豊橋公園にある吉田城。

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1505年に、宝飯郡の長山一色城主の牧野古白が今川氏親の命によりに築城したとされる。

1590年には、池田輝政が東三河4郡を統治する15万2千石の城主となり、11年間にわたり城下町や吉田大橋の架け替えなどの大規模な改築が行われたが、未完成のまま池田輝政は姫路へと国替えとなる。

江戸時代には、東海道の重要な防衛拠点の一つとされていたため、幕府の老中、大阪城代、京都所司代など有能な譜代大名が城主に選ばれ、出世城などとも呼ばれていた。竹谷松平氏をはじめ、深溝松平氏や水野氏、小笠原氏など3万から8万石の譜代大名のみに託されるが、国替えは頻繁であった(ウィキペディア参考)。

とまあ、こんな歴史の吉田城に、先日運動不足解消がてら、豊川沿いをテクテクと歩いて行ってみたのです

そして、吉田城址の鉄櫓(くろがねやぐら)の横にある大木を何気に見てみたら、そこには「イスノキ」と説明されたプレートが掲げられていました。

「およよ~、イスノキがこんなところにあったじゃん?! すごい貴重な木だって聞いたのに、あれま、灯台もと暗し!」

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<鉄櫓(くろがねやぐら)の左側に茂っているのがイスノキ>

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<このイスノキは樹齢300年以上らしい>


イスノキという木は、伊豆半島以西から南西諸島にかけて自生する常緑の高木です。別名はユスノキ、ユシノキ、ヒョンノキ。葉にはアブラムシが寄生してコブができるのが特徴です。

そういえば、子供の頃、ブツブツがついてて気持ち悪いっていう葉っぱを見たことがあったっけ。それがイスノキだったのかな

ノミやカンナが歯こぼれを起こすほどにとても堅いというイスノキは、そろばん玉、櫛、床柱、鴨居などに賞用されるという。

また、日本神話にある「湯津津間櫛(ユツツマグシ)」という神聖な櫛は、その材料がイスノキといわれます。ユツツマグシは「斎つ爪櫛」という意味で、「神聖な爪櫛」と解釈でき、そして、ユツ→ユシ→ユスと転化してイスノキという名になったのではないかということです。

古代ではミズラに櫛をさして髪を束ねますが、「束ねる=統治=統べる=スメ=スメラミコト(天皇)」となり、頭髪にさした櫛は、天皇を庇護し、国家を安護し、天皇の権力を象徴するものだったのではないかということです。また櫛には呪術的な力もあります。

平城宮跡からもツゲの櫛と共にイスノキの櫛が多数発見されており、奈良時代には宮中で使用されていたということです。そして、イスノキの櫛は皇族にしか使用が許されず、一般人はツゲの櫛だったようです。

延喜式によると、宮中では、一日一枚の割合で年間366枚の櫛を使用し、内訳は天皇が200枚、皇后が100枚、皇太子が60枚、残り6枚が新嘗祭など予備用に当てられていたようです。おまけに使い捨てだったとか。

今では入手が困難な、とても貴重な材料という話のイスノキ。ではでは、イスノキと櫛から、櫛にまつわる話をもう少し。

櫛という言葉の元は、「奇し=くし」ということのようです。「奇し(くし)」は、一霊四魂の「奇魂(クシミタマ)」の働きで、神の奇跡をもたらすものとされます。

また、以前ブログで書きましたが、出雲の国造り神話の話で、日本書紀の中に、「神光照海」と表記があり、それは「神しき光海を照らして(あやしきひかりうみをてらして)」と読ませています。そして、「忽然に浮かび来る者」が大己貴命(オオナムチノミコト)の幸魂奇魂(さきみたま、くしみたま)で、大和の三輪山に住みたいと希望したという話があります。なので、奇し=あやしきことであり、櫛とはあやしき物だということでしょう。映画「リング」でも、呪いのビデオの中に貞子の母親が長い黒髪を櫛ですいている姿がありますが、あれもかなりあやしきモノですね

