さて、おそらく全国で2~3人くらい、地元でも5~6人くらいしか興味を示さないであろうと思われる三河南朝伝説をド地味に追いかけている私たちですが(^_^;)、今回は、東三河にあったとされる南朝の御所「王田殿」の痕跡を調べてみました

「おうたでん?おうだでん?おだでん?」と、読みさえもよく分からない「王田殿」ですが、豊川市御油町の青木家に伝わる「青木文書」に、「檜御前王田淵馬込川南崩御(檜御前が王田淵の馬込川の南で亡くなられた)」と記されていることから、「王田殿」は豊川市小田渕町(おだぶちちょう)あたりにあったのではないかといわれています。

「青木文書」というのは、南朝の家臣であった青木家の先祖、青木平馬が応永31年(1424年)に書き残した覚書です。青木平馬は、後醍醐天皇側近の千種忠顕の孫で、父盛勝と共に長慶天皇や松良親王に仕えたことから、当時の事を後世に伝えるべくこの文書を書き残し、昭和7年、青木家の縁者である中西久次郎氏によって世に発表されました。

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<御油神社の境内地に・・・>

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南朝の家臣であった青木家ゆかりの青木神社があります。青木文書を残した青木平馬の子孫の青木兵六が勧請した神社です。青木というのは、常緑樹の実が青から次第に赤色に変わることから、実(身)が変わる(代わる)=身代わりの意味になると藤原石山氏らは説いています。ちなみに赤坂宿の旅籠・大橋屋さんも青木さんです。>

かつて王田殿にあった阿弥陀堂という建物が、豊川市御津町の大恩寺境内にあった念仏堂で、大正10年に国宝に指定されました。

天文22年(1553年)に竹本四郎左衛門成久が、牧野出羽守保成らの協力で、王田淵にあった阿弥陀堂を、新宮山(現国府町の新宮山)の浄光院に移築。やがて、浄光院は大運寺と名を改め、また、浄土宗に改宗されて、新宮山から現在の御津山に移り、大恩寺として改められたということです(阿弥陀堂も再移築)。

ちなみに、大運寺の僧の了暁(りょうぎょう)の弟子の勢誉(せいよ)が岡崎の大樹寺の開基で、大恩寺も大樹寺と同じように徳川家から篤く保護を受けております。ふむふむ、大樹寺って大恩寺と関係があったのね。大樹寺といえば、徳川家康~世良田~新田などという連想がまた巡ってきて、南朝との関係が気になるところですねぇ(^_^;)

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<豊川市御津町の大恩寺の念仏堂。この建物は、王田殿にあった阿弥陀堂を移築したものと伝わる。>


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<念仏堂内の天井絵。菊紋、柏紋が描かれています。>


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<在りし日の念仏堂カラーの図。平成6年、花火もしくは不審火で出火して焼けてしもたとは・・・


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<現在の風景。念仏堂のあった場所に建つ石碑と案内板。 >


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<厨子の写真。屋根の真ん中に菊紋、左右にシャチが見える。愛知県内国指定文化財図録には、【桧皮葺、入母屋造。桁行五間、梁間五間。付厨子一基。天文二十二年の建立。構造手法ともに観るべきものがあり、絵様も堅実な曲線からなっている。妻飾の南と北が異なっているのは珍しい。特に内部の須弥壇および厨子は、その様式や装飾が室町時代の白眉で透彫の意匠や手法が見事で、屋根の上の鯱と三花懸魚は建築史的にも重要である。】と説明されている。>

室町時代の極上の逸品が、このような片田舎にあるちゅーことが誠に驚きなのであります 北朝に見つかって焼かれないようにと、当時の人々が結構苦労してこの建物を守ってきたそうなんですが、うう、そんな貴重な逸品が、北朝の脅威が無くなった現代に焼けちゃったなんて・・・。トホホです

では、三河にあったという南朝の御所、王田殿とはどんなものなのかを、5W1H風に説明してみます。

●いつ・・・
文中3年(1373年)、小室門院元子内親王(後醍醐天皇皇子・尊良親王の第1皇子守永親王の皇女)を奉じ、松良親王(宗良親王の皇子・興良親王が父で、小室門院が母)を皇太子とし、長慶上皇が松良親王の後見役&養父となり、三河吉野朝の基礎とする。

天授2年(1376年)、望理郷に王田殿を建立。

●どこ・・・
三河国内神明帳に「従五位小田天神 宝飯郡にある」と記されていて、「神社を中心としたる宝飯郡史」には、「小田淵 淡洲大明神の北 二~三町に天神の小さな祠あり 古い天神社なり」と書かれ、かつて王田天神社という神社があったことがうかがえます。

その後、国道一号線ガード下に跡地が残っていたが、現在は道路拡張により消滅。かろうじて地名が残るのみに。

淡洲神社は豊川市国府町森に現存していて、末社に檜御前社、馬込御前社がある。これらは檜塚、馬込塚ともいわれ、王田殿の御所にお仕えした女官のこととも伝えられるが、檜御前=小室門院元子内親王、馬込御前=懽子内親王とも考えられるようです。

淡洲神社の目と鼻の先程のお隣に「望理神社」という神社があるので、この神社を中心とした豊川市国府町森~小田渕一帯が、王田殿のあった望理郷だったのかな?

