長い間ご無沙汰しておりました(^^)

なんだかんだとちょいと人間不信になるようなことなどがありまして、ブログ記事の見直しなどをしておりました。最近になってやっとボチボチ、ノソノソとまたブログを書いていこうかなと思う心境になりました。ったく、人んチのHPの文言やブログの内容をパクって、さも自分の文書のように振舞うってどうよ?人を騙すような行為をして情報取るだけ取ったらウチらのことには触れたくないって?治療やヒーリングを職業にする人なのにこんなことが平気でできるなんて・・・・?ふ~ん。

そんなこんなでちょっと愚痴ってしまいましたが(すみません、これくらいは愚痴らせてください)、またよろしくお願いします

さて、8月の終わり頃。友人の家に遊びに行ったついでに、設楽町の小鷹神社へ立ち寄ってみました。

ここも南朝伝説のある場所で、この神社には南朝皇子の「護良親王」が祀られています。

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護良親王という方は、後醍醐天皇の皇子で、第二宮、大塔宮とも称される方で、後醍醐天皇が隠岐に流されている間、倒幕運動の一番の功労者でありました。しかし、後醍醐天皇の側室の阿野廉子に疎まれて、鎌倉にて幽閉され殺害されてしまったという、南朝で一番最初の悲劇の方です。

ところがですね、南朝研究の藤原石山氏らによると、愛知県設楽町の小鷹神社の祭神は、「護良親王」ではなく、「守永親王」ではないかということなのです。

守永親王は、後醍醐天皇の第一皇子の尊良親王の皇子ですが、後醍醐天皇の正式な後継者であった父・尊良親王が亡くなってしまったために、その後を継ぐべく後醍醐天皇が猶子(養子)にし、南朝の正統の天皇「興国天皇」になられた方です。ちなみに父・尊良親王は「東山天皇」であります。

*藤原氏の説によると、北朝の目をあざむき、正式な系統を守るために、南朝には正統と副統が存在し、歴史書に登場する南朝天皇は副統であって、それとは別に正式な天皇の系統が密かに存在したという。守永親王は裏に隠された正式な系統の天皇だと解説している。

そして、隠語のような物として、父・尊良親王を「大鷹、大高」と現わすのに対し、息子である守永親王を「小鷹、小高」という別称、符号があるという点、そして、鎌倉で亡くなった護良親王が三河地方に来たとは考えにくいことから、設楽町の小鷹神社の祭神は、「護良親王」ではなく「守永親王」でないかと推理しています。

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この石碑の背後の山に小鷹神社の奥宮があり、ここから遥拝できるようになっています。奥宮には、鉄の弓がおさめられているという話で、女人禁制なんだそうです。

さて、「小鷹、小高」が別称、符号になっているという点で、ちょっと引っかかったのが、菟足神社の祭礼に関わる、いけにえ伝説の「こだが橋」。

この伝説では、祭りの朝一番に橋を渡った娘をいけにえにするために、橋で待っていると、そこに現れたのは自分の娘であった。どうしたものかと悩んだ父であったが、「子だが仕方ない」と諦め、娘をいけにえにした。ここから「こだが橋」と名付けられたとなっています。

ここでいう「こだが」は、「小鷹」から来ているのかもしれないという疑問がわいてきました。

菟足神社周辺に残されている数々の南朝関連の伝承を考えてみると、いけにえ伝説は、天皇の身代わりになった皇女から来ているのかもしれないとも思えるし、菟足神社のいけにえの風習をみてうんざりしたという大江定基ですが、豊川市音羽の萩に隠棲していた南朝皇子を山口県萩のあたりにかくまったのは大江氏だというし・・・。

また、探ってみよう~(^^)



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2013_10_04


当ブログ恒例の菟足神社の風祭りネタです

とはいえ、以前にも菟足神社についての記事を書いておりますゆえに、ネタも尽きて、そんなに面白い話もないのですが・・・(^_^;)

さて、今年の菟足神社の風祭りは4月13日(土)、14日(日)に行われます。4月の第二土日が祭礼の日になりますので、カレンダーの都合で今年はちょっと日にちが遅くなっていますね。桜も散ってしまいました。

ネタも尽きたとはいえ、それでも何かないかと絞り出してみたら、当ブログのもう一つの研究材料である「南朝」に絡む面白いものが見つかりました。

それは地名(名称)との奇妙な一致です。

菟足神社の周囲にある地名および名称には、「柏木の浜」「五社稲荷」「樫王(かしおう・菟足神社の北側にある地名)」があります。また、五社稲荷の北側には、善住寺というお寺があって、そこには赤松円心のお墓もあります。

そして、南朝と言えば吉野ですが、以前に「南朝リレーその7 ~小俣京丸から後南朝へのライン~」という記事で、後南朝を題材にした小松左京の「本邦東西朝縁起覚書」という小説のことをご紹介しました。

後南朝の舞台となった奈良県吉野郡川上村へと続く169号線沿いには、南朝の皇子の自天王を祀る北山神社、そして、その弟宮を祀る河野宮があるのですが、その辺りの地図を何気に眺めていたら、「あれ、菟足神社の周りの地名と同じ地名が並んでるのはこれ如何に?!」と思ったのです。

単なる偶然の一致にしても、なんだか出来過ぎているような気もして・・・。

地図で見てみるとこんな感じです。

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まずは菟足神社の周辺地図ですが、五社稲荷、樫王、柏木の浜、善住寺(赤松供養塔)がありますね。

そして、次に奈良県吉野周辺の地図を見ると・・・。

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169号線を吉野町方面から川上村方面へと向かうと、まず、五社トンネルという名のトンネルがあり、その周辺が樫尾(かしお)という地名になっています。

そして、さらに169号線を南下すると、柏木という地名が出てきます。そこには、弟宮の河野宮を祀る金剛寺があります。

吉野柏木

河野宮からさらに169号線を南下していくと、自天王を祀る北山宮へと続きます。このルートは、南朝の歴史の中でも後南朝と言われる、南朝最後の抵抗活動があった場所です。この地で自天王と河野宮が赤松の残党に殺害されて、南朝の歴史は幕を閉じることとなりました。

奈良川上村

川上村の全体の図。位置関係はこんな感じです。

こうやって見てみると、後南朝の史跡が残る場所の地名および名称が、菟足周辺となぜか重なるんですよね

三河南朝の伝承が残されている菟足神社周辺、また、長野県の大鹿村にも鹿塩(かしお)という地名があって、そこには、宗良親王や尹良親王の伝承が残っています。樫王と樫尾、そして、鹿塩という「かしお」という地名が南朝で繋がるのです。

そして、後南朝の皇子たちを殺害したのが赤松氏の残党ですが、五社稲荷近くの善住寺には、赤松円心という南北朝初期に南朝方だった武将のお墓がなぜかあるのです。

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赤松氏とこの地域はどんな関わり合いがあったのでしょうか?