その櫛にまつわる話に、日本神話のイザナキの黄泉の国訪問があります。死者の国からの帰り道、悪鬼たちに追いかけられたイザナキは、髪飾りを投げつけると、それがブドウに変わり、悪鬼たちがブドウの実を食べている間に逃げた。しかし、また悪鬼が追いついてきたので、今度は櫛の歯を折り投げつけると、タケノコが生え、悪鬼たちが貪り食っている間に脱出したという話です。

もうひとつが、スサノオのヤマタノオロチ退治。この時、スサノオは櫛名田比売(クシナダヒメ)を櫛の姿に変えて、自分の髪にさしてオロチ退治に向かう。酒にベロベロに酔わされたオロチは、あっけなくスサノオに退治されるというお話です。

クシナダヒメは古事記では「櫛名田比売」と記されていますが、日本書紀では「奇稲田姫」とされ、「あやしき霊的な稲田」と読めます。スサノウはクシナダヒメのあやしき力、霊的な力を櫛にして、それをミズラにさして(霊的力を宿して)オロチ退治に向かったんだねと、この神話を読むこともできますね。

オロチ退治に酒が使われましたが、酒は、「奇し=くし」とも呼ばれ、アルコールが人格を変えてしまう作用をたとえた言葉のようです。お酒は人を楽しい気分にさせる反面、無謀な行動をとらせたりする飲み物で、実に不思議で奇しき(あやしき)物です。また、傷や病にも効果があることから「酒=くすし=くすり」となるようですが、薬も使い方によっては良くも悪く(毒)もなるという、これもまた奇しき物であります。世の酒飲みは、消毒と称し、飲んだくれておりますが、ちょっと意味が違うと思うべ

「酒=奇し=くし=くすし=くすり=薬」というと、薬や食品として利用する植物に、「葛=くず」があります。根からとれるデンプンは葛湯や葛餅などの食品にもなりますが、胃腸を整え、身体を温め、滋養もあることから薬(風邪薬の葛根湯など)としても用いられます。

ちなみに、「くず」というと、短身長肢の先住民のことを「国栖-くず」と称したそうです。この朝廷から疎んじられた先住民をさす「くず」から、今でも使われる差別的な言葉、「くず」になったようですが、元々は「葛」から薬や食品を加工した人たちが不思議な技術を用いることで、奇しき人々とされたのでしょうか。

吉田城のイスノキと櫛からこんな話になりましたが、吉田城主と言えば、小知恵伊豆と呼ばれた大河内松平氏の松平信明よく知られています。豊橋祭りのパレードの殿さまはこの方ですね。その大河内氏は、南朝の尹良親王(ゆきよししんのう)の浪合合戦に従った桃井氏の末裔とされていますが、浪合合戦を記した「浪合記」が偽書扱いされているため、真実は謎めいています。徳川の譜代大名大河内氏と南朝との関わりはとても面白そうですが、またの機会にいたします




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2013_04_23


当ブログ恒例の菟足神社の風祭りネタです

とはいえ、以前にも菟足神社についての記事を書いておりますゆえに、ネタも尽きて、そんなに面白い話もないのですが・・・(^_^;)

さて、今年の菟足神社の風祭りは4月13日(土)、14日(日)に行われます。4月の第二土日が祭礼の日になりますので、カレンダーの都合で今年はちょっと日にちが遅くなっていますね。桜も散ってしまいました。

ネタも尽きたとはいえ、それでも何かないかと絞り出してみたら、当ブログのもう一つの研究材料である「南朝」に絡む面白いものが見つかりました。

それは地名(名称)との奇妙な一致です。

菟足神社の周囲にある地名および名称には、「柏木の浜」「五社稲荷」「樫王(かしおう・菟足神社の北側にある地名)」があります。また、五社稲荷の北側には、善住寺というお寺があって、そこには赤松円心のお墓もあります。

