名字の妙

category: 民俗学  

有給生活を満喫しているようなしていないような、
オリンピックをついみてしまうような毎日ですが、
昨日、会社での最後のお仕事が終わり、
とりあえずホッとしているコブメロです。

最後のお仕事は撮影会の開催運営。
終わってからは美味しい鮎をご馳走になってきました(*´v`)

さて、今回、会社で十数名もの人が退職するに当たって、
色々と考えてみたところ、
フッと八切止夫氏の「日本人の姓の法則」
という話を思い出してしまいました。

日本人の姓(名字)について、八切止夫氏の研究によると、
日本民族は各地から渡ってきた民族の寄り集まりで、簡単に言うと、
姓はそれによって分類されてるということ。

で、姓は、アカサタナ・・・、イキシチニ・・・というように
アの系列の姓、イの系列の姓、ウの系列の姓、エの系列の姓、
オの系列の姓と分類されるのだとか。

日本列島に渡ってきた時代や民族が、ア系列、イ系列と
それぞれ違っていて、それによって風習や習慣、信仰的なことなども
違っているという。

話がややこしいですが、簡単にまとめてみるとこんな感じです。

●アカサタナハマヤラワ(アの系列の姓)
 アラブマレーシアの八幡国群、海から渡ってきた海(アマ・天)系の民で、
 日本に一番多く、平氏の赤色に見られるように(平氏はたいらと発音)、
 赤がシンボルで(赤い鳥居のお宮さんとか)、いうわゆる平民。 
 エの次に古いとされる民。
 
●イキシチニヒミイリ(イの系列の姓)
 農耕系の民。唐から渡ってきた藤原氏のまねをしたり、変わり身が
 早く要領がいい。エリートに多いとされる。
 ただ、白はハクでアの系列、ヒは火(炎)でホとなり、オの系列。
 鈴木はイの系列など、細かい分類もあるようだ(ややこしい)。

●ウクスツヌフムユル(ウの系列の姓)
 八切氏いわく、唐からわたってきた民で、唐→桃→藤となったと。
 5分類の中では一番新しい民で、仏教護持の公家貴族の
 特権階級となる。
 「八色の姓」は外国人(渡来)優遇のために制定されたものらしい。

●エケセテネヘメエ(エの系列の姓)
 南西暖流で一番古くから日本列島に渡ったとされる民
 (邪馬台国卑弥呼系)。
 新しく来た民に迫害されることが多かったためか、
 ハングリー精神が旺盛のようで、芸能人や野球選手に
 多いという。
 蝦夷、蝦夷のような言葉はエの民から来ているらしい?

●オコソトノホモヨロ(オの系列の姓)
 騎馬民族で白山信仰の源氏。蘇民将来系?
 命令には絶対服従型。
 「どこの馬の骨」という言葉はこの民からきているとか。
 アの次に日本列島に渡ってきた古い民で、エ系列とア系列の
 風習などが混合している部分が多いらしい。

無茶苦茶ザックリだけど、日本人の姓はこんな風に分類
できるらしくて、日本列島に、どこからどの民族がいつの年代に
渡ってきたのかを考えてみると、習慣の違いや信仰的な違いって
確かにあるよなーって思いますよね。

八切氏によると、昔は家の結びつき(婚礼や養子)には、姓の出自が
何であるかを重要視していたといいます。やはり同じ系列の姓同士だと、
習慣や信仰が同じなので、違和感がなく、結びつきも強いということです。

姓同士の相性のいい組み合わせもあるようなので、現代においても、
婚礼や会社の人事、グループ作りなど、こういったことを考えながら人選を
するといいよといったことも書いてありました。

で、話は最初に戻りますが、今回退職する十数名の姓を見てみると、
見事にアの系列の人ばかり。一人、オの系列がいますが、他はアばかり
だったのです。

平民といわれるほど本来ならばアの系列が多いはず。

ところが、会社に残留する人たちをみてみると、ウ系列、イ系列、オ系列が
占める割合が多いというのも、これいかにです。

でもって、長いものに巻かれて(新しく来た上司に媚売って)、
揉み手ゴマすりして、生き残りをかけてるイの系列の人を
目の当たりにしちゃうと、あらま~、あからさま~って思っちゃいました

これではアの人たちがいくら意見を言ったところで、
通じないのも無理ないか~と複雑な気分

「何でアノ人たちは、このことが理解できんの」って
いつもいつも怒っていた退職する同僚たち。
散々意見したことはホントに無駄だったのかも

恐るべし、姓の法則

とまあ、私の会社のことはこんな感じなんですが、
ご自分の周りでもこんな風に見てみると
何か面白い発見ができるかも?なんてね( ^ω^ )