その赤松氏というのは、後々足利幕府によってお家断絶となり、その残党が家名復興を目指して、南朝方の皇子を殺害したということです。

何か奇妙で不思議なつながりを感じます。

もうひとつおまけで、柏木神社というのが、菟足神社からは数キロ離れた豊川市西原という地域にあるのですが、その柏木神社のすぐ近くに「金剛寺」というお寺があるのです。山門の際にきれいな湧水のあり、軒丸に菊花紋があるこのお寺は、後醍醐天皇の皇女、懽子内親王に縁があるようです。金剛寺という名のお寺は全国に多々ありますが、後南朝の河野宮を祀る吉野の川上村の金剛寺と名称が一致するというのも妙なところです。

さらに、おまけの脱線話ですが、菟足神社の風祭りでは、土曜日の夜に仕掛け花火や手筒花火が奉納されます。毎年、仕掛け花火の大スポンサーである「総合青山病院」の創業家の名は牧野さんです。牧野さんと言えば、越後長岡の大名になった牧野氏がよく知られていますが、この牧野氏は元々は東三河の豪族でした。

この牧野氏の家紋が、「三つ柏」で、豊川市御津町の大恩寺にかつてあった「念仏堂(三河南朝御所の王田殿から移築したとされる)」の天井画にも、三つ柏が描かれています。ここでも柏というものが関係してきますね。

後村上天皇と柏の話もありますが、まあ、あまり追いかけるとますますややこしくなりそうなので、こんなところにしておきます

おまけに、コブメロの実家の家紋も三つ柏だったと、つい最近分かる。凄い節穴・・・( ̄▽ ̄;)


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2013_04_09


節分も過ぎ、暦は立春。春を感じる季節になりました

日も長くなり、日ごとに太陽の温かさも増してきていますが、花粉症の人には辛い時期ですね 今年はさらに大陸からの大気汚染もひどく、おまけにもう少し暖かくなると黄砂も飛んできますので、目、鼻、のど、呼吸器がやられないように気をつけないといかんですね 私も以前みたいなひどいメにあうのはもうごめんだわサ

大陸といえば、旧正月だと言って花火をバンバンぶっ放して大騒ぎしているようですが、今年は2月10日が旧暦のお正月でありました(年によって日にちが変わる)。

さて、旧正月の申の日と酉の日にかけて、ある変わった祭事が行われる地域があります。それは、愛知県田原市の久丸神社とそのすぐ近くの神明社で行われる「寝祭り」という祭事です。

なぜこの祭りが奇妙なのかというと、「このお祭りの祭事の様子を、誰も見てはいけない」というところです。うっかり見てしまうと、大変なことになってしまうと恐れられ、伝説では、この祭りを見て盲(めくら)になったり、狂気になった人や、神職をあざけったため数日のうちに病気になり死んだ人もあったらしいということです。また、知らずにその祭りの場所を通ってしまい、神主に出会い、熱病を発症した人も何人もいたという・・・

では、どうしてこのような奇妙な祭事が行われるようになったか。言い伝えによると、神様が見苦しいご病気であって人に会うことを嫌ったからだとか、また、ある説では、南朝系の皇子で、常に北朝をはばかって隠れていたので、人の賑わう所へ出ることを好まなかったということです。

現在では、南朝の天皇や親王にまつわる祭りであると密かに言われているようです。

ふむふむ、ここも南朝に縁があるのね

そういえば、去年の秋に訪れた南朝の隠れ里という伝説の、静岡県春野町の京丸の里に伝わる話が、久丸神社のお祭りに似ているなと思い出しました。

それは、春野町の石切という集落の古老の話で、「昔々、京丸の人が来るという話を聞くと、雨戸を閉め、用心して寝てしまった」という話です。

京丸という場所は、南朝の親王や皇女が隠れ潜んでいた所で、北朝の追跡に対して凄く神経質になっていたという点から、周囲に恐ろしげな伝説を流して、人が近づけないようにするとか、行動を悟られないようにしたことが、こんな伝説となったのではないかと推理します。

富士谷の隠れ大本営に潜んでいた南朝の皇子、皇女たちは、北朝軍に攻められ、遠州京丸の山中に隠れた。しばらくこの地で時の移るのを待ち、折を見て、山麓の気田に下り、南朝方の西園寺氏などの所領であった都田に入ったが、ここも長居が出来ず、北畠氏の一族の石津氏を頼り、佐鳴湖付近の入野へ行ったが、ここも今川氏の勢力が伸びてきていて、三河の渥美神戸へと舟でたどり着いたものと想像される(藤原石山氏の調査による)。

なので、京丸に伝わる「人々が寝静まって見ないようにしたという伝承」と、田原の久丸神社の「見てはいけないお祭りの伝承」が重なるように思います。

ではでは、その皇子、皇女さんは誰だったのでしょうか。

田原市の神戸神明社(かんべみょうじんしゃ)所蔵の「久丸明神社旧記」によると、「久丸大明神 神戸之内漆田にあり、右皇女神明は高子媛と申し、久丸、梅丸と申す者 甥の君にて、右三人舟にて 百々村(どうどうむら)に揚り給ひ 神戸に住み給ふ」と記されているとのことです。

この高子媛というのは、後醍醐天皇の第一皇子の尊良親王の流れの、元子内親王(小室門院)のことではないかといわれます。

梅丸というのは、長慶天皇の皇女、梅子内親王のことではないかと思われます。この皇女は、小室門院とともに、遠州京丸山中に隠れていて、京丸には「梅が元」という伝説地があるといいます。

そして、久丸というのは、小室門院と興良親王(宗良親王の子)の御子で、松良親王のことではないかと。松良親王は南朝の正統な皇位を継承した方といわれます(三浦天皇の家伝によりますが)。

さて、誰も見たことがないという久丸神社の神事。どんなことをやっているのかは文献で垣間見るしかなく、藤原石山氏が調査された「渥美郡神戸郷久丸明神記」という明治37年調べの記録には、

昔、神明社の神主を青津地区の大場氏が、久丸神社の神主を赤松地区の楠氏がつとめた。一方の神主が、正月の巳の日から神明社の約4キロ東の太平洋に面する海岸へ行き、海水を浴び、3日間身を清める禊払いをした。これを垢離掻(こりかき)という。