●だれが・・・
三河吉野朝の小松天皇および長慶天皇の御所。

小松天皇とは、藤原石山氏らの説によると、小室門院元子内親王のことで、夫である興良親王(宗良親王の皇子)が、遠州秋葉で今川に捕えられ、京都で亡くなったため、長慶上皇(後村上天皇の皇子・寛成親王)が小室門院元子内親王の後添えの夫となり、松良親王の養父&後見人となったということです。

また、三浦芳聖氏の串呂哲学によると、後醍醐天皇第4皇子の宗良親王の皇子で、小室門院元子内親王の夫である興良親王が小松天皇であると説いています。

●なんで・・・
北朝(幕府)をあざむくため、南朝方は正と副の二系統の皇統に分かれた。

歴史上に現わされた南朝の皇統は、実は副統であり、足利幕府も世間も全く知らない正統の皇統が隠密に継承されておったのです。三河吉野朝もその正統の南朝方が開いたということです。


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<南朝皇統の図>

●で、どうなったか・・・
天授5年9月、足利方の信州勢の猛攻にあって、三河吉野朝は崩壊する。

この時に、最も問題となるのが青木文書の中の「長慶天皇が天授5年(1379年)9月20日 王田殿において崩御された」という記述です。歴史上、長慶天皇の崩御された場所や年月は、確実な資料がなく、全国にもそれぞれ異説があるため、史学者の多くは「大乗院日記目録」にある「応永元年(1394年)8月1日大覚寺法王崩」の説をとっています。

また、元中2年(1385年)に長慶天皇が高野山に願文を納めていて、この書は、唯一の真筆の書であるといわれているので、長慶天皇が天授5年(1379年)の崩御だとすると、6年後にもまだ生存していたことになってしまいます。おそらく、足利方をあざむくために、誰かが身代わりになって亡くなったことを指しているのではないかと。

そこで出てくるのが、宣政門院懽子内親王という後醍醐天皇の皇女が、正統の皇女である小室門院元子内親王(小松天皇)、もしくは長慶上皇の身代わりになって、王田殿で自害されたという話なのです。

一方、叔母君の身代わりによって難を逃れた小室門院元子内親王は、後添えの夫である長慶上皇と共に山梨県富士谷に移り、皇太子の松良親王とその妃の綾子内親王は、豊田市足助の山中へと身を潜めた。

・・・とまあ、何ともややこしくて、超分かりにくいぜぇ~と思いますが、簡単にまとめてみるとこんな感じです

南北朝時代は、延元元年(1336年)~元中9年(1392年)までの約60年の期間で、講和により南北朝は合一されましたが、実際には北朝方の皇統ばかりが続いたので、「後南朝」といわれる南朝勢の抵抗が正長元年(1428年)頃より激化することに。しかし、長録元年(1457年)に南朝勢力の滅亡により終焉したとされています。

元中9年の講和の折に、長慶天皇の皇子である元良親王が、京都に向かい、名を「幹仁(もとひと)」と改め、足利義満の猶子(養子の意)となり、そして、後円融天皇の皇嫡子となって、南北合一の天皇として、後小松天皇となったというのが、三河吉野朝に伝わる皇統説です。

表向きの歴史では、後小松天皇は後円融天皇の第1皇子となっていますが、歴代天皇の諡号を考えてみると、後小松天皇の場合は、歴代の天皇に「小松天皇」という名が見られないのに、「後小松天皇」と名をつけている点が引っかかるのです。「後○○天皇」とか「後▲▲天皇」といったように、「後」が付く天皇の場合、必ずその前の時代に「○○天皇」「▲▲天皇」という方がいらっしゃるのですが、表向きの歴代天皇の名前の中に「小松天皇」という名は出てきません。

また、長慶天皇も、南朝関係の史料が少ないために、在位していたのかどうかがよく分からないとされていましたが、大正時代になってからの実証的検証や調査などで、大正15年にやっと正式な天皇として認められたのです。長慶天皇の伝説は、全国各地に多く残されていて、遠くは青森にも御陵の伝承があり、南部せんべいの祖ともいわれるらしいです。

東三河の豊川市国府町や御油町でも、この長慶天皇や王田殿、三河吉野朝の顕彰運動が行われたのですが、昭和10年~19年の調査によって、京都嵯峨天竜寺角倉町の嵯峨東陵(さがのひがしのみささぎ)が、たぶん縁のある場所だろうとの見解から、長慶天皇の御陵として治定されてしまったため、時、微妙に遅しといった感じで、国府町や御油町が行った運動は公に認められることは無くなってしまったのでした せっかく王田殿跡の石碑を建てて、記念式典などもやったみたいなのに、御油署の警官が来て石碑をブッ倒してしまったとか・・・