※八切止夫氏の姓の話については、個人にて詳しくお調べくださいね。
ここで書いたことは、私が以前読んだ本の内容を思い出しながら
書いているので、ちょっと変な部分もあるかもしれません。
あしからずです



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2016_08_21


前回の「片目の随神の謎」の続きです。

谷川健一氏の著書「鍛冶屋の母」の中に「弥三郎婆」の話があります。

新潟県の弥彦山を御神体とする弥彦神社の鍛匠(たんしょう)として、代々奉仕したと伝えられる黒津家の黒津弥三郎の話として次のような話があるようです。

承暦三年(1079年)、弥彦神社(祭神は天香山命)の造営工事が斎行された時、鍛匠と工匠(大工の棟梁家)とが上棟式の第一日目奉仕を互いに譲らず、とうとう、時の弥彦庄司吉川宗方の裁断によって、工匠は第一日目、鍛匠は第二日目に奉仕すべしと決定された。

これを知った弥三郎の母は、憤悶やるかたなく、恨みの心が昂じて遂に悪魔と化し、庄司吉川宗方をはじめ工匠方にたたりをなし、さらに諸所方々に飛行して悪行の限りをつくした。

悪魔と化した弥三郎の母は、各地で人を襲った。そして、ついには弥三郎の狩りの帰り路を待ち受け、その獲物を奪おうとするが、逆に片腕を切り落とされてしまうと、五歳の孫の弥治郎をさらって逃げようとした。

しかし、これも失敗すると、悪鬼の形相もの凄く、飛鳥のように風を起こして黒雲を呼び、天下高く飛び去ってしまった。

その後、諸国を飛行しては悪行に専念した弥三郎の母だが、八十年経った保元元年(1156年)に、弥彦で高僧の評判の高かった典海大僧正が、ある日弥彦山のふもとの大杉の根元に横わたる一人の老婆を見つけた。

その異様な姿にただならぬ怪しさを感じて声をかけたところ、年経て神通力を身につけた弥三郎の母であることが分かった。

典海大僧正は老婆に説教して、真人間になることをすすめた。

老婆は前非を悔い、名も妙多羅天女(みょうたらてんにょ)と改めて宝光院にまつられるようになったという。


以上が、弥三郎婆に関するお話しで、宝光院は、弥彦神社の近傍にあり、その御堂に妙多羅天女像が安置されているそうです。

そして、谷川健一氏は、宝光院の背後の森に婆々杉と呼ばれる大杉があり、俗に「オンバのネドコ」とも呼ばれ天女の終焉の地とされているが、「妙多羅」という奇妙な名前から、「弥彦神社の祭神がタラで目をついて片目となったという伝承」を連想すると述べています。

また、弥彦周辺には、鍛冶と大工が言い争いをしたという話も残っているということで、その話の内容は・・・、

この世で仕事の始まりは鍛冶が先か大工が先かということで、鍛冶に言わせると「かんな、のみなど鍛冶が作った道具がなければ大工は仕事になるまい」。大工に言わせると「ふいごを大工がこしらえなければ鍛冶はできまい」。

こうして言い争っている時に、12月8日に天からふいごが降ってきたということで、鍛冶が勝った。その日を金山講として、一昔前のことを語り合ってお神酒をあげてお祀りするようになった・・・。


天から鍛冶の道具が降ってくるという話は、アフリカなど世界中広くに分布しているということで、喜界島にも天から神が降臨して、粘土で男女を作り、男女が農耕を好むので、天からふいごを背負った神の使いが降りてきて、ふいごで鍬や鎌を作り女に与えたという話があり、それと酷似する伝承が大和国高市郡にも残っていて、そこの磐橋神社は鍛冶神である「天目一箇神(あまのまひとつのかみ)」を祀っていると。

この鍛冶の神である天目一箇神は、違う一面も持っており、三重県多度大社別宮の一目連神社の天目一箇神は暴風雨の神として祀られ、一つ目の神とされています。何だか台風の目みたいですね

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<お婆の循環図>

そんなこんなで、途中をかなり端折ってまとめてみると、弥彦の神は鍛冶神であり、その民話はかなり古くまで遡ることができ、黒津弥三郎にまつわる伝説は後世に変形されたものであろうと谷川氏は言ってます。

そして、弥三郎婆の話は各地に残されていて、その中でもっとも古いものは「今昔物語集」巻二十七の「猟師の母、鬼となりて子を食はむとせること」だそうです。

昔、二人の兄弟がいて、いつも山に言っては鹿を弓矢で殺していた。ある時、高い木の上で鹿を待ち伏せしていたが、鹿は来なかった。そのうち。兄のいた木の上から、何やらの手が伸びてきて、兄のもとどり(髷)を取って上の方に引き上げた。