垢離掻が終わると、申の日に神明社の神主は、神明宮に帰り祭礼にかかる。久丸神社の神主は百々村の神の窯穴という所に行き、神の窯穴祭りをして、一夜を明かす。神の窯穴で背負ってきた釜で斎火を焚いて神事を行い、翌日の未の刻に神明社に帰る。神明社の神主は神明宮で夜明ししてこれを迎え、外殿で神酒を酌みあって、祭りを終える・・・。


と記されているようです。ここで出てくる大場氏や楠氏というのは南朝の家臣でしょう。

これらの祭りはすべて極秘の行事であって、神主が神の窯穴へ行く途中や神明社に帰る途中などの姿を見ると神罪をこうむるということから、村人はこの日には戸を閉め、明かりも灯さず、火も焚かず、音も立てないように家の中に籠り、静かに祭りが終わるのを待った。外出もせず、まるで寝静まっているかのようであることから、「寝祭り」の名が生まれたようですが、申の日に夜明しをするということから、庚申待ちの信仰もここに入り込んでいるように感じるところです。

現在では、時代とともに行事も簡略化し、みそぎもなくなり、神の窯穴の祭りもしめ縄をはって式をするだけになったということですが、神事は神職だけで行われ、氏子の人々は、神罰をこうむるという昔からの言い伝えを守り、神職の往復する姿を見ないよう、付近を通行しないということです。

南朝の皇子、皇女らが遠州京丸から舟で逃れて田原の神戸の地に滞在したという伝承。そして、その逃れて来た方々が正統な皇統を引き継ぐ方々であったという点から、久丸神社の祭神は南朝の皇子だと伝えられ、この皇子がこの地に潜伏中に、天皇が父である上皇や母后の御所に年賀に行く「朝覲御幸(ちょうきんぎょうこう)」、または、天皇が正月にただ一人で行う宮中秘儀「四方拝」が密かに行われたのではないかという説もあります。

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そんなところを推理してみると、神明社が親である小室門院(小松天皇)が住まわれていた御所で、おまけにひょっとしたら松良親王は、皇位を継承し「松良天皇」になっていたのかもしれません。そして、松良親王と梅子内親王が久丸神社に住まわれていて、正月に親の住む御所にお年賀に参内していたのではないかと。んで、松良親王は松良天皇として四方拝を行っていたんじゃないかと想像しちゃいます。ついでに言うと、神明社のすぐ近くには若宮神社というのがあるので、松良親王と梅子内親王の間には皇子がいたんだろうと妄想します

ということで、こんなことを知識として頭に入れて、現地に赴いてみましたが、久丸神社は町中によくある神社の風景にしか見えませんでした。ちょいガッカリ しかし、神明社は立派ないでたちで、由緒書きによると、倭姫が神さんをかついで場所探しにまわったところであると、いわゆる元伊勢だということが書いてありました。以前、渥美にも元伊勢の伝承があるという話を小耳にはさんだことがあったんですが、ここのことだったんですね。

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<久丸神社>

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<神明社>

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<神明社の由緒書き。変な人物が写り込んでおりまする。すみません。>

南朝に関係するものは何の欠片もなく、ただ久丸神社の近くに「よしの寿司」というお店があるだけでした。南朝に関わることはこれだけかな・・・(^_^;)

そして、神明社の近くにもう一つ若宮神社というのがあるので、久丸神社と神明社の間を往復するという行列は、この神社には関係ないのだろうかという疑問が浮かび、若宮神社へ立ち寄ってみました。

すると、その近くで作業をしていた青年がいたので、ドグオ氏は「久丸神社の行列ってここまで来るの?」とフレンドリーに尋ねてみると、その青年は目を合わさないような態度とちょっと口ごもった様子で、「・・・それって、寝祭り・・・?」と鋭い眼光をチラッとさせながら言いました

「うん、そうそう、それ」と聞くと、青年は、「う、うん・・・、ここには来ないよ」と言って、そこから先は何も言いたくなさそうな雰囲気だったので、「あ、そうなんだ。どうも、どうも、ありがとうございました~」と明るくその場を去ったドグオ氏でした

なんでしょう。現在でも口外してはいけない掟でもあるのでしょうか。やはりあまり人には言いたくないお祭りってことなんでしょうかね。

久丸神社の寝祭りは、藤原石山氏の資料によると、旧正月を過ぎ、最初の巳の日を迎えてからの申酉の日に祭りを行うそうです。巳の日を迎えずに祭りを行うと災いが起こるということのようです。その習わしによって今年の暦を見てみると、旧正月が2月10日。それから最初の巳の日が2月20日で、23日、24日が申酉の日になります。

おそらくこの日の日中に行列があると思われますので、この場所を通りかからないようにした方がいいかもしれないですね。場所は、田原市の道の駅めっくんはうすの近くで、国道259号線をはさんで、あっちとこっちで行列が往復すると思いますが、もし行列を見てしまった場合は、後日、神社へ行ってお祓いをしてもらえば大丈夫だそうです

でも、場所的に交通量の多い所なので、知らずに通りかかって見ている人もいるんじゃないかと思うのですが・・・


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2013_02_15


2012年も押し迫ってまいりました。

アセンションと言われた21日~22日ですが、表面的には穏やかに過ぎていきましたね.。見えないところではどうなってるのは知りませんが、まあ、そんなものでしょう ニュースによると押しかけた観光客によって、マヤの神殿が修復不能なくらいに壊れてしまったとか・・・。なんだかなぁ

さて、年末に選挙も行われ、いよいよ自民党の安倍政権が始まります。そんな中、安倍総理は、母方の祖父である岸信介元首相のお墓参りに、山口県田布施町を訪れたというニュースを目にしました。

「ん?岸首相のお墓が田布施にあるって?」

と田布施に引っかかりを感じ、安倍総理の家系なる物を少し調べてみました。

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ちょうどいい具合に、「フラッシュ 新年合併号」に安倍一族の記事が載っているということで、購入して読んでみました。ちなみに付録はなんと話題の「壇蜜」のDVDで、コンビニへ買いに行ったドグオ氏は、レジのオネエチャンの前で「壇蜜のDVDが欲しくてフラッシュを買うわけじゃないですから~」と心の中で必死に言い訳したらしいです・・・

