B フレンズ

穂の国東三河を中心に、三遠南信の歴史と謎、エネルギーを探求しています。ブログタイトル改めました。

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  1. 意外な歴史
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龍の神社へ初詣

2012年が明けてはや3週間が過ぎてしまいました。遅ればせながらですが(^_^;)、新年明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願い申し上げます

さて、今年は辰年ですね。辰=龍ということで、愛知県岡崎市の岡崎城内にある「龍城神社(たつきじんじゃ)」へお参りに行ってきました。

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岡崎城のすぐお隣にある龍城神社は、東照宮の一つで、徳川家康・本多忠勝・天神地祇・護国英霊が祭神として祀られています。

1455年、岡崎城を築城した際に龍神が現れ、城の井戸から水を噴出させながら天に昇って行ったという龍の井があります。この井戸は徳川家康が誕生した日の朝にも金龍が昇天し、吉兆の事あるごとに龍神が現れたといわれているそうです。

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すぐお隣の岡崎城の入り口には、こんな看板も。

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名古屋城の「おもてなし武将隊」は有名ですが、岡崎城にも「葵武将隊」なるものがいるようです
*武将隊の写真が、ぶしょったい(三河弁)です。すんません(^_^;)

さてさて、徳川家康といえば、この岡崎城で生まれたということで、岡崎公園内に「初湯の井戸」があります。徳川家康の先祖の出身地といわれる豊田市の「松平郷」にも徳川家康が誕生の折りに「初湯につかう水をくんだ井戸」なるものがありました。

「徳川家康=岡崎、三河の武将」というのが定説になっていますが、前回のブログでもちょっと触れましたが、徳川家康と松平元康が戦ったという話があり、実は、この二人は全くの別人で、どこかの時代に入れ替わっているのでないかというそんな裏話的なものを見つけました。

なぜ私たちがこんな裏話に興味をそそられたかというと、パワースポット巡りと称し、あちこちの神社仏閣などを巡っていると、徳川家康に関する妙な逸話が残っている場所に何箇所か遭遇したからです。

●静岡県袋井市の可睡斎にある「徳川家康が敵に追われて、寺の機転で隠れて助かった岩穴」。
●静岡県の菊川には、敵に追われた家康が、恐怖のあまりにオナラをしてしまい(切な屁というらしい)、そこから名づけられた「へっぴり坂」というのがある。
●浜松市には「負けて逃げる途中に、あまりに腹が減ったために茶屋で餅を食べていたら敵に追いつかれて、慌てて逃げたために餅代を払わず無銭飲食し、餅屋のばあさんに追いかけられて代金を払った」という場所がある。
●三方ヶ原の戦いで、武田信玄に敗れた徳川家康は、脱糞しながら、まくれて浜松城に逃げ帰った(これは定説ですが)。
●岡崎市の山中八幡宮に、三河一向一揆で徳川家康が敗れて逃げ隠れた「鳩ヶ窟(はとがくつ)」という洞窟がある。

これらの話を耳にする度に、「この人は静岡でやたらと敵に追われているけど、何で?何をしとったの?」とか岡崎の山中八幡にも隠れた穴があるのを見て、「ここでも追われて隠れたのって何で?」と引っかかりを感じていたのです

定説にある武田に敗れた話は史実だと思いますが、それ以外の各地に残る逸話は、あまりに情けないというか、弱いというか・・・

三河の一向一揆というのは、家康が三河に地盤を築いている最中のことなので、命からがらというのは何となく納得はいきますが、遠州地方に残る「追われて逃げ隠れた」という逸話は、ちょっと変な気がするのです。家康が浜松城を拠点として遠州を支配し始めている時なので、そんなに追われるようなことがあるのだろうかという疑問が湧いてきます。

もっと分かりやすく言うと、この当時の遠州地方は今川家が滅んで、支配者がいない状態、空き家状態なのに、なんでそんなピンチを何度もしなければいけないのか?

