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東三河エネルギー研鑽会の探求

穂の国東三河を中心に、三遠南信の歴史と謎、エネルギーを探求しています。またブログタイトル変えちゃいました。

  1. 隠れ南朝伝説
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南朝リレーその2~皇女の足跡~

さて、前回の南朝リレー1でチョロっと話が出ました柏木の浜と柏木神社。

たまたま同じ名前の神社になっただけじゃないの?と思ってしまうところですが、同じ名前や字が違っていても同じ発音になっている場合、何らかの関係があることが多いので、一度調べてみる必要があって、注意しないといけないのです

柏木の浜は、浜と名がつくように水辺なのですが、同じ名を持つ柏木神社というのは、柏木の浜から7~8キロも離れた山里にあるのです。海と山、これを見ても関係があるようには全く思えないのですが、ドグオ氏が頭をかきむしりながら調べてみると、また新たなキーワードが出てきました

前回のブログなどで何回も紹介しておりますが、小坂井の柏木の浜は、菟足神社の祭神の菟上足尼命(うなかみすくねのみこと)が、暴風の末にこの浜に到着したという伝承があります。この吹き荒れる風から、菟足神社のお祭りは“風祭り”とも呼ばれていて、これが菟足神社に関する伝説の定説となっています。

ところが、地元で三河の南朝を研究されていた藤原石山(ふじわらせきざん)氏の書物によると、菟足神社や柏木の浜には南朝の軌跡が残され、風祭りのいわれが南朝の伝承にまつわるものではないかということが記されていました。

また、そこには、後醍醐天皇の皇女・懽子内親王(宗良親王の異母妹および北朝の光厳天皇妃)の足跡も見え隠れしています。

藤原石山氏の説をざっくりではありますが、説明しつつ、懽子内親王、柏木の浜、柏木神社などについてみていきたいと思います。(石山氏の説は色文字)

●篠束城の西郷弾正が、懽子内親王を蒲郡市西浦の無量寺から柏木の浜にお連れした。

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<篠束城の跡>
菟足神社のお隣が篠束地区で、畑の際に篠束城跡を説明する看板が立っています。西郷弾正(さいごうだんじょう)の「弾正」とは役職名のことです。

西郷氏というのは、肥前国高木郡西郷を出自とし、北朝に味方をしていた仁木義長に従う武将で、仁木氏が三河の守護職になった時に、守護代として三河にやってきたのが三河の西郷氏の始まりとされる。仁木氏が南朝支持に代わるとそれに従い西郷氏も南朝方に付いた。豊橋の石巻へ移住した西郷氏の7代目の孫が篠束城主であったらしい。懽子内親王(かんしないしんのう)をお連れしたという西郷弾正が何代目の誰なのかはイマイチ不明です。

●平井の浜の宮を報恩寺境域に移された。報恩寺には和泉式部の供養塔がある。

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<報恩寺にある和泉式部供養塔>
平井の浜の宮というのは、おそらく柏木の浜のことを指しているのかな?懽子内親王の院名「宣政門院」から、宣(せん)は泉(せん)に通じ、懽子内親王=和泉式部とみることもできるという石山氏の説は、懽子内親王を和泉式部の伝説にかぶせてあるということなのか、もしくは、懽子内親王は泉様と呼ばれたという話から、彼女の伝承が和泉式部伝説になってしまったということなのでしょうか。

●小坂井町の五社稲荷は、五世紀頃の古墳で、菟上足尼命を葬った古墳とも伝わる。この五社稲荷の山の南麓には、年中湧き出す泉があり、泉様と崇敬した懽子内親王の祠を、稲荷の山に祀ったのが五所稲荷で、昔は御所稲荷とも云ったらしい。

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<五社稲荷に隣接する弁天。かつて水があっただろう形跡あり>
菟足神社と五社稲荷の間には、国道一号線が通っています。現在は、国道一号線で分断されるような地形になっていますが、かつて、五社稲荷と菟足神社一帯は地続きの丘陵地だったそうです。掘割にして一号線を通したため、湧水が出なくなったという話です。御所稲荷→五所稲荷→五社稲荷と変遷したってことのようですね。

●菟足神社の若宮社に古木の銀杏がある。銀杏は「公孫樹」ともいい、南朝の皇子、皇女にゆかりのある地(信州や尾張など)では公孫樹を御神木としている。懽子内親王も尼となって諸国をめぐられた折に、銀杏を蒔いて記念樹にしたと伝わる。

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<菟足神社の若宮社にある銀杏の古木。大きくて立派な木です>

●菟上足尼命を祀る神社ならば、「菟上神社」と書いて「うなかみじんじゃ」としてもいいところを、「菟足」と表現するのには、兎年生まれの懽子内親王を、菟上足尼命の御再現(垂迹)として、「菟垂さま→菟足さま」として尊崇、合祀したことに起因するのではないか。そして、南朝皇女の懽子内親王を菟上足尼命とし、「菟足さま」といってこの地方の人々は崇敬&信仰したのだが、南朝の敗北で南朝にまつわる伝説は史上から抹殺されることとなり、古代の菟上足尼命の伝説のみが伝わることとなったのだろう。