ま、壇蜜はさておき、安倍家の系図を見てみると、

●安倍晋三の母方の祖父は、岸信介元首相。
●岸信介元首相は、佐藤家から岸家へ養子に入った。佐藤家の佐藤栄作元首相とは兄弟。
●佐藤栄作元首相の奥さんは、松岡洋右元外務大臣の姪で、佐藤栄作とはいとこ同士。
●松岡家は吉田茂元首相の娘と婚姻関係にある。
●吉田茂元首相の孫は麻生太郎で、安倍晋三とは縁戚関係にある。
●吉田茂元首相の奥さんは、大久保利通(薩摩)の孫。
●安倍晋三の母方の叔父の奥さんは、井上馨元外務大臣の血統。
●井上馨元外務大臣の血統には、日産の創始者、鮎川氏がいる。
●安倍晋三の奥さんの実家は森永製菓。

などなど、まあ、素晴らしい系譜が出てきます。「まるで戦国時代の政略結婚のように養子縁組をしている」と記事にも書かれているように、あっちこっちで政界財界との繋がりを作り上げておるようです。

そして、田布施と言えば、南朝の末裔だといわれる大室寅之助の出身地ですが、山口県熊毛郡出身および関連する政治家(田布施一味とかいうらしい)など、いわゆる長州出身者には、

伊藤博文、山縣有朋、戦前の外務大臣の松岡洋右、終戦時の内務大臣の安倍源基、日産創始者の鮎川義介、日立創始者の久原房之介、共産党No.1の宮本顕治、マルクス主義を広めた河上肇、岸信介元首相、佐藤栄作元首相、安倍晋太郎元外務大臣etc・・・

といった名前が見られます。

で、不思議なことに鹿児島県にも熊毛郡という地名と、田布施(南さつま市金峰町)という地名があって、小泉純一郎元首相の父・純也氏が田布施の出身だという話で、ついでに、民主党の代表になった海江田万里氏の本籍も金峰町だそうです。

こちらは薩摩出身ってことですね。

なぜに田布施という地名がこんなに絡んでくるのでしょうか。おまけに山口県の田布施町は16000人ほどの小さな町なんですが、ここから総理大臣が2名も出ているなんてあまりにも凄すぎると思いませんか。なんでかな?

そして、田布施と言えば大室寅之助ですが、南朝の末裔であり、明治天皇との入れ替わり説がささやかれる人物であります。

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田布施と南朝の関わりあいをアレコレ考えてみるのですが、全くもってよくわかりまへん ただ、何となく気になったのが、以前、南朝の富士の隠れ大本営といわれる場所を探っていた時に見つけた、静岡県富士宮市の田貫湖周辺に後醍醐天皇の御所があったという伝承で、その田貫湖畔には、田貫神社があり、田貫次郎、尹良親王(ゆきよししんのう)がお祀りされているということでした。

「タヌキ?何?ちょっと間抜けな名前だな」なんて思っていたのですが、尹良親王の伝承の中に、上野国新田荘の寺尾城主・世良田正義の娘を妃にしたという記述や、新田・小田・世良田・桃井氏が尹良親王を奉じたという話が残されていて、「世良田と田貫かぁ・・・」とぼんやり考えていたのです。

「田貫って、タを抜くんだよね。ってことは、世良田からタを抜くと、世良になるから、世良と言えば世良親王(よよししんのう)っていう後醍醐天皇の皇子がいたよね。早くに亡くなった親王だけど、乳父は北畠親房で、親房は世良親王が亡くなったことで、出家したんだよね。世良親王は聡明で後醍醐天皇から大きな期待をかけられていた皇子だったから、親房はその責任を感じたということらしい・・・」

世良親王という方は、建武の新政の前に亡くなっているので、南北朝の物語の中には登場してこない人物ですが、以前から「世良親王の世良と世良田って、田があるかないかだけで同じような名前だから何か関係あるのかな?」とうっすら疑問に感じていたのです。

そして、もうひとつ、タヌキを隠語として考えてみると、「タを抜いたり、消したり、隠したり、伏せたりしてごらんなさい」というメッセージかとも思えてきて、そうして考えてみたら、ひょっとして「田布施」も隠語で、これは「タを伏せてみろ」と取れるかもしれないと思ったのです。「田無」もあるけど、これはまだ未調査ってことで

そうして田布施を見てみると、ここは「世良田」か「世良親王」に関わりのある場所なのかもしれないと思えてくるのです。

じゃあ、世良田を見てみると、世良田の地名は群馬県太田市にあります。世良田東照宮があり、徳川家の祖先の地ともいわれています。徳川家は、元々は南朝の忠臣である新田氏が先祖といわれ、徳川の家臣団には、南朝の忠臣たちが名を連ねています。世良田と南朝の関係は何やら深いことがうかがわれますね。

戦後では、世良田を中心にした半径約50キロ圏内から三人の総理大臣が出ておるのです。中曽根康弘氏、福田赳夫氏、小渕恵三氏のお三方ですが、同じ地域にかたまるなんて密度濃いよね~
 
もうひとつ世良田というのは、いわゆる被差別部落といわれる地で、先ほどから出ている山口県田布施や鹿児島県の田布施も同じようにいわれる地だそうです。

こういった地域についてはネット上では半島系とかよく言われていますが、南朝関係者が各地で潜伏したという伝承を追っていると、被差別部落といわれる場所は南朝と関係する場所なんじゃないの?という感じもしてきます。うわ、こんなことを書いてていいのでしょうか(滝汗

そして、フラッシュの記事には、安倍晋三総理の父・安倍晋太郎氏が「我が祖先は奥州の安倍宗任(あべのむねとう)である」と語っていたとあり、「安倍宗任は、平安時代の武将で、源頼朝に負けたため、四国の伊予国や九州の筑前国に配流されたのち、松浦水軍となった子孫が現在の山口県大津郡に移り住んだ・・・」と書かれています。

「安倍家のルーツは奥州で、東北蝦夷の首長である安倍一族の末裔」ということから、かつて石塔山荒覇吐神社(アラハバキジンジャ)の建立にあたって、安倍晋太郎氏は多額の寄付をしたということでした。安倍家のルーツが東北というのは間違いではないと思いますが、神社建立のきっかけとなった「東日流外三郡誌(つがるそとさんぐんし)」という古文書は、後に作者の創作物だったといわれています。

蝦夷、アラハバキで思いだされるのが封印されてしまった神様です。そして、封印された神様、女神様というと瀬織津姫が出てきますが、なんと安倍晋三総理の奥さまの昭恵夫人は、瀬織津姫にハマっておったようで、ヤンズ氏の瀬織津姫関係のイベントなどに顔を出していたこともあったようですよ。昭恵夫人が瀬織津姫に心惹かれたのも安倍家のルーツに由縁するものだったのかなぁ?なんて思ってしまうところですね