そして、南朝と言えば吉野ですが、以前に「南朝リレーその7 ~小俣京丸から後南朝へのライン~」という記事で、後南朝を題材にした小松左京の「本邦東西朝縁起覚書」という小説のことをご紹介しました。

後南朝の舞台となった奈良県吉野郡川上村へと続く169号線沿いには、南朝の皇子の自天王を祀る北山神社、そして、その弟宮を祀る河野宮があるのですが、その辺りの地図を何気に眺めていたら、「あれ、菟足神社の周りの地名と同じ地名が並んでるのはこれ如何に?!」と思ったのです。

単なる偶然の一致にしても、なんだか出来過ぎているような気もして・・・。

地図で見てみるとこんな感じです。

utarijinjashuhen01.png

まずは菟足神社の周辺地図ですが、五社稲荷、樫王、柏木の浜、善住寺(赤松供養塔)がありますね。

そして、次に奈良県吉野周辺の地図を見ると・・・。

kawakamimura01.png

169号線を吉野町方面から川上村方面へと向かうと、まず、五社トンネルという名のトンネルがあり、その周辺が樫尾(かしお)という地名になっています。

そして、さらに169号線を南下すると、柏木という地名が出てきます。そこには、弟宮の河野宮を祀る金剛寺があります。

吉野柏木

河野宮からさらに169号線を南下していくと、自天王を祀る北山宮へと続きます。このルートは、南朝の歴史の中でも後南朝と言われる、南朝最後の抵抗活動があった場所です。この地で自天王と河野宮が赤松の残党に殺害されて、南朝の歴史は幕を閉じることとなりました。

奈良川上村

川上村の全体の図。位置関係はこんな感じです。

こうやって見てみると、後南朝の史跡が残る場所の地名および名称が、菟足周辺となぜか重なるんですよね

三河南朝の伝承が残されている菟足神社周辺、また、長野県の大鹿村にも鹿塩(かしお)という地名があって、そこには、宗良親王や尹良親王の伝承が残っています。樫王と樫尾、そして、鹿塩という「かしお」という地名が南朝で繋がるのです。

そして、後南朝の皇子たちを殺害したのが赤松氏の残党ですが、五社稲荷近くの善住寺には、赤松円心という南北朝初期に南朝方だった武将のお墓がなぜかあるのです。

zenjuji02.jpg

zenjuji01.jpg

赤松氏とこの地域はどんな関わり合いがあったのでしょうか?

その赤松氏というのは、後々足利幕府によってお家断絶となり、その残党が家名復興を目指して、南朝方の皇子を殺害したということです。

何か奇妙で不思議なつながりを感じます。

もうひとつおまけで、柏木神社というのが、菟足神社からは数キロ離れた豊川市西原という地域にあるのですが、その柏木神社のすぐ近くに「金剛寺」というお寺があるのです。山門の際にきれいな湧水のあり、軒丸に菊花紋があるこのお寺は、後醍醐天皇の皇女、懽子内親王に縁があるようです。金剛寺という名のお寺は全国に多々ありますが、後南朝の河野宮を祀る吉野の川上村の金剛寺と名称が一致するというのも妙なところです。

さらに、おまけの脱線話ですが、菟足神社の風祭りでは、土曜日の夜に仕掛け花火や手筒花火が奉納されます。毎年、仕掛け花火の大スポンサーである「総合青山病院」の創業家の名は牧野さんです。牧野さんと言えば、越後長岡の大名になった牧野氏がよく知られていますが、この牧野氏は元々は東三河の豪族でした。

この牧野氏の家紋が、「三つ柏」で、豊川市御津町の大恩寺にかつてあった「念仏堂(三河南朝御所の王田殿から移築したとされる)」の天井画にも、三つ柏が描かれています。ここでも柏というものが関係してきますね。

後村上天皇と柏の話もありますが、まあ、あまり追いかけるとますますややこしくなりそうなので、こんなところにしておきます

おまけに、コブメロの実家の家紋も三つ柏だったと、つい最近分かる。凄い節穴・・・( ̄▽ ̄;)


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