兄が奇異に思ってもとどりを取った手を探ってみてると、よく枯れて老いさばらえた人の手であった。

「これは鬼が自分を食おとして引き上げたのだ」と思って、向こう側の木にいる弟に向かって、「自分の頭の上を射よ」と命じた。

弟がそうすると、兄のもとどりのところに切れた手がぶら下がってきた。

その手を持って自分の家に帰ってみると、兄弟の母がうめき声を出していた。兄弟は切れた手が母の手にたいそう似ていたので、母の部屋の戸を開けてみると、母が起きあがって掴みかかってきた。兄弟は切れた手を母の部屋に入れて立ち去った。

母はまもなく死んだが、母の手は手首のところから切れて、無かった。そこで切れた手が母の手であることを知った。

母が老いぼれてのち、鬼になって子を食おうと、あとをつけて山に行ったのだった・・・。


この話って、何だか日本昔話やどこかで聞いたことがあるようなお話ですね

こういった老婆や母が鬼になる話は、鬼子母神の話が混入しているのではないかということですが、人を食らう山姥、手を切られた鬼の話(酒天童子)、切られた手を取り戻しに行く河童の話とか、家に帰ると母親が傷を負ったと寝床でうずくまっているとか、そんな話が弥三郎婆に関連するもののようです。

はあ、長くなりましたが、まずは民話伝説の説明でした。

で、この弥三郎婆の話が、賀久留神社のある静岡県浜松市神久呂にも伝わっているということなのです(静岡県伝説昔話集)。

賀久留神社のある地域に弥三郎婆の伝承があるということは、あの辺りが産鉄に関係していると読み取れるかと思います。でもって、賀久留神社には雨乞いの伝説もあることから、黒雲を呼び・・・云々の話にも繋がります。

前回、賀久留神社には随神門があり、老人の矢大臣(随神)の片目が小さくなっていると紹介しました。

老人の随神の片目が小さいことは、製鉄の炎で目がやられることから来ているという話があり、それに合わせて弥三郎婆(鍛冶屋の母)の伝説もこの地域にあるということは、この地域が鉄に関係していたが故に賀久留神社に片目の随神が置かれているのだろうと読み解けるかと思います。

そして、静岡県磐田市の府八幡宮には、賀久留神社よりも明らかに片目が小さいと分かる随神が置かれていますが、こちらの随神に関してはまだ未調査で、今のところ詳しいことは分からず謎です

さて、弥三郎婆の民話に出てくる「鬼の手を切り落とす」という話は、日本各所に残されていますが、その中でもよく知られているのが大江山の鬼退治かと思います。

大江山の鬼退治は、源頼光と頼光の四天王といわれる腕利きの武者4人(渡辺綱、坂田金時、碓井貞光、卜部季武)と知恵者の藤原保昌の一行が、神通力を無くす酒を飲ませて酔っ払わせて、鬼の酒天童子とその仲間を退治するという話です。

また、「太平記」巻三十二には、鬼切の刀の由来の話があって、その話では・・・、

渡辺綱が大和国宇多郡の森に出没する妖怪を退治しようと、女装をして待っていると、にわかにかき曇った虚空から綱の髪をつかむものがあった。

綱は源頼光からたまわった太刀を引きぬいて払うと、毛が黒く生えて、指は三つしかなく、しかもその指先が曲がっている腕を切り落とした。

綱は頼光にこの腕を献じた。

それから七日たった夜、頼光の母が河内の高安の里からやってきた。そして、切り取られた腕を見ると、その腕をひったくり、牛鬼となり、酌をしていた綱を左手にひっさげながら頼光に走りかかった。

頼光が太刀を抜いて牛鬼の頭を切り落とすと、頭が宙に飛びあがり、頼光の太刀のきっさきを五寸食い切って口に含みながら、半時ばかり飛びあがり吠え怒っていたが、ついには地に落ちて死んだ。

しかし、その身体はなお破風から飛び出て、はるか天に昇っていった・・・。


と、黒雲から手が出てきて髪(髷)を掴む、鬼が腕を取り返しに来る、母親が鬼に変身するといった内容で、弥三郎婆の話の要素が入っていて、よく似ていますね。

また、酒天童子は越後の生まれだという話もあり、越後―新潟―弥彦山―弥三郎婆とこれもまたまた繋がっていきますね。

でもって、ついでに、頼光の四天王の一人である坂田金時(さかたのきんとき)は、足柄山のまさかりをかついだ金太郎でもあって、この人物の伝承も各地に残っているのですが、なんと、コブメロんチの家のすぐ近くにも「坂田金時塚」があるのであった。やいやい