こうやって眺めてみると、山口、鹿児島、群馬という離れた土地で、なぜかよく似たような事が起きているように見えてきます。偶然で片付けるには無理があるようにも思うし、やはり、背後に結びつける何かがあるのでしょうか

ひょっとして、それは、南朝に関係する血脈なのかもしれませんね・・・


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今年も訳の分らん話にお付き合いいただきありがとうございました。
それでは、皆様、来年もよろしくお願いいたします


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2012_12_28


レイラインblue小俣京丸002

再び登場の南朝リレーその7でご紹介した図ですが、この図の中心に位置しているのが静岡県浜松市春野町にある小俣京丸という場所です。

南朝の隠れ里といわれる小俣の里と京丸の里。南朝の隠れ御所があったのではないかというのが小俣の里で、高塚山に葬られた尹良親王(宗良親王の皇子・長野県浪合村で自刃)をずっとお守りしてきたのが京丸の里といわれ、ここは60年に一度、たらいのようなデカイ花を咲かせるという京丸ボタン伝説でも知られています。

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<小俣の里と京丸の里の位置関係はこんな感じです。とにかくどちらとも山深い場所です。>

かわいい花ちゃんのブログを拝見していて、南朝の隠れ里といわれる小俣京丸の里にとても興味を抱いておりました。一度訪れてみたいと思っていたのですが、以前記事にも書いたように、小俣の里は昨今の大雨の影響で土砂崩れが起こり崩壊してしまい、小俣の集落に入れなくなってしまったということでした(それでも花ちゃんさんは土砂に埋もれた小俣集落に突入したという・・・)。

小俣は無理そうだけど、尹良親王をずっとお守りしてきた藤原家のある京丸には行けそうかな?ということで、京丸の里の方へ行ってみようということになりました。

とはいえ、色々と調べてみると、なんだかすごい山奥みたいで、道もどんな道なのかが全く想像が出来なくて、でも、京丸山に登山する人もいるみたいだし・・。一体どうなってるんだろ?という感じだったので、ひとまず行けるところまで下見をしてみたのです。

車を走らせ、国道362号線から石切方面に入っていくと、まず車一台分の幅しかない隧道に遭遇で、いきなりここでビビる そして、豊岡発電所からさらに京丸方面の道に入ると、ビタビタに湿った細い林道に「対向車来たらすれ違えないじゃん?!」ってな感じにビビる それでも頑張って走っていると対向からトラックが来てしまい、細い林道をバックする羽目になり、おまけに脱輪しそうになってビビる

「もういいよ、帰ろう」ということで、この日は途中で引き返し、「こんなすごい道、メゲる・・・。行けるのかな・・・」と、若干意気消沈気味で、しばらく考え込んでおりましたが、スズメバチ、熊、マムシ、山ヒルなどの脅威がないこの時期、凍結などの心配がないこの時期を逃したら、またしばらく行けなくなってしまうということで、先日、思い切って行ってまいりました

さて、若干ドキドキしながらも下見でビビった石切方面に入っていくと、「あれ、隧道って意外に平気に入れるじゃん」とか、「林道も前にきた時ほど、狭さを怖いと感じないじゃん?」と、一度走ってみたせいか意外と気楽な雰囲気で林道を走ることが出来てヤレヤレでした

林道は、途中舗装がなくなり、ダートになり、道がでこぼこしたり、枝が落ちていたり、落石があったりもしますが、気をつけながら走れば大丈夫で、これもヤレヤレでした

林道の途中には、民家も数件あって、住んでいる方がいらっしゃるようです。その近くには石切小学校跡があり、そこには公民館が建てられていました。

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<石切小学校跡の石碑>

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<石切小学校だった建物。>

そして、石切小学校跡からまもなく、京丸の藤原家、京丸山へ登山する入口に到着。この先はゲートが閉まっているので、ここに車をとめて徒歩でいきます。


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<ゲート前のスペースにある案内看板。>


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<そんなに高い山はありませんが、山々が折り重なる深い景色です。>


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<晩秋の林道に木漏れ日が静かにさしています。>


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<落ち葉をサクサク踏みながら歩きます。>


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<青空と晩秋の山。>


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<美しい景色を眺めながら林道をテクテク歩いていきます。>

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<林道の下は崖になっていて、川が流れています。川の流れる水音と木々のざわめく音、鳥の声・・・、自然の音だけしかない気持ち良い空間です。>

さて、1時間10分ほど、距離にして5キロほど歩いて行くと、藤原家へと繋がる私道がありました。その私道に入らせてもらい、坂道を上がっていくと、建物が見えてきました。歩き始めは小寒かったのに、ふ~、暑い~。汗、汗


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<神社のような祠なのだろうか?この背後には御神木かとも思われるような杉の大木が。>


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<その建物の裏にある杉の大木。>


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<春野町の名木百選に選ばれているようです。樹齢は不明らしいですが、かなり太いので相当な年数が経っているのではないでしょうか?>


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<ちょっくら失礼して杉の波動を感じさせていただくの図。重厚感のある中に、暖かさ、柔らかさを感じました。しかし、なかなか反応を示してくれなかったので、人の気に慣れていないせいか?はたまた動かざること山の如しのような芯の通った精神が宿るような杉なのかな?なんて思ったりしましたが、はて、どうなんでしょね?>


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<神社のような建物の近くにある石碑。大正9年7月に民俗学者の折口信夫がここを訪れ一泊したと記してあります。>


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<そして、石垣の積まれた上に立つ京丸の藤原家の屋敷。>


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<横から見た藤原家。日当たりが良くて、ホッコリするような穏やかな空間。昔の田舎の家ってこんな感じだったよね。>


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<藤原家の前は京丸谷。この谷に京丸ボタンが咲くらしい。>


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<石垣の上に建物が・・・>


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<登ってみるとまた祠のような建物。これは阿弥陀堂らしい。>


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<親鸞が訪れたという伝説もあるようで、お堂の入り口には、牡丹谷を眺める僧侶の絵が掲げられている。お堂内の天井には竜などの絵が描かれているようです。>

さてさて、一通り探訪を終え、林道を戻ることに。帰り道は、写真を撮ったり、吊り橋で道草したりで結構時間がかかってしまいました。

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<さすがに吊り橋は怖くて真ん中には行けなかった(>_<)>

ラジオも入らない、携帯も圏外のこの場所は、自然そのもの、その時がそのまま残されているような空間、時がゆったりと穏やかに流れているようなそんな空間でもありました。実は、富士~小俣京丸~奈良県北山宮を結ぶ図の、レイライン上に私の実家もどんぴしゃで乗っかって来るんですね。そんな理由もあって、この空間を味わってみたいと思ったのでした

