徳川家の三河と井伊家の遠州地方ではその傾向が強かったと思います。

鴨江城から大平城を落とした足利の家臣の高 師泰
兄弟の傍若無人振りは山賊と同じであったそうです。
近隣の農家、民家からの略奪と女への暴行は
北朝勢に対する大きな恨みとなってその後の
支配に大きく影響したものと思います。

  1. 2012.10.01 (月) 21:36
  2. URL
  3. 東三エネ研
  4. [ edit ]

こんばんは[e:69]

花ちゃんさん。

出ましたね~、高師直、高師泰兄弟。悪逆非道振りが歴史に名高いですね。

兄の師直は、天皇に対して「天皇などは木彫りの人形か金の像でもおけばよい。天皇はどこぞに流してしまえ」なぁんて言ってますね。

おまけに人妻に横恋慕し、ラブレターを出すのだけど、そのラブレターはゴーストライターの代筆で(代筆はかの有名な徒然草の吉田兼好)。しかし、見事に振られてしまって、怒った挙げ句に、人妻の亭主に謀反の罪をかぶせて一族を滅亡させてしまった…。

権力を傘に傍若無人ぶりが炸裂しています

そんな高一族も、因果応報でしょうか、足利幕府内の権力闘争により一族は滅亡してしまいますが

こんな師直兄弟のような超現実派の武士が当時はたくさんいたようです。

王政復古の理想主義者と現実主義者の思想的な戦いも南北朝争乱の一つにあるように思います。

ただこれは権力者同士のイデオロギーの戦いであって、民衆は権力者に従うしかないと思いますが、滅びゆく南朝に何となく肩入れしたくなる、いわゆる判官贔屓があるような気がします。

楠正成が戦前は人気があったようで、これも滅びていった側に対する“ものの哀れ”が日本人のメンタリティに響くのでしょうか。

最近崩落してしまった小俣の里にも、ものの哀れを感じてしまいます

花ちゃんさんのコメントにあったような、南朝の末裔が日当たりの良い場所で暮らせたというのはホッとする話ですね。

地元ならではの面白い話で、楽しく読ませていただきました。ありがとうございました

  1. 2012.10.02 (火) 13:27
  2. URL
  3. かわいい花ちゃん
  4. [ edit ]

こんにちは。明日、小俣に行ってきます。

台風も無事に去り
さあこれから仕事と思いきや現場が水浸しで乾燥待ちです。
明日ももう1日は入れそうもないので
明日、思い切って小俣に再度行ってくる予定です。
崩れた場所を迂回して山を降りれるとの情報を得ました。
道中に雨による崩れもあるかもしれませんが
行ける所まで行ってみようと思います。
秋が深まると熊も心配ですし冬場はもっと厳しくなります。

行って熊にやられるか谷に落ちるか分かりませんが
そうなればそれまでの価値の者だったと思い、行ってきます。
またご報告いたします。
  1. 2012.10.02 (火) 15:48
  2. URL
  3. 東三エネ研
  4. [ edit ]

まさに雨上がり決死隊!!

花ちゃんさん、こんにちは。

わわわっ、明日小俣の里に入るんですか?!

道なき道もしくは獣道を行くことになるのでしょうかe-351

台風の後なので、がけ崩れや地盤の緩みなどが気になります。くれぐれも無理をしないように気をつけてください。

行けるところまでしか入れないのならば、それはそいう定めだということでしょうか。

無事に行って来られることを祈りつつ、ご報告をお待ちしています。

でも、ホントに気をつけてくださいね。



  1. 2012.10.03 (水) 18:38
  2. URL
  3. かわいい花ちゃん
  4. [ edit ]

雨上ガリ決死隊 無事帰還ス 小俣無事ヲ確認

分校も水路も無事でした。
熊には出ませんでしたが被害はデジカメ1台と
山ヒルに食われが1カ所です。
今回は凄く危険でした。
一人で入れるレベルを越えています。
ブログにアップしたので見てください。
まずは帰還報告まで。
  1. 2012.10.03 (水) 19:38
  2. URL
  3. 東三エネ研
  4. [ edit ]

祝・無事帰還!