三方ヶ原の敗戦の逸話が形を変えて各地に伝わったというのは、ちょっと苦しい気がするし。

一番情けないと思うのが、餅を無銭飲食してしまったことですが、これは三河と遠州を支配するれっきとした大名がするようなことかなぁ???まるで志村けんのバカ殿のコントのようです

トロイの木馬にもあるように、シュリーマンがトロイア戦争の伝説をそのまま信じて、発掘できたように、伝説となっている話というのは、必ず元になっている話があると思っています。「火のない所に煙は立たず」という感じで、徳川家康の逸話にも何かあるのではないかと、何となく疑問に思っていたのです。

八切止夫(やぎりとめお)という名古屋生まれの小説家がいます。1987年に死去されていますが、「八切史観」といわれる独自の史観にもとづく(ちょっとトンデモ本?)歴史小説などを発表された方です。「上杉謙信女人説」が最近では知られているのではないでしょうか。

八切氏は「徳川家康は二人だった」という小説を出されていますが、この話の元となったのが、明治35年に発刊された、村岡素一郎著の「史疑徳川家康」という本です。

この本は、当時華族会の会長をしていた徳川家から猛反発をくらい、発行禁止となってしまいました。明治の歴史学会からも封じ込められてしまいました。

それから数十年後、この話を元にして、八切氏が独自の歴史検証を行い、発表したわけです。

さて、家康二人説とは。

まず大河ドラマでみるような、正史とされる徳川家康は、元の名前が「松平元康」であり、後に改名して「徳川家康」となりました。家康は岡崎城に生まれ、三河の小さな国主ゆえに、駿府の今川家に人質に出されますが、この途中、田原の戸田氏にさらわれ、尾張の織田家へ人質として渡されます。そして、今川と織田が三河の安祥(安城)で戦った際に、人質交換として、今川家の人質になりました。この幼名・竹千代が成人して、松平元康になり、今川義元の死後、岡崎城を取り戻し、やがて徳川家康となります。

これが皆さんがよく知る徳川家康ですが、次にもう一つの徳川家康です。

駿府に世良田二郎三郎(せらたじろうさぶろう)という人物がいました。この人物は上州の新田郡得川郷(現・群馬県太田市徳川町)を出自とする者ですが、この人物こそが後の徳川家康となる人物だそうです。

この世良田二郎三郎は、武士でも農民でもなく、山賊のようなことをやっていたのか、もしくはささら者と呼ばれる階級に属していたのか、何をやっていたのかは得体が知れない男でした。

世良田二郎三郎は、駿府の今川義元が上洛するにあたって、松平元康の子供、竹千代(信康)を誘拐しました。松平元康は今川軍の先陣を努めているので、討ち死にする確率が高く、もしそうなった時に三河の跡継ぎが手中にあれば、三河を乗っ取れるのではないかと世良田二郎三郎は企てたからです。

しかし、有名な桶狭間の合戦で今川義元が亡くなると、今川家は勢力を失いますが、織田も三河を攻めるわけでもなかったので、中途半端な状態に置かれた三河を手に入れようと、また世良田二郎三郎は画策し、まずは浜松城を落とし手に入れました。

今川家から誘拐された竹千代は世良田二郎三郎の手元にありましたが、この人質の竹千代を織田に渡して、松平元康を織田の仲間に入れようと画策した世良田二郎三郎は、途中、田原の戸田氏と計らって、竹千代を織田に渡しました。竹千代(信康)は、信長の元で人質生活を送ることになりました(信長に可愛がられていたようです)。しかし、松平元康は織田方につくことを拒んでいました。

そして、矢作川上流から松平元康に攻め込んだ世良田二郎三郎でしたが、烏合の衆ばかりの世良田勢は、松平勢に負けて降参。しかし、この時、世良田次郎三郎は抜け目なく立ち回り、山中城(山中八幡の近く)を落として、そこの城主におさまり、うまいこと松平元康の同盟者となってしまいました。
*世良田二郎三郎が松平元康を攻めている頃、豊川市三上でも両者が戦い、負けた世良田二郎三郎が権現山に隠れたという話が残っているのではないかと推察します。

やがて、世良田二郎三郎は、松平元康に協力して手柄を立て、その勢いに乗った松平元康は、織田信長の人質になっている、長男・竹千代(信康)を奪還しようと考え、尾張の森山へ兵を進めました。

しかし、そこで家臣に松平元康は討たれ、殺害される。これが世にいう「森山くずれ」です。(正史でいう森山くずれというのは、この時より26年前の天文4年のことで、討たれたのは、元康の祖父の松平清康となっています)。

主君を失い困った家臣は、多くの手柄を立てている世良田からの「俺を身代わりに仕立てよ」という申し出に、これが一番安全な策だと賛成。この時に、松平元康と世良田二郎三郎が入れ替わったということです。

まんまと入れ替わった世良田二郎三郎は、そのまま織田信長と交渉し(信長も気付かなかった)、竹千代(信康)を取り返し、そのまま竹千代の後見人におさまってしまいました。