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<全景 畑の中にあるので入っていきにくい・・・>

こんな伝承があるせいか、菟足神社の祭礼では、ここらへんのお子たちは坂田金時のお車を引っ張っていくのですが、菟足神社の祭礼は、神様が暴風雨に遭遇して助かったという伝説から、別名「風祭り」とも呼ばれ、菟足神社の元と言われる平井の八幡さまには多度社が祀られているというのです。

むむむ、しかし、菟足神社には弥三郎婆関連の話が見つからないんだよね。だけど、それに近い要素は持っている・・・。う~ん

さて、弥三郎婆~鬼~鍛冶・・・に繋がる話はまだまだ尽きません。続きは次回といたします


テーマ : 神社仏閣    ジャンル : 学問・文化・芸術
2014_01_13


柳田國男の「一目小僧その他」の中に、故郷の神社にあるスガ目の矢大臣の話がある。神社の随神門の左右にある木像のどちらか一方が片目を閉じているという・・・。

といきなり言われても、何のことやらってな感じかと思いますので、まず、随神門にいる随神とは何ぞやということで調べてみると・・・、

【随神とは】
随身 随神 ずいしん

貴族の外出時に警護のため随従した近衛府の宮人。
また神道において神を守る者として安置される像のこと。
門主神(かどもりのかみ)、矢大臣、左大神とも。
門の左右に随身を安置した門を随神門と呼ぶ。


と説明されております。

そして、柳田國男の「一目小僧その他」から抜粋してみると・・・、

一目小僧 その他  昭和9年5月
 材料は今でもまだ集まって来る。たとえば目一つ五郎考の中に、郷里のうぶすなの社殿の矢大臣が、片目は糸みたように細かったということを書いてしまうと、それからはどの御宮に参拝しても、きまって門客人(かどまろうど)の木像に注意をせずにはいられなくなる。その木像には年を取った赭(あか)ら顔の方の眼が潰(つぶ)れているのが多く、またそうでないのもある。これを見ると私は非常に考え込むのである。

神片目
 目の左右に大小ある人はもとより多いが、それの時に顕著でありまた一般的である場合には、いわゆるアヤカリをもって説明せられる。たとえば福島県石城(いわき)群大森の庭渡(にわたり)神社などは、以前の本地仏庭渡地蔵尊の像、美容にして片目を小さく造ってあった。それゆえに大森の人はみな片目が小さいと言い、しかも美人の生まれぬのも鎮守様が器量よしだからといっていた。

 自分の生まれた在所では村の氏神と隣村の氏神と谷川を隔てて石合戦をなされ、あちらは眼に当たって傷つかれたゆえに、今でも隣村の人は片目が小さいといったが、しかもこちらの社の門客人(かどまろうどがみ)いわゆる矢大臣がまた片目を閉じた木像である。

 幼少の頃からこれを不思議に思って、今も引き続いて理由を知りたいと願っている。片方の目は一文字に塞いで他の一方は尋常に見開いているのが、二体ある像の向かって右手の年取った方だけであったように記憶する。今でもまだあろうから確かめることはできる。*参考までに柳田國男のうぶすな神社は、兵庫県神崎郡田原村大字西田原字辻川にある鈴の森神社です。

 もちろんこの彫刻は定まった様式に従ったまでで、特にこの社のみにかぎられたことではなかろうが、他の実例はあの地方ではまだ心づかぬ。


このように書かれていて、柳田國男はうぶすな神社でみた片目の像について、幼い頃から不思議に思っていたようですが、その後もこの片目の像について結論めいたことは述べてはいないようです。

さて、そんなこんなで、静岡県浜松市神ヶ谷にある賀久留神社へと行ってみました。ここには随神門があります。果たして柳田國男の言うように、片目の矢大臣がいるのかどうか、確かめてみました。

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<賀久留神社 随神門>

門の両サイドに矢大臣がいらっしゃいます。門の中はとても薄暗く、かなり分かりにくいですが、じっと覗き込んでみると、うん、確かに目の大きさが微妙に違う。

柳田の説にあるように、片方の年寄りの随神の目が少し小さいようです。

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<賀久留神社 随神 左大臣(年よりなので髭が白い)>

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<左大臣をよく見てみると、片目が小さいです>

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<もう一方の随神 右大臣(若いので髭が黒い)>
  
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<目の大きさは同じようです>

パッと見ただけでは気づきにくいですが、右大臣(年若い方)と比べてみると、たしかに左大臣(年寄りの方)は顔の表情がなにやら険しく感じます。それはおそらく左右の目の大きさが違うからじゃないかと思います。

だけど、この賀久留神社を見ただけで、柳田國男のいう通りだというのも早計なので、他に随神門はないのかな?と調べてみると、岡崎市の伊賀八幡宮にあることが分かりました。ただ、自分たちの住んでいる愛知県には伊賀八幡が唯一だということです。