折り重なる山々が屏風のような、つい立のような役目をし、山の懐深くに抱かれるような、日当たりのいい空間。北朝からの追手の危険をのぞけば、穏やかに静かに暮らせるいい空間ではないかと思った次第です。きっと逃れてきた南朝の皇子、皇女らもこの空間にひと時の安堵と癒しを感じたのではないかと思います。

おまけ1。

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<藤原家の軒先に写った緑の光と虹色の光。>


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<石切小学校跡の近くにある石切集落の八幡社、尹良親王座像がお祀りされているという。ここにも同じような緑の光と虹色の光が出現。太陽光線の加減でたまたま同じような光が写ったのだとは思いますが、同じような位置に同じ色の玉ということで、ひょっとして光の玉ちゃんがまた出た?なんて思ってみたりもして。はてさて、どうなんでしょうね?>

おまけ2。

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<藤原家へ登る坂道にあった鹿の角。>


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<林道の下を流れる川。この川の中央の岩に目が写っている・・・


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<拡大図。木が三角形のように立っていて、その中心に目。フリーメーソンか?!>

鹿の角に、三角の目。あれ、これは、まるで鹿男あをによしの鎮めの儀式みたいじゃないですか。じゃあ、誰が鹿の運び番で、誰が鹿の使い番なのかしら?おまけに、ドグオ氏は鹿の角を持って「MY 鹿です」とドラマの多部未華子ちゃんの真似して喜んでおる・・・

・・・最近、ドラマの再放送に毒されていてすみません

さてさて、12月21日、22日辺りがアセンションの日だと世の中では言われていますが、何らかの価値観が変わる転換期なのでしょうね。現実的に昨今の出来事を眺めてみても、そんな風に感じます。そんな時期に、レイラインのヘソに当たる地に訪れることが出来たということは、何かのお導きかなと思う次第です。京丸のあの場所にいると、今の世の中のめまぐるしい動きがウソのように感じられました。まさしく600年間、南北朝の争乱を避けて、世間の流れから遮断されていたそのままの空気があるように思いました。ラジオも携帯も入らいない、電波や電磁波の影響がないさっぱりした空間はいかにも清々しくもありました

しかし、運動不足の足には、いきなり往復10キロの道のりちょっときつかったかな?2~3日、殿筋が筋肉痛でした

おしまい(*^_^*)


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2012_12_08


昔々読んだ小松左京の本の中に、「そういえば南朝の事が出ていたような?」と思い出したドグオ氏は、本棚をさばくってみたところ、すっかり茶色に変色した昭和49年発行のハヤワカ文庫、定価320円を見つけ出しました

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「本邦東西朝縁起覚書」 著:小松左京 
現在は絶版です。興味のある方は古本もしくは図書館でお探し下さい。

南北朝の読み物としては、かの有名な「太平記」があり、また吉川英治の「私本太平記」が一般的にはよく読まれていると思います。

NHKの大河ドラマでもかつて真田広之主演で「太平記」をやったことがあるけれど、この時代を取り上げたドラマや映画や小説は、最近では少ないようですね。

信長、秀吉、家康の三英傑が出てくる戦国時代ものと比べて、話がややこしいのと登場人物にあまりにも馴染みがなさ過ぎて、一般大衆には興味がなく、ウケないのでしょうね

戦前は、楠木正成の活躍などは広く国民に知られたものらしいですが(国策でしょうか?)、戦後は一転して、かつての天皇に忠誠を誓った忠臣の話などは、戦争の反省とやらで、無かった事のように扱われているように思います。

さて、SF小説の大家である小松左京が、その数少ない南北朝を題材に扱った作品が「本邦東西朝縁起覚書」であります。

その内容は、「歌書よりも軍書にかなし」とうたわれた吉野・・・、という書き出しで始まるタイムパラドックスのお話です。

・・・やたら詮索好きで、どこへでも首を突っ込んでしまう男三人組が、何か面白いことはないかなと吉野を訪れた。

奈良県橿原市から吉野へ向けてオンボロ車で出発した三人組。吉野町を過ぎ、窪垣内のあたりから東熊野街道へと入り、険しい山道を走らせていると、柏木のあたりで車がオーバーヒートをする。

そこでしばらく小休止をしていると、仲間の一人が、「川上村金剛寺という寺に、河野宮の墓があるぞ」と言うが、他の二人は、「河野さんって誰?」というような、南朝の事は何も知らないというリアクションだった。

すると、「河野宮というのは、後南朝悲劇の皇帝だ。自天王の話を知らないんか?ここから先は、北山村まで後南朝遺跡がたくさんあるぞ」と言って、ここからこの三人はやっかいなことに首を突っ込んでいくことになるのであった。

結局、南朝の三ノ公かくし平にたどり着いた彼らは、そこで何と、本物の南朝の皇子に出会うのだった。

「壺中遊行の術」なる仙人の秘術がある。その術によって、壺に見立てた石棺の中に、その身を封じ込められた南朝の皇子とその家来。南朝をお助けするために役行者によってかけられた術であったが、約500年ぶりに、この詮索好きの三人の男によって、なぜか封印が解かれてしまったのだ。

復活した皇子は自天王といい、「我こそは、正統の天皇なり。」と宣言すると、現代まで脈々と南朝再建の意志を守り続けていた民衆が、自天王の元に集まり、なんと、現代の政府と政権を争って対戦することになってしまう。

「北朝は約束を破り、またまことの神璽はこちらにあり、皇統の正統性は我々にある。」
「偽王朝である北朝を倒し、皇統を正統にかえすためだ」と自天王はいう。

自天王軍と自衛隊の一大決戦が関ヶ原において行われ、やがて、日本は木曽~九頭竜ラインを境にして、東西に政府が分かれる、東西朝時代となってしまう・・・。


あらすじはこんなところです。タイトルの「本邦東西朝縁起覚書」というのは、こういったことによるのですね

自天王というのは、南朝再建のための抵抗勢力といわれる後南朝の最後の天皇といわれる人物で、小倉宮(父・後亀山天皇)の皇子とか後亀山天皇の弟の子とか長慶天皇の孫とか言われていますが、詳細は不明。自天王の弟宮が河野宮です。

この小松左京の小説には、役行者が出てきたり、源義経や天狗が出てきたりして、かなり荒唐無稽な話ではありますが、意外とリアルな部分もあって、戦後の自称天皇というのは、こんな感じなのかもしれないとも思ってしまいます。