と、まあ、こんな内容のことが書かれているのです。

さて、次に、山里にある柏木神社に関係する、豊川大木の進雄神社と豊川長草の素盞嗚神社をみてみます。

豊川市大木進雄神社。この神社のすぐお隣の西原町松葉という地区が尼御所と呼ばれた地域だとのこと。尼御所については、三河国司の大江定基の女官が隠居した場所だという伝承もあるようですが、藤原石山氏は、宣政門院懽子内親王に関わる場所ではないかと説いています。

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<大木進雄神社。鳥居の向こうの森の中をしばらく歩くとその先に・・・>

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<神社の境内が広がります。この西側に柏木神社が鎮座しています。>


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<神社のすぐ近くにある金剛寺。写真はお薬師さんを祀るお堂>

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<お寺の階段のすぐ下には、きれいな水の湧く場所がありました。これも泉様に繋がる足跡でしょうか。飲んでいいのかどうかは不明です。>

そして、南朝リレーその1で紹介した、美佐々木の念仏塚古墳のすぐ近くにある豊川市長草の素盞嗚神社へ。

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<長草の素盞嗚神社>

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<長草の素盞嗚神社境内にある大きな大きなクスノキ。樹齢300年以上はあるようです。>

奥へと行ってみると、末社が並ぶ中に、柏木神社がありました。

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<末社 柏木神社>

で、いくつかある末社の中にこんな神社が・・・。

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<杢呂子神社と書かれた札は、はてさて、何て読めばいいのでしょうか?>

藤原石山氏の本の中には、長草の素盞嗚神社には「杏呂子神社」があると書かれていました。

藤原石山氏によると、南朝は、後醍醐天皇の後、正副二系統の天皇の流れがあるとしています。北朝からの執拗な討伐の目を欺き、南朝の本当の流れを根絶やしにされないために、2系統に分けたのではないかと思いますが、この正副が入り乱れ、各地に南朝の皇子や皇女らが散らばっていたために(後醍醐天皇は超子だくさん)、南朝の実態が訳わかんない状態になっているのかもと想像します。

で、正統の天皇を守るために身代わりになったのが懽子内親王で、杏呂子神社の「杏(きょ)」は「虚」を意味し、「呂」は繋がるという意味から、身代わりを祀る神社であると説いているのですが、ちょいと意味不明で理解に苦しい感じもあるような・・・ 南朝にゆかりの地には銀杏が御神木にされていることや懽子内親王が銀杏を各地に蒔いたという伝承があることなどが、「杏呂子神社」の「杏」にかかるってことなのかなぁ?

ん?でも、実際に神社の札に書かれている字は、「杢呂子神社」になっていて、「杏呂子神社」ではないんですね。似てるけどちょっと字が違う。あれ?どういうことでしょう?

「神社を中心としたる宝飯郡史」という本によると、長草の素盞嗚神社の末社は、「杢呂子神社」と記録されていて、神社の札に書かれたものと同じでした。今のところの調べの中では、「杏呂子神社」と表記された物は見つかりませんでした。

「ほんじゃあ、“杢呂子”ってどういう意味がるのだろう?」ということで、ドグオ氏がまたまた頭をかきむしりながら調べてみると、漢字をそのまま読むと「モク・ロ・シ」と読めることから、ここから転じて、「ムクロジ」という植物のことではないか?ということがみえてきました。

では、どんな物なのかというと・・・、

「無患子(ムクロジ)」は、中部地方以西に分布し、高さ約10mに達するムクロジ科の落葉高木。果実の皮は漢方に使われたり、サポニンを多く含み泡立つので石鹸にしたり、泡が消えにくいため液体の消火器にも使われている。種子は固いので、中国では唐の時代から数珠の玉に使われ、日本では羽子板の羽根の玉に使われる。庭園や神社に広く植栽される。

名は、ムクロジ科の別植物の「モクゲンジ」の中国名・木欒子を、誤ってムクロジにあてたため、「木欒子」の日本語読みモクロシからムクロジになったという。また、昔、神巫がこの木で作った棒で鬼を殺したので、鬼を追い払い、患いを無くすということから、無患子という。

1661年に生け花の参考書として刊行された「替花伝秘書(かわりはなでんひしょ)」では、戦さから帰陣の折にいける花に、楠(くす)と添え物に「むくろ木(ムクロジ)」をあげている。


・・・と、植物と名前の由来や読み方について、こんな説明がされていました。

ちょっとややこしい感じもありますが、「木欒子」の読みがモクロシとなり、そこからムクロジになったという点から考えてみると、「杢呂子」は、素直にそのまま「モクロシ」と読むことができるので、結果、「杢呂子」はムクロジのことを表しているのではないかと推理できるのです。そして、1661年の生け花の参考書にあるように、クスノキの添え物として、ムクロジを活けるという作法があるらしいこともみえてきました。

どういう意味で、クスノキとムクロジをセットにして花を活けるのかが分かりませんが、長草の素盞嗚神社をこんな視点から眺めてみると、クスノキと一緒にムクロジがセットされていることが、何らかの暗号になっているようにも思えてきます。

クスノキといえば、南朝の忠臣・楠木正成を代表とする一族を暗示させる木です。南朝の伝承のある地域では、クスノキが植えられていることが多く見られます。

戦さから帰還の折にクスノキと一緒に添えられるというムクロジは何を表しているのでしょうか?