この後は、三河を乗っ取った世良田二郎三郎が、後々の徳川家康になるのです。自分の出自の地、上州新田郡得川郷から徳川に改名し、得川郷には葵が多く自生することから葵の御紋となったとさ。ちなみに松平家の御紋は桐紋だったそうです。

旧宝飯郡小坂井町には伊奈城がありますが、ここが葵の御紋の発祥の地だということを小さい頃から聞かされていました。校歌にもあったし。しかし、かの徳川家の御紋の発祥の地だという割には、さほど話題にならないのはなぜ?という疑問が常にあったのですが、こーゆー話があったんだったら、何となく納得するわいってな感じです。

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*伊奈城の看板。

この話ばかりでなく、徳川家康の出身地とされる三河の地域が、天下を平定した後、まったく優遇されていないのは何でだろう?とも思っていました。出生の地である岡崎が御三家の一つになってもおかしくないのに、岡崎をおさめていたのは家来の水野家とか本多家とはどういうことでしょ?石高も低いし

明治維新になり、15代将軍の徳川慶喜は、明治政府から「祖先の生まれた地、駿府にお帰りなさい」と言われ、駿府に移住し余生を送ったということです。あれ~?徳川の祖である家康が生まれた地は、岡崎じゃなかったっけ???「祖先の生まれた地、岡崎か豊田松平郷にお帰りなさい」とは言われなかったのね?これも変な話ですねぇ(^_^;)

とまあ、色々と何ともややこしい話で、まだまだトンデモナイ話は尽きませんが(^_^;)、とりあえず今まで述べてきた話から言うと、三河の松平元康の長男の竹千代(信康)は、世良田二郎三郎(徳川家康)の子供ではないというのが分かると思います

正史によると、武田に密通したという罪により織田信長から長男・信康と妻・築山殿を自害させよとの命令を徳川家康は受け入れます。そして、徳川家康の長男とされる松平信康は、遠州の二俣にある二俣城で自害させられましたが、この方のお墓は、江戸時代ずっと荒れたままになっていたという話を聞きました。自分の本当の嫡男ならば、その後、徳川信康という名を与えて丁重に祀るとかできただろうに、この方は松平信康とか岡崎信康という名のままです。信康の母、築山殿も家康の正妻になるのですが、いとも簡単に殺してるし。自分の子供じゃないし、自分の奥さんじゃないし、おそらく入れ替わりの事実も知られているだろうから、本当は家康自身が殺したのだろう。

で、最初に出てきた遠州などに残る逸話に戻りますが、これは世良田二郎三郎が、駿府や遠州などで一獲千金の悪だくみをしていた時の話だとしたら、ああいった情けない話はあると思います。

そして、世良田二郎三郎が竹千代を誘拐した時に、等禅坊という僧侶の助けを借りました。その後、世良田二郎三郎が家康となって天下平定した後、等禅坊はこの時の手柄で、遠州に立派なお寺を立ててもらった、これが可睡斎だそうな。

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*可睡斎にある家康が隠れたとされる“出世六字の穴”

おそらく山中八幡の鳩ヶ窟の話も、世良田二郎三郎が山中城を攻略する時に関係する逸話じゃないかと思う次第です。

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*山中八幡の鳩ヶ窟

ささら者の世良田二郎三郎が立身出世のために色々やったことが、その後徳川家康の伝説となったのですが、情けない話が多いのも、のし上がるために必死だった証しだと言えるのではないでしょうか。

事実、上州の新田郡徳川郷(群馬県太田市)には、徳川家光が建てたという世良田東照宮もあるんですよ。大正時代に起きた世良田事件にもこの話が関係してくるようです。

今回は初詣に龍にちなんだ神社で岡崎城に行ったことから、とんでもない方向に話が飛んでしまいました。タイトルと中身がだいぶ違っちゃいました

八切氏の話は読んでいると脳みそがシェイクされるような衝撃を受け、話を整理するのがとても大変なのですが、今回は家康の二人説についてピックアップしてみました。

独自の切り口を持つ八切史観は、日本の歴史的な身分制度を紐解くことや、日本民族の成り立ちや分類などを調べてみると、意外なモノが見えてくるようです。

単なるトンデモ話で楽しんでいただければ幸いですが、でも、実はかなりディープな問題をはらんでおります。そのことについては私たちは門外漢ですので、あしからずです。

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2017.9.19ブログタイトルを改めました。

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