これまた何でだろう?と新たな疑問が浮かびます。ひょっとして、東三河にはアラハバキ神が多く残っていて、これも門番の神として祀られているので、随神ではなくアラハバキとして残ったからかな?なんて思ったりしますが、それは今後のテーマということで・・・。

お隣の静岡県側にはいくつかの随神門がありますが、そのうちの一つが最初に紹介した賀久留神社で、他には浜松市の津守利神社、磐田市の府八幡宮にあるようです。

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<伊賀八幡宮 随神門>

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<伊賀八幡宮 随神 右大臣>

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<伊賀八幡宮 随神 左大臣>

岡崎の伊賀八幡宮の随神像は比較的新しく、最近の造りのようです。妙なリアル感がある像ですね。両サイドの像を見ても、片目を閉じているとか、目の大きさが違うなどはありませんでした。もしかしたら、昔にあったんだろう像には、柳田説のように片目の左大臣だったのかもしれないなと想像しますが・・・。

次に向かったのが、浜松市の津守利神社。

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<津守利神社 随神門>
  
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<津守利神社 随神 右大臣 髭が黒いので若い>
  
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<津守利神社 随神 左大臣 髭が白いので年寄り>

こちらは、先ほどの伊賀八幡宮に比べると少々年季の入った古さがあります。しかし、随神の目は片目にはなってないです。ちょっとデッサン狂った凄いお顔の、まあ、ユニークな随神ですね(^_^;)

結局、片目の随神はすべての随神門に共通するものではなく、また時代の推移によっても違うのかなと思う。

で、最後に、静岡県磐田市の府八幡宮を訪れてみました。

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<府八幡宮の随神門。 凄く立派な門です。かつてこの地には国府がおかれていました>

  
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<府八幡宮 随神 左大臣 あきらかに片目が小さくなってます>

  
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<府八幡宮 随神 右大臣>

仁王像を思わせるような立派な像です。格子があって中を伺うことができにくいのですが、どうでしょう、こちらの左大臣は見事に片目が小さく、柳田國男の説その通りであります。

一目小僧について柳田國男は、多くのオバケと同じく、本拠を離れ、系統を失った昔の小さな神であると言っています。そして、一方の目をつぶされた神であるとも言っています。大昔のいつの代にか神様の弮族にするつもりで、神様の祭りの日に人を殺す風習があった=いけにえ。逃げてもすぐに捕まえられるように、片目を潰し、足を一本折っておいた、と記しています。一目小僧伝説とは、いけにえの習慣であったと柳田國男は説いているのです。

以前、柳田のこの話を参考に書いた記事がありますので、よかったらどうぞお読みくださいな。「一年神主」

その後、谷川健一氏が、一目小僧伝説について、たたら製鉄に関わる山の民、いわゆる産鉄系の人々が、製鉄のため、高温高熱で目がやられる、火を起こすためのふいごを踏み続けることで足がやられる、そんな姿を里の人が見て、それを妖怪=一目小僧だといったことではないかと説いています。

ということで、訪れた所を見ると、いけにえ的な話はちょっと分からず、どちらかというと、産鉄に関係していそうな気がします。産鉄と一目の随神(矢大臣)との関わり合いは、次のテーマとして今日はここまでとします


オースチンmurasakiあいさつ

今年はブログ休止期間がありました。色々と思う所があって、記事もだいぶ整理してしまったので、以前と比べスピリチュアル色が無くなってしまい、そちらのファンの方には申し訳ありませんです

まあ、こんなエネ研ですが、懲りずにまた来年もよろしくお願いします

では、よいお年を・・・




テーマ : 神社仏閣    ジャンル : 学問・文化・芸術
2013_12_28


豊橋公園にある吉田城。

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1505年に、宝飯郡の長山一色城主の牧野古白が今川氏親の命によりに築城したとされる。

1590年には、池田輝政が東三河4郡を統治する15万2千石の城主となり、11年間にわたり城下町や吉田大橋の架け替えなどの大規模な改築が行われたが、未完成のまま池田輝政は姫路へと国替えとなる。

江戸時代には、東海道の重要な防衛拠点の一つとされていたため、幕府の老中、大阪城代、京都所司代など有能な譜代大名が城主に選ばれ、出世城などとも呼ばれていた。竹谷松平氏をはじめ、深溝松平氏や水野氏、小笠原氏など3万から8万石の譜代大名のみに託されるが、国替えは頻繁であった(ウィキペディア参考)。

とまあ、こんな歴史の吉田城に、先日運動不足解消がてら、豊川沿いをテクテクと歩いて行ってみたのです

そして、吉田城址の鉄櫓(くろがねやぐら)の横にある大木を何気に見てみたら、そこには「イスノキ」と説明されたプレートが掲げられていました。

「およよ~、イスノキがこんなところにあったじゃん?! すごい貴重な木だって聞いたのに、あれま、灯台もと暗し!」

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<鉄櫓(くろがねやぐら)の左側に茂っているのがイスノキ>