ムクロジを、「むくろ=骸」と見てみると、「杢呂子神社」の「杢呂子」は誰かの亡骸を表していて、その亡骸こそが、長慶天皇の身代わりになって自害された懽子内親王ではないかと。そして、クスノキは南朝に忠誠を誓う忠臣を象徴するものとして、皇女を守るかのようにクスノキが植えられたのではないかと推理するのであります。

一連の話を表にしてみると、こんな感じです。

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三つの神社、小坂井の柏木の浜、長草、大木の柏木神社の三つの神社をつなぐキーワードは、懽子内親王の伝承とみることができるように思います。

石山氏の調査によると、南朝には正と副の流れがあって、正統の天皇を守るために、副の方の天皇が世間で認められた天皇として仕立てられていたということです。で、本当の本当の正統の南朝の天皇側は、秘密の大本営に隠されていて、実は表だった情報としては出ていないとのこと。

北朝は南朝を根絶やしにする目的で、激しい討伐をしていたそうなので、南朝側も必死で各地を転々とし、潜伏していたようなのです。

で、その副の側にいたのが、後醍醐天皇の皇女・懽子内親王で、北朝から狙われ危ない状態であった正統の流れである長慶天皇をお守りするために、長慶天皇が亡くなったかのように見せかける目的で、自らを犠牲にし自害したということなのです。

柏木の浜に上陸されたという懽子内親王。柏木の浜といえば、菟足神社の風祭りなんですが、実はこのお祭りのもう一つの解釈として、副の皇女、兎年生まれの懽子内親王を悼み、副から吹く、吹くといえば風に転じ、風祭りになったとみることもできると石山氏は書いています。

しかし、南北朝時代よりも前に書かれたとされる宇治拾遺物語には、大江定基が、「菟足神社の風祭でイノシシがいけにえになるのをみてうんざりした」ということが書かれていて、ここの中で「風祭」と記されていますので、「副→吹く風」というのは、風祭りになぞらえて付会したものでしょうか?

ところが、「風祭」の記述がみられるとされる宇治拾遺物語や今昔物語の成立年代は、宇治拾遺物語が1213年~1221年頃、今昔物語が平安末期頃というのが定説になっていますが、もう少し時代が下がるのではないかという話もあるようです。

懽子内親王が亡くなったのが1362年とされています。宇治拾遺物語の成立年代からは100年ほど経過していますが、宇治拾遺というのは読んで字のごとく、拾い集めた物語集なので、後から入れ込んだということも考えられるかもしれません。一方、今昔物語は、編纂から世に出るまでの間(1120年代~1449年)、300年間ほど死蔵状態だったといわれ、また、物事が明らかになった時に随時加筆できる形の文章になっているようです。

昔の書物というのは、写本を重ねて伝えられてきています。風祭という記述が、原本に記されていてなおかつ年代も特定できる形になっていればいいのですが、その点が不明なので、石山氏の説をこじつけ話と言い切ってしまうこともできないなとも思うのですが・・・。


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さて、新たな疑問が出てきました。

大木進雄神社の西側にあるという柏木神社ですが、「flow Trip -archive-」というブログによると、祭神は「蛭子(えびす)神」と書かれています。山の中の神社に蛭子神?山里で水死体があがったことがあるってこと?なんて疑問がわきますが、「蛭子=水死体」の意味もあるので、まあ、これも亡骸ともとれるのかな?なんて思います。

でも、蛭子の状態の亡骸と考えると、柏木の浜に着いた懽子内親王ってどうなっていたの?という疑問も膨らみ、ますます訳の分からない謎かけの世界にはまっていく気分です

西宮えびすなどの蛭子神を祀る神社では、柏の神紋が多く使われています。ここから蛭子と柏木神社の柏が関係してくることが分かります。南朝の御所であったといわれる王田殿から大恩寺に移築したとされる阿弥陀堂(平成6年火事により焼失 )の天井には、菊紋と一緒に三つ柏紋が描かれています。この柏紋と柏木神社との繋がりや柏木の浜にも柏の木が三本植えられているといった、新たな謎が浮上してきました。

何かを隠すための巧妙かつ緻密な仕掛け。それを関係者、そして、後世に伝え、南朝の復活のその時のための、壮大な暗号、もしくは、呪詛、魔法陣でも施してあるのだろうか???なんて、妄想が膨らんでしまうのでありますが、あまりにも分からなさ過ぎて、結果的に隠した骨を忘れるワンコのような状態になっているような気もする・・・

ということで、次は王田殿の痕跡を追ってみたいと思います


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