小説の中に後南朝の遺跡がたくさん紹介されていて、自天王の御所が、奈良県上北山村小橡の「瀧山寺」にあり(すぐ近くに北山宮)、弟宮の御所は、奈良県川上村に「河野御所」として設けられたと書かれています。

さて、この話を元にして、南朝の隠れ御所と伝えられている静岡県春野町の小俣京丸と、奈良県上北山村の瀧山寺をラインで結んでみようかなと思って、とりあえずそのポイントを直線で結んでみると・・・、あら、まあ、なんと、そのラインは夏至の日出と冬至の日没の角度、レイラインで結ばれてしまったのでした

これは、面白いと思い、小俣京丸を中心にして、反対側には何かあるのかな?と線を伸ばしてみると、山梨県の富士山の北麓方面に行くではないですか。

ひょっとして、南朝の隠れ大本営といわれる「富士谷」はこの辺りかと思って調べてみると、富士吉田市大明見辺りで発見された宮下文書(富士古文書)が保管されていたという「阿祖山太神宮」がライン上に乗っかってきました。

で、さらにその周辺を探ってみると、三浦氏の唱える「松良親王生誕地 富士の皇居」といわれる都留市法能も近くにあります。

都留市に関しては、宗良親王も「名にたてる鶴のこほりの民なれば千世のみつぎもたえせさりけり」と、貢物を欠かさぬ都留郡民を歌に詠んでいるので、ここに親王の足跡をうかがうことができます。

ライン上に現れる田貫湖は、後醍醐天皇の本殿があったという伝承があるようです。実は、後醍醐天皇は吉野ではなく、富士に密かに入られておったとか。また、尹良親王が滞在されていたという伝承も残っている場所です。

図にしてみると、こんな感じです。

レイラインblue小俣京丸002
<小俣京丸を中心としたレイライン

図には、南朝に関すると思われる豊橋市、豊川市のローカルな地名も記してあります。一応、当ブログは三河南朝を中心に追っかけておりますゆえに・・・(^_^;)

そして、この図を眺めてみると、水色で示された帯状のラインが、不思議なことに後南朝の歴史の時系列とも一致してくるように思います。

先ほども少し出ました後醍醐天皇の富士谷の大本営の伝承について今回は置いておくことにして、この水色のラインの歴史をみていくことにします。

①天授5年(1379年)、北朝からの襲撃により三河南朝御所・王田殿が崩壊する。長慶天皇らはそこを脱出、富士谷へと逃げる。

元中9年(1392年)、南北朝合体。南朝と北朝は表向き講和する。南朝方には不利な条件が提示されたが、やむなく受け入れた。足利義満と講和した後亀山天皇とは別に、主戦派である長慶院たちは山梨県富士谷の隠れ大本営で南朝の正統の皇統を密かに守り続ける。

②しかし、その後、富士谷も足利方に攻撃され落城。長慶院の皇子である松良親王は皇女綾姫らとともに遠州京丸へと身を隠した。しばし、この地で時の移るのを待ち、折をみて山麓の春野町の気多に下り、そこから浜松の都田へ入ったが、ここも長居が出来ず、浜松市入野を頼ったが、今川氏の勢力が伸びて、奥三河や信州方面の各地へと潜伏していった(藤原石山氏の資料による)。

③応永31年(1424年)、信州浪合にて、南朝皇子が土俗に襲われたたいう浪合遭難があり、浪合で自害された尹良親王(ゆきながしんおう)を春野の高塚山に弔い、そこを守るために、京丸の地で、藤原家の方々が代々暮らしたところが小俣京丸です。
*浪合遭難には、応永3年と31年と永享7年と諸説が伝えられていますが、ここでは応永31年説を取らせていただきました。

④南北講和を受け入れた後亀山院の流れをくむ小倉宮も、その後、約束を違えた北朝に対して抵抗をはじめ、嘉吉3年(1443年)に、南朝与党らが突如御所に乱入し、神璽と宝剣を奪いとり、叡山に立てこもった。

その後も、南朝の血統を引く宮方の挙兵は、奥吉野の山中に続々と続いた。

⑤長録元年(1457年)に、赤松家の残党により自天王と弟の河野宮が殺害され、首級と神璽を奪って逃げた。これにより、後南朝も終焉を迎え、建武3年(1336年)に後醍醐天皇が吉野に転居し朝廷が分裂してから約120年もの長くにわたる南北朝の争乱は、歴史の中から消えていったのでした。


このように見てみると、後南朝の歴史の一連の流れが、この図の中で、日出から日没になぞらえられてしまいました。

歴史の中からも消えていってしまったというように、まるで栄枯盛衰の没落の図のような、一見残念な感じにもみえます。しかし、冬至の日没は、最も太陽のパワーが弱くなる時期ではあるけれども、ここを境に太陽はまたパワーを増していくということで、南朝再生への祈りがここに込められているようにも思えてきます

呪術的な理由でこのように移動していったのでしょうか?いやいや単なる偶然か。それとも、時空の仕掛けた壮大なシナリオなのでしょうか・・・

もしかしたら、南朝の御魂は、次なる再生へとパワーを蓄え、着々と準備しているのかもしれません。そして、小説にもあったように、どこぞの壺から、南朝の親王、内親王、ご家来衆が、「呼ばれて飛び出てじゃじゃじゃじゃ~ん」なんて、まるでハクション大魔王のように出てくるのかも?なんてね


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2012_11_03


今回は、懽子内親王(かんしないしんのう)の伝承に引き続き、また蒲郡市方面の南朝の足跡のお話です。

戦前、豊川市御油で南朝顕彰運動があった頃、豊川市御津町(旧宝飯郡)の山口保吉氏という方も、蒲郡市相楽町から大塚の辺りを中心に三河南朝の調査をされていました(大塚小学校の地名が大門という。参考までに、地名・字名の大門は、南朝の痕跡のあった地を現わすことが多いとされる)。

山口氏は、大宝天皇は長慶天皇の別号と考証しましたが、藤原石山氏によると、三浦家の系譜では、長慶天皇の皇孫にあたる美良親王を大宝天皇と尊称し、南朝最後の天皇と伝えています。

って、いきなり言われても意味不明ですよね(^_^;) だいたい「大宝天皇って誰?」っていうのが、一般の解釈ですよね。正史に現れる天皇じゃないし。

ま、山口氏曰く、三河南朝というのは、大宝天皇=長慶天皇にまつわる歴史のことを言うらしいですが、下の系統図をみると分かりますが、藤原石山氏と三浦氏が提唱する系統とは若干違っています。

keizu1000_20121022170956.png
<藤原石山氏による南朝皇統図>

この図では、大宝天皇は長慶天皇の孫となっていますが、山口氏は長慶天皇と大宝天皇が同一人物ではないかとみているようです。この系統図も正式な歴史を研究している学者がみたら、トンデモ扱いだと思いますが・・・