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<このイスノキは樹齢300年以上らしい>


イスノキという木は、伊豆半島以西から南西諸島にかけて自生する常緑の高木です。別名はユスノキ、ユシノキ、ヒョンノキ。葉にはアブラムシが寄生してコブができるのが特徴です。

そういえば、子供の頃、ブツブツがついてて気持ち悪いっていう葉っぱを見たことがあったっけ。それがイスノキだったのかな

ノミやカンナが歯こぼれを起こすほどにとても堅いというイスノキは、そろばん玉、櫛、床柱、鴨居などに賞用されるという。

また、日本神話にある「湯津津間櫛(ユツツマグシ)」という神聖な櫛は、その材料がイスノキといわれます。ユツツマグシは「斎つ爪櫛」という意味で、「神聖な爪櫛」と解釈でき、そして、ユツ→ユシ→ユスと転化してイスノキという名になったのではないかということです。

古代ではミズラに櫛をさして髪を束ねますが、「束ねる=統治=統べる=スメ=スメラミコト(天皇)」となり、頭髪にさした櫛は、天皇を庇護し、国家を安護し、天皇の権力を象徴するものだったのではないかということです。また櫛には呪術的な力もあります。

平城宮跡からもツゲの櫛と共にイスノキの櫛が多数発見されており、奈良時代には宮中で使用されていたということです。そして、イスノキの櫛は皇族にしか使用が許されず、一般人はツゲの櫛だったようです。

延喜式によると、宮中では、一日一枚の割合で年間366枚の櫛を使用し、内訳は天皇が200枚、皇后が100枚、皇太子が60枚、残り6枚が新嘗祭など予備用に当てられていたようです。おまけに使い捨てだったとか。

今では入手が困難な、とても貴重な材料という話のイスノキ。ではでは、イスノキと櫛から、櫛にまつわる話をもう少し。

櫛という言葉の元は、「奇し=くし」ということのようです。「奇し(くし)」は、一霊四魂の「奇魂(クシミタマ)」の働きで、神の奇跡をもたらすものとされます。

また、以前ブログで書きましたが、出雲の国造り神話の話で、日本書紀の中に、「神光照海」と表記があり、それは「神しき光海を照らして(あやしきひかりうみをてらして)」と読ませています。そして、「忽然に浮かび来る者」が大己貴命(オオナムチノミコト)の幸魂奇魂(さきみたま、くしみたま)で、大和の三輪山に住みたいと希望したという話があります。なので、奇し=あやしきことであり、櫛とはあやしき物だということでしょう。映画「リング」でも、呪いのビデオの中に貞子の母親が長い黒髪を櫛ですいている姿がありますが、あれもかなりあやしきモノですね

その櫛にまつわる話に、日本神話のイザナキの黄泉の国訪問があります。死者の国からの帰り道、悪鬼たちに追いかけられたイザナキは、髪飾りを投げつけると、それがブドウに変わり、悪鬼たちがブドウの実を食べている間に逃げた。しかし、また悪鬼が追いついてきたので、今度は櫛の歯を折り投げつけると、タケノコが生え、悪鬼たちが貪り食っている間に脱出したという話です。

もうひとつが、スサノオのヤマタノオロチ退治。この時、スサノオは櫛名田比売(クシナダヒメ)を櫛の姿に変えて、自分の髪にさしてオロチ退治に向かう。酒にベロベロに酔わされたオロチは、あっけなくスサノオに退治されるというお話です。

クシナダヒメは古事記では「櫛名田比売」と記されていますが、日本書紀では「奇稲田姫」とされ、「あやしき霊的な稲田」と読めます。スサノウはクシナダヒメのあやしき力、霊的な力を櫛にして、それをミズラにさして(霊的力を宿して)オロチ退治に向かったんだねと、この神話を読むこともできますね。

オロチ退治に酒が使われましたが、酒は、「奇し=くし」とも呼ばれ、アルコールが人格を変えてしまう作用をたとえた言葉のようです。お酒は人を楽しい気分にさせる反面、無謀な行動をとらせたりする飲み物で、実に不思議で奇しき(あやしき)物です。また、傷や病にも効果があることから「酒=くすし=くすり」となるようですが、薬も使い方によっては良くも悪く(毒)もなるという、これもまた奇しき物であります。世の酒飲みは、消毒と称し、飲んだくれておりますが、ちょっと意味が違うと思うべ