花ちゃんさん。

ご報告ありがとうございます。

無事に行ってこられて良かったです。安堵しました。本当にお疲れ様でした。

小俣の里も無事だったんですね。ブログを拝見すると、かなり土砂がかぶっているようにみえますが、水路は見事なまでにきれいに残っているようですね。びっくりです。

実は、今日、花ちゃんさんが小俣に行かれるということで、私たちも京丸の方へ出掛けてみたのです。

といっても、とりあえず今日は、どんな山道なのかの下見&車で行けるところまでということで…。

発電所からの狭い山道を行くと、対抗から材木を積んだトラックが来てしまって、すれ違いにビビりました

出掛けた時間が遅かったこともあり、石切バンガローの手前まででUターンしてしまいました

豊橋からだと3時間以上はかかりそうなので、今度行く時は早起きしないといかんですね

ヒルにやられると結構しつこくカユイらしいですね早く治してくださいね。

険しい道のり、本当にお疲れ様でした。
  1. 2012.10.03 (水) 20:49
  2. URL
  3. かわいい花ちゃん
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そうですか石切りまで行きましたか

そうですね
石切りバンガローを少し行くと未舗装路になり其処から
林道のゲートまで20分位掛ります。
ゲート前に車を置いて京丸まで歩いて小一時間ぐらいですね。
京丸の方が熊に遭遇する危険が多い(広葉樹の林が多いので)ですから
夕方に近くになって入るのはとても危険です。
クマよけは音楽などの音の出る物を持って行った方が良いですよ。ちなみにAMラジオは入りませんので短波付きのを持っていく方が良いです。
鈴はあまり効果が無いそうです。
小俣に比べ京丸は大木が多くより神秘的に感じます。
今日は虫よけのスプレーを、ふんだんに掛けて入ったのですが沢に落ちて水に濡れて効果が落ちたようで
腿の辺りに一匹やられました。
痛いとゆう感覚が全く無くて帰ってズボンを脱ぐと大出血の跡でした。ヒルは体温で固形になってました。

小俣が無事でしたのでまずは一安心です。
分校の前にお酒を供えて何時もの様に分校の窓ガラスが割れた所から顔を入れ中に居る皆に「只今帰りました。」と言って触れ合ってまいりました。
帰りはキンモクセイの花の香に包まれ清々しく走ってこれました。
  1. 2012.10.04 (木) 12:50
  2. URL
  3. 東三エネ研
  4. [ edit ]

なるほどです。

花ちゃんさん。

京丸はそんな感じなんですね。

ゲートまではもうちょっとだったんですね。何せ、初めて行った場所で、362号を曲がって最初の小石間隊道でいきなりビビってしまいました。

「車一台分しか巾がないのに、こんな長いトンネルをどうやってすれ違うんだ?!入って行っていいのか???」と焦りましたe-330

発電所からの石切、京丸方面への分かれ道は、こんな方向に入って行っていいものかと、これもまた焦りましたが、道路の管理のオジさんたちがいたので、とりあえず突っ込んで行きました。

そこからどれくらい時間がかかるかが読めなかったのと、トラックのすれ違いで挫折しました。もうちょい頑張ればよかったですね。

スーパーカブは、結構な場所まで突入できるので、便利で最強ですね!

しかしながら、いい予行演習になりました(^^)

あのあたりの山の感じは、三河の山に似ているような感じですが、三河より明るい感じがしました。三河の山は渓谷が深いので、ちょっと暗い感じがします。

気田川は初めて見ましたが、なかなか雄大な流れで、いいところですね。

小俣の事を心配して訪れてくれた花ちゃんさんに、そこにいる御魂たちはきっと喜んでいてくれるでしょう。
  1. 2012.10.04 (木) 19:06
  2. URL
  3. かわいい花ちゃん
  4. [ edit ]

こんばんは。

今日は筋肉痛と疲労で大変でした。
あのトンネルは嫌ですね。
ダンプや丸太を積んだ大型も通るので冷や冷やしますが
地元の人は平然と通ってます。
石切りの手前の橋を右に上がって行くと杉の変則な交差点に出ます。そこを左に曲がると小俣方面です。
石切に入る手前に古い石の道案内がありその左が尹良親王の木像がある御堂です。
右に下りって川沿いに行くと昔の小俣への道ですが現在では草木に覆われ無くなっています。

京丸林道のゲートからは歩いてになりますが
マウンテンバイクがあれば行きも帰りも随分楽になります。(滑落には要注意です。)
京丸には右下に石切川の渓流を見ながらの道中ですので、小俣林道より楽しいと思います。
田口から出てきた知人も言っていましたが
遠州の山の方が明る気持ち良いそうです。
東三河の山々は戦国時代の激戦地が多いので重苦しい空気があるのかもしれませんね。

小俣の写真を鑑定してくれた四国のある神道を修行されている方が昔に電々公社の技術員をしており
東三河から信州の山奥の幹線や無線の保全を夜中に、していると、よく言われる武者の行列が本当に現れると言っていました。