その後は、戦争が終わり、生きていく、食べていくので精一杯だったり、戦前と戦後の価値観の変換などから、そんな話も忘れられてしまい、昭和50年頃になって、藤原石山氏らの活動や研究によって、再び書物にまとめられることになったということなんですね。

そして、現在では、神社や祭りの伝説、神社の末社の名前や地名(字名)などに、かろうじて王田殿の痕跡が残されているかなといった程度となってしまい、何とも寂しいような、切ないような気がします

じゃあ、この地域に御所があったとしたらで想像してみると、天皇、親王や内親王、それにお仕えする人々などの食事や衣類や生活用品が必要になってくるので、それに関わるお仕事があったはずだよなぁと思いますよね。そうしたら、そんな形跡が残されている場所が見つかりました

まず、豊川市御津町と豊川市伊奈町あたりの字名が、王田殿の被服関係の部署の名残りではないかと。


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<御津町の田んぼの真ん中に残る「羽鳥(はとり)」という地名。「羽鳥」→「機織り」ということで、糸や生地の生産を担当していた場所と思われます。羽鳥の場所にあった「羽鳥大明神」が、足利時代に、現在の豊川市足山田の服織神社(はとりじんじゃ)に遷座したようです。佐脇神社は、佐脇の御所とも呼ばれ、王田殿が完成する前は、ここに滞在していたという話です。>


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<伊奈町の縫殿(ぬいどの)。読んで字の如しで、縫物を担当していた場所だったのではないでしょうか。羽鳥と縫殿は2~3キロほどの距離なので、隣接するように設置された施設かと思います。縫殿のあったと思われる場所に、フジボウという紡績工場があって、今は縮小してしまいましたが、かつては隆盛を極めていたというのも、何か不思議な縁があるものかと思うところです。縫殿にこんないわれがあるとは、地元の話に結構詳しいコブメロ母も友達も知らんかったので、地元の人でも知らない人がほとんどではないかと思ふ


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<再び御津の地図。三河万歳の発祥の起源は、安城や西尾にあるといわれていますが、王田殿の御所で舞ったのが起こりだという説があります。文武天皇の行幸の際(持統天皇の事かも?)に、吉良大夫という人が万歳を舞ったという記録があるそうですが、文武天皇の時代には、大夫という名称は、五位以上の高官の総称で、そして、吉良という名が文献に現れるのも建長2年(1250年)に関白藤原道家が記した記録が初めてで、文武天皇の時代にはみられないということ。御津町花ノ木に、三河万歳の元祖「佐脇刀彌大夫」のお墓があるそうです。>

そして、豊川市御油町の「御油」という地名は、御所に油を献上していたことに由来するという伝承があります。持統天皇の三河行幸で、持統天皇がこの地に滞在していた時の御所に油を献上したという説があったり、また、「御所=京の都の御所」と、つい簡単に想像してしまうのですが、献上していた先の御所というのは、実は、この王田殿だったのではないかと推理するのであります

コブメロの中学時代の友達の本家は太田さんといって、この御津の羽鳥と伊奈の縫殿に隣接する地域に昔からの居住する庄屋さんだったようです。王田殿のあった小田淵は、太田淵という表記もあるので、王田殿に関係した人が、その後、太田という姓を名乗ったのかもしれないなぁと思うのでした。

おまけに、彼女は、とってもお裁縫やパッチワーク、手芸が得意なので、ひょっとしたら、彼女のご先祖は縫殿にお仕えしていたのかも?はたまた、前世が縫殿に仕える女官だったのかも?といった妄想が膨らみます。かの神秘学の大家シュタイナー先生によると、人々の重要な仕事は霊界の影響の下にあるといい、衝動(インスピレーションとかエネルギー)を霊界から受け取って、それを成すということなので、「霊界からの影響=DNAの記憶もしくは魂の記憶」が彼女の裁縫上手に影響しているのかもしれない…なんて考えると、そこはかとない神秘を感じてしまうのであった

でもって、伊奈の縫殿のことを調べていたら、なんと、豊橋の吉田神社の元が縫殿にあったという話が出てきました

伝承によると、小坂井の伊奈にある縫殿を、吉田の横町に移したのを「わくぐり神社」といって、やがて、この神社が吉田城の鎮守として吉田神社となり、7月に吉田神社で行われる祇園祭の笹踊りや祭りに使う笹は、伊奈より納めていたようです。

伊奈には、祇園田と呼ばれる場所があって、素盞嗚を祀る神社があったとのことですが、、場所がイマイチ特定できなかったです。たぶん、フロイデンホールのすぐ近くにある素盞嗚神社の事ではないかと思うのですが・・・ 「吉田の祇園様は、伊奈より移った」といふそうな。


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<豊橋市新本町の商店街の一角に・・・>

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<わくぐり神社があります。>

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<祇園祭で盛大な花火が行われる吉田神社。手筒花火発祥の地ともいわれています

はぁ~、しかし、目まいがしそうなくらいややこしい話であったが、さて、次回は、身代わりになって自害されたという後醍醐天皇の皇女・宣政門院懽子内親王について追ってみるべ

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