「酒=奇し=くし=くすし=くすり=薬」というと、薬や食品として利用する植物に、「葛=くず」があります。根からとれるデンプンは葛湯や葛餅などの食品にもなりますが、胃腸を整え、身体を温め、滋養もあることから薬(風邪薬の葛根湯など)としても用いられます。

ちなみに、「くず」というと、短身長肢の先住民のことを「国栖-くず」と称したそうです。この朝廷から疎んじられた先住民をさす「くず」から、今でも使われる差別的な言葉、「くず」になったようですが、元々は「葛」から薬や食品を加工した人たちが不思議な技術を用いることで、奇しき人々とされたのでしょうか。

吉田城のイスノキと櫛からこんな話になりましたが、吉田城主と言えば、小知恵伊豆と呼ばれた大河内松平氏の松平信明よく知られています。豊橋祭りのパレードの殿さまはこの方ですね。その大河内氏は、南朝の尹良親王(ゆきよししんのう)の浪合合戦に従った桃井氏の末裔とされていますが、浪合合戦を記した「浪合記」が偽書扱いされているため、真実は謎めいています。徳川の譜代大名大河内氏と南朝との関わりはとても面白そうですが、またの機会にいたします




テーマ : 歴史    ジャンル : 学問・文化・芸術
2013_04_23

一年神主

category: 民俗学   Tags: いけにえ伝説  

政治絡みの話にはあまり触れたくはない私たちなのですが、といいつつも、政治的な思想は皆無な私たちなので、政治絡みの話をまじめに語れるわけではなく、いつもの切り口で、政治家と神様話を絡めてみました。

さあ、ついに小沢一郎が民主党を離党することになりました。民主党も分裂して、過半数を割るかもしれない危機が迫っていますね。野田総理は今後どうするのでしょうか。

野田総理といえば、2011年8月30日に第95代内閣総理大臣に指名されました。総理大臣になってから、まだ、一年経ってないんですね。

選挙も近いとかささやかれるし、民主党の命運もどうなるのかなといった感じですが、野田総理も一年持たずに、それとも一年くらいで終わるのでしょうか?

そういえば、野田総理といえば、総理に就任して間もない頃、目を怪我して眼帯をしていたことがありましたよね。夜中にぶつけたとか言われていましたが、何だか印象に残る姿でした。

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「眼帯=一つ目」で思い出したのが、諸星大二郎という漫画家の「詔命(しょうめい)」という作品で、久しぶりに読み返してみました。

この漫画のあらすじは・・・、

都内の地震研究所に勤める公務員、贄田(にえだ)くん。彼は、ある日、辞令を受け、地震予防課という部署に配置変えとなる。新しい職場の地震予防課では、単調な書類作りが仕事で、遅刻をしても誰にも注意されない。驚くことに、経理の間違いじゃないかというくらいの給料も支給された・・・。

仕事は楽だし、高給だし、いいことばかりの毎日なんだけど、配置転換の日に傷めた目が痛くて治らず、ずっと眼帯をつけている。眼科で見てもらったら角膜に傷があるといわれたけど、思い当たることがない。

そんな日々の中、職場の書庫で、ある書類を見つけた。それは古文書のようなもので、生贄の伝説が記されていた。

そして、ある日、贄田くんは都庁へと呼び出される。待たされている間に出されたお茶を飲むと、意識を失い、気が付くと、都庁の地下にある聖所で縛り付けられたいた。そう、贄田くんは、何百年も前から行われていた武蔵の国を守るために神にささげる生贄として、身を捧げることになっていたのであった・・・。

「代々、武蔵の国を守ってきた神官たちの仕事は、東京都職員が継がずして誰が継ぐ?公務員は都民の礎です。やはりそうあってほしいものです・・・」と優しい表情で諭すように都知事が言う(この都知事のイメージはかつての美濃部都知事だと思われます)。

こうして巨大地震から守られている首都東京なのであった・・・。


諸星大二郎は、この作品の中で、柳田國男の「一つ目小僧 その他」を参考にしていて、その文献には、

「祭りの日に選ばれて神主となる者が、特にそのために片目を傷つけられる定めであった・・・」

「神主すなわち神の依坐(よりまし)となる重い職分は、頭屋(とうや)ともいい、あるいは一年神主とも唱えて・・・」

「ずっと昔の大昔には、祭りのたびごとに一人ずつの神主を殺す風習があって、その用にあてられるべき神主は、前年度の祭りの時から、籤(クジ)または神託によって定まっており、これを常の人と弁別せしむるために、片目だけを傷つけておいたのではないか。この神聖なる役目を務める人には、ある限りの款待と尊敬をつくし・・・」


と記されています。

つまり、生贄とは、活かせておく神への捧げものであって、神様用に一年または数年、その日のために、一般人とは違う待遇を与えて、隔離、区別しておく。もし、逃げた場合でも、すぐ見つけられるように、片目あるいは片足にしておくものだということです。