親が小俣の出身で浜松市街地で居酒屋を経営しているご主人も言っていましたが小俣には夜になると数々の魑魅魍魎が現れ不可解な事が起こるそうです。
神聖な神霊に交じり魑魅魍魎も多く集まる里の様です。

参考までに下記のURL 国土地理院の1976年の小俣の
航空写真です。
あの水路の線が写っています。
上に西側から小俣川に下りる沢があります。
其処からの水道の水路かとも思いますが水路の途中に
水汲み場の様な施設が一切ないのが不思議です。
まるで現代に見る大雨時の緊急排水路の様ですが
この地形にそのような水路は必要ないと思います。
謎は深まるばかりです。

http://w3land.mlit.go.jp/Air/photo400/76/ccb-76-21/c6a/ccb-76-21_c6a_3.jpg
  1. 2012.10.05 (金) 17:22
  2. URL
  3. 東三エネ研
  4. [ edit ]

こんにちは。

花ちゃんさん。

南朝の伝承のある場所は心霊スポットになる傾向にあるように思います。

豊橋の嵩山の浅間神社も、別名首狩神社と呼ばれて肝試しに使われているようですね。

浅間神社の祭礼は7月末の土日の行われるようです。南朝供養の施餓鬼が始まりとされる馬見塚の専願寺は、7月末日に施餓鬼会を行っていました。両社には関係があるという話で、この神社と寺は、かつては同じ日に祭礼、施餓鬼をやっていたそうです。

浅間神社は、当ブログで、以前、水の神様で紹介しましたが、南朝の伝説もかなり関係しているようですが、紹介した当時は、南朝の事を深く知らなかったので、南朝の伝承と絡めた記事にはなりませんでした。

浜松の賀久留神社も心霊スポットといわれているようですが、ここも南朝と関係があるのではないでしょうか。

また南朝伝説の切り口でこれらの場所も検証してみたいと思います。

航空写真、拝見しました。

画面の下のあたりが里になるのでしょうか。

稜線から白い筋が蛇行しながら下へ行っているのが水路でしょうか。かなりの距離のように見えますが・・・。

  1. 2012.10.05 (金) 18:27
  2. URL
  3. かわいい花ちゃん
  4. [ edit ]

こんばんは。

小俣もそうですが
悩みや迷いごと仕事の事などで考えが出ない時など
御詣りすると、その後の展開が開ける神社や場所があります。
今回の小俣の御詣りで今日、問題が一つ解決し、ありがたいことに大きな仕事の依頼もありました。

そしてその神社の一つが賀久留神社です。
昔に直ぐ近くで会社の工場と事務所を構えたこともあり
縁を感じていました。
最近でもちょくちょくと御詣り致しています。
そしてもう一つが 都田の須倍神社です。
この神社は都田が元々、伊勢神宮の庄園で在ったため
出来た神社で天照皇大神を祀っています。
この2軒の神社の御神力にはとても感謝しています。

航空写真の真ん中の白いすじが小俣林道でそれを上がって行くと広場があります。
この広場から左下に向って沢が流れています。
沢のやや左に小俣に入る道がありその先に2軒の民家が写っています。
左側が藤原家です。
その左の緑色の広場が分校の運動場です。
またその左に2軒の民家がありその横が水路です。
水路の左に大きな2軒の民家跡があります。
とうもそれが御所跡ではないかと思う次第です。
  1. 2012.10.06 (土) 10:14
  2. URL
  3. 東三エネ研
  4. [ edit ]

位置確認!

花ちゃんさん。

航空写真の説明ありがとうございました。位置確認できましたe-466

水路の左側の民家跡、とても気になりますね。今はもう入ることは困難なのでしょうか。

御所跡だったとしたら、何か凄いものが見つかりそうな、また何かを感じそうな気もしますが・・・e-330 








  1. 2012.10.06 (土) 14:56
  2. URL
  3. かわいい花ちゃん
  4. [ edit ]

入れますよ。

こんにちは。
2軒の民家跡まで入れます。
東の民家跡は広場の様になっています。
西の跡は、杉林になりっていて製茶機の残骸や戦前または戦後間もない発動機などが数機横たわっています。
家屋の残骸は腐って残っていません。
しかしこの辺りに突然変異の黒マムシが数多く居ます。
自分が直ぐ近くまで接近してしまっても不思議と他のマムシの様に威嚇してきません。
色が黒いだけで模様や頭の形は正真正銘のマムシです。
まるで静かにこの場所を守っている様な印象です。
もう一つ不思議な事があります。
一昨年に知人と二人で入った時に
知人を分校で待たせ水路を越えて奥に入りました。
奥を散策して写真撮影をして戻りましたが
自分の中では20分位と思っていたのですが
実際は1時間以上経過していました。
水路より奥では時間の進み方が違うようですし明らかに空気が違います。

とても神秘的で不思議な空間です。
時間が感じられません。

  1. 2012.10.06 (土) 15:02
  2. URL
  3. かわいい花ちゃん
  4. [ edit ]

参考までに

昭和20年代と思われる
石切小学校小俣分校の北西よりの写真のURL です。

http://yama-machi.beblog.jp/photos/school/komata254.html
  1. 2012.10.06 (土) 16:48
  2. URL
  3. 東三エネ研
  4. [ edit ]

何かありそうですね。

花ちゃんさん。

水路の奥の民家の方へも行かれたんですね e-287

時間の流れが違うような空間・・・、その場所に入り込んで、瞑想しているような状態になったのでしょうか。

瞑想状態になると、脳波が落ちて時間の感覚が変わり、ホンの10分ほどと思っていたら、実は1時間近くも経過していたということがあります。

ヒーリングでもこのようなことがあって「30分も時間が経っていたなんてビックリした」という方がいらっしゃいます。

小俣の里の場には、瞑想状態に導くような波動があるのかもしれませんね。

分校の周りには人も写っていて、山奥の里の生活を垣間見せてもらった気がしました。

航空写真で小俣の里の位置が分かったので、それを起点にちょっと調べてみました。

すると、吉野の自天王の宮があったとされる場所、伊勢神宮、小俣京丸、富士吉田市や都留市方面の南朝の宮伝承地などが、見事にあるライン上に並びました。

たまたま偶然並んだにしては出来過ぎているような気がするので、何か意図があるように思えてしまいますe-330
  1. 2012.10.07 (日) 09:22
  2. URL
  3. かわいい花ちゃん
  4. [ edit ]

おはようございます。

自分では15~20分と認識していました。
一緒に同行した人が、その前の年に脳梗塞で阪神不随に
なった人で片道5キロも歩いて分校まで来れたのも奇跡的でした。
奥まではとても入れないので、自分だけが行きましたが
一人の時に何かあってい行けないと急いで廻りました。
いっもなら、あんな山道を掛け上がったりすると息が切れて苦しくなるのですがその時は
全く疲れを感じませんでした。
急いで帰ってくると知人の姿が無くもしやと思いましたが
帰りの時間が掛ることを察して少しでも帰っておこうと
里道を歩いていました。
僅か15分がなぜ待てなかったかと問うと
もう1時間以上経過していることを聞かされて驚いた次第です。
このときは知人が腕にしていた黒水晶が白く変色したり
無風の状態なのに部分的に風が起こったり
急に直径 2~3mの上昇気流が起こり、新緑の木の葉を散らしたりしました。
知人も、誰も居ないのに人の鼻歌の様な声を聞き
小俣林道の過っての人里跡では青白い煙の様な物を見たと言っています。
そして薄暗くなった小俣林道の出口付近で
ツチノ子の様に胴体の真ん中が異常に太いマムシ柄の蛇が道の真ん中に横たわっていました。
近づいても頭を山側に向けて威嚇も逃げもしませんでした。
普通に生きているのは確認出来ました。
帰ってパソコンで調べるとやはりマムシであったことが分かりました。
今では小俣の魂がマムシに化身して見送りしてくれたと解釈しています。

最初に一人でバイクで入った時も滝の中に人影が現れ見送ってくれました。

地図も測量機も無い昔に一直線上に数々の場所が
結ばれるのは、当時も霊脈に導かれその場所に腰を下ろしたものと思います。
一直線上に並ぶ位置には気やパワーの流れが出来て
先祖霊や高貴霊の浄化作用が働いているのだと思います。
偶然では無く霊脈による意図的な結果と思います。
  1. 2012.10.07 (日) 15:46
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  3. 東三エネ研
  4. [ edit ]

凄いですね。

花ちゃんさん。

スピリチュアルやエネルギーを追っかけて、アチコチ出かけていますが、なかなか花ちゃんさんのような凄い体験は出来ないですe-330

黒水晶は天然の物が少なく高価なため、一般的には水晶に放射線をかけて黒くしているそうです。

白く変色したというのは、もしかするとこの地の強力な浄化作用によって、変化したのかもしれないですね。

一直線上に並ぶ南朝の足跡はまだ調査中なんですが、もしかしたら、小俣京丸はその中心といってもいいような場所のようです。

富士方面の文献を漁って、だいぶ南朝ラインが見えてきました。

富士文書(宮下文献)というのは、よく分からないところもありますが、全部が偽書とは言い切れないような気がします。

京丸には、マムシ、熊、スズメバチの脅威がなくなった12月に行けたらと思っています。

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