さて、総理に就任してまもなく、眼帯姿になっていた野田総理。諸星大二郎の話は、巨大地震から東京都を守る話だったけど、こんな話を読んでしまうと、何だかこの人も生贄に見えてくるし、一年くらいでポシャりそうな気配もあるので、まさしく一年神主にも思えてきます。ゾゾッ

余談ですが、諸星大二郎は、柳田國男を相当参考にしているようで、かつて、BSマンガ夜話で、漫画家のいしかわじゅんが、「手塚治虫の葬儀の時に、諸星大二郎とタクシーに乗り合わせたんだけど、お互いあまり面識がなかったので、雰囲気が固くて。その時、諸星大二郎は柳田國男の文庫を読みふけっていてサ。凄いなぁ、他の漫画家とは違うなぁと思ったんだよ」と話していました。


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<この中に詔命が収録されています。>

もうひとつ、民主党といえば、かつてこんな話がありました。

民主党が政権を獲った翌年の2010年春の雑誌に、

2009年8月30日の衆議院総選挙で、日本で初めての本格的政権交代が行われた。だが、その直前、民主党新政権の最高権力者となる人物が、日本の神に祈願していた事実は、今でもほとんど知られていない・・・。

といった内容で始まる記事がありました。

2009年4月、南朝天皇の宮があった奈良県吉野町吉野山の吉水神社に、一人の政治家が姿を現した。その政治家というのが、鳩山由紀夫で、「政権交代のために、勝手神社(かちてじんじゃ)で祈願してほしい」という用件だったそうです。

勝手神社というのは、西暦672年の壬申の乱で、大海人皇子(天武天皇)が、大友皇子(天智天皇の子)に対抗し、兵をあげ、戦勝祈願をした場所で知られています。大海人皇子が勝手神社で戦勝祈願をすると、背後の袖振山から五色の雲と共に天女が現れ舞を踊り、その後に、大海人皇子が見事勝利したという縁起もよく知られるところです。

ところが、勝手神社は、平成13年に不審火で焼失してしまったので、祈願してもうまくいかないと宮司さん(吉水神社の宮司さんが兼任)が説明したのですが、鳩山は、どうしても勝手神社で、「勝運祈願。民主党が政権を獲れるように祈願したい」と聞かないので、渋々引き受けたそうです。

さて、祈願の参拝当日の朝。宮司さんは、勝手神社の境内を朝から掃除をし、その後、顔がザラッとするので、いつものように愛用の髭剃りで髭を剃ったんですが、突然左の頬を切ってしまったと。吹き出した血は、押さえても、冷やしてもなかなか止まらず、結局、バンドエイドを貼り、頬を布で押さえながら勝手神社で祝詞を上げたということです。

出血は、神道では一番忌み嫌われること。そんなことが鳩山の参拝時に起きてしまったのです。

宮司さんは、神が忌み嫌ったんじゃないか。何かの予兆だったのではないかと思えてくると・・・。

そして、祈願後に、不審火で社殿が焼けてしまった勝手神社なので、宮司さんが冗談半分で「政権交代したら、再建に協賛してくださいよ」とお願いしたら、鳩山は「分かりました。それくらいはやらせて下さい」と語ったらしいですが、2010年春の段階では、鳩山由紀夫からの寄付はないとのこと。

その後、この祈願の甲斐あってか、政権交代が実現し、鳩山は首相となったわけですが、将来的に一国の総理になる可能性があるかもしれない鳩山が参拝するのだったら、真っ先に「日本国家の安寧と繁栄」を祈るべきだったのですが、残念ながら、宮司さんの目には、「政権交代」と「権力欲のためだけの勝利祈願」としか映らなかったようです。

とまあ、民主党の政権交代の裏にはこんなお話があったそうな。

単に自民党から政権を奪うために、神様を利用しただけですね。神社の名が現わすように「勝手」になりたいということが目的だったようです。その後、国家安寧を願うような祈願をしたのでしょうか?

おまけに、社殿の再建の約束も、口先だけで果たしてないみたいだし。ここでもマニフェスト違反ぢゃのう

この記事には、小沢一郎が妙見信仰をやっているという話も載っていました。吉水神社に祈願にいったメンバーには、自民党に怨念を抱く政治家として、野田佳彦の名もありました。

政治家って、結構裏では、神仏に祈願したりしてるんですね。吉水神社に祀られている後醍醐天皇も、ダキニ真天の呪詛をよく使っていたという話なので、時の権力者というものは呪詛合戦が結構好きなのかもしれない・・・、と思えてしまふ





テーマ : スピリチュアル    ジャンル : 心と身体
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