また参考までに、北陸に派遣された第一皇子の尊良親王を軸とした北陸王朝なるものがあったという記述もあるようで、そこでは白鹿という年号を使っていたらしいです。

後醍醐天皇は第一皇子の系統に正式な皇統を継がせたかったようで、実は、密かに第一皇子に践祚(せんそ・皇位を譲る)し、三種の神器も引き継がれていたようなのです。そんな点を考慮してみると、正史には現れない秘密の皇統が継承されていたというのもまんざらウソではなく、このようなトンデモ話にも実は真実が隠されているのかもしれないと思えます

ということで、山口氏ぐっさんの「三河吉野朝の研究」「芳花鶴水園の聖地(ほうかかくすいえんのせいち)」という凄いタイトルのややこしい内容の本をみて、蒲郡市相楽町にある相楽神社へ行ってきました

相楽神社は、砥神山の東北側、御堂山の南東側に位置する神社ですが、相楽神社の話の前に、まずは砥神山について説明したいと思います。


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昭和39年に発行された「蒲郡史談」という本によると、砥神山は昔から三河富士とも呼ばれる山で、この山が、相楽山荘という行楽地のある御堂山~五井山ドライブコース~三谷温泉を結ぶ観光的要所であったということです。現在、相楽山荘は相楽の森という自然景観を楽しめるキャンプ場や自然を散策するスポットになっています。

砥神山の名は、伝説では、橘諸兄卿(たちばなのもろえきょう)が十匹の鹿が駆け登るのをみて、「あの山は何山だ?」と訪ねたが、まだ名が付いていない山だったので、「それでは、その山を“十鹿見山”と呼ぶように」と言われた。以来、「とかみ山」というのだそうです。

また違う説では、遠くから鹿が見えたので、「遠鹿見山」で、とかみ山というようになったと。

砥神神社(現・蒲郡市豊岡町にある)の社伝によると、この地にしばらく滞在していた橘諸兄卿は、砥神山に光る物が現れるのをみた。そして、夢の中に白髪の老人が現れ、「その山は縁故ある霊地であるからすみやかにワシを祀るがよい」と告げた。恐る恐る「いかなる神におわしますか?」と尋ねると、「ワシは登加美の神じゃ」と告げた。それで、砥神山の山嶺に「とかみの神」を祀ったのが砥神神社の始まりだと伝えられているそうな。

現在、この砥神山の南西側に砥神神社があり、東北側に相楽神社があります。この相楽神社というのが、以前は兎上神社(とかみじんじゃ)と呼ばれていて、熊野神社と八幡社が合祀されて今の相楽神社という社名になったということです。

ということは、砥神山の両サイドにある神社の名は「とかみ神社」だったわけですね。

さて、“とかみ”から連想するのが、豊川市一宮町にある砥鹿神社で、ここで面白いと思うのが、橘諸兄の夢の話と砥鹿神社の縁起話がよく似ているような気がするのです。

橘諸兄卿、草鹿砥公宣卿(くさかどのきんのぶきょう)という公卿が訪れた・・・
この二人の公卿は同時代の人物のようである・・・
夢のお告げ・・・
老人・・・
とがみの神とトガの神・・・
社を建てて欲しいと告げる・・・


ふむふむ、状況や内容、話の構成がよく似ているなという印象で。ということは、伝説の元となった事象が同じなのではないかとも思えます。

で、一方、豊川市一宮町の砥鹿神社の社名の由来には、

①大国主が最後に止まった場所で、止所でトガ。
②鹿を神とする、ト鹿でトガ。
③豊川(とよがわ)からトガ。
④トカリ氏からトガ。
⑤多賀からトガ。


などの説がありますが、蒲郡市の砥神神社も、兎上、兎頭、戸神、十鹿見、遠鹿見といった書き方があります。

そして、昔は、砥神神社と多賀神社がそれぞれあって、江戸時代に両社が合併してしまったようで、それ以来、多賀神社の名が消えて、砥神神社になってしまったようです。

砥鹿神社と砥神神社と相楽神社は、伝承や社名由来が何か似ている感じがしてとても気になります。

さらに、兎上、兎頭という名前から、菟上足命(うなかみすくね)を祀る菟足神社とも繋がり、豊橋市高塚の菟頭神社(うがしらじんじゃ)とも関係してきそうな感じがします。三河南朝御所・王田殿があったとされる豊川市小田渕町の近くにも菟足という地名があるので、そんな点も気になるところです

さてさて、砥神山から砥鹿神社へと話が繋がり、前ふりの説明が長くなってしまいましたが、砥鹿神社との関係は、この辺りをじっくり考えてみると、三河国一宮の砥鹿神社の秘密が解き明かされるのかもしれませんが、色々と研究されている方も多く様々な説がありますし、また私たちには難しすぎるテーマで、あまりアホなことを言っては失礼なのでここまでですね

それでは相楽神社へとまいりましょう。

豊川市御津町に隣接する蒲郡市相楽町門成の山の中にあります。晴れていると三河湾が一望できる気持ちのよいロケーションです。

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<道端にある案内看板。相楽神社に兎上神社が合祀されたことが説明されている。>


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<相楽神社。ぐっさんによると、この周辺一帯を後村上天皇を祀る場所といい、また、長慶天皇(=大宝天皇)の生誕地で、そんでもって多賀の里とも呼ぶらしいのですが、ちょっと意味不明で分かりづらい・・・ ま、しかし、そんなこんなで謎多き場所でありんす。>


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<この日は薄曇りだったので眺望はイマイチでしたが、天気が良ければ三河湾の眺めがキレイだと思います。周りはみかん畑で、ポカポカとした長閑さが気持ちいいです


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<社殿全景ですが、屋根をみると軒丸瓦全部に漆喰のような物が埋め込まれている様子・・・?>



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<何か被せ物がしてあるような屋根のてっぺんの瓦の文様と軒下にある緑の文様は、よく見てみると、どうやら菊花紋のようです。>


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<違う角度からもみても、被せ物の下にあるのは菊花紋に見えます。緑色になっているのは銅版の装飾品のようですが、分からないように削ったのか、埋めたかのようです。しかし、ほとんど全部の瓦の文様を埋めるとは、これいかに?深まる謎

何で紋が隠してあるのだろう?いつこれをやったのだろうか?何か見つかってはいけない理由があったのだろうか?などと考えつつも、「寺院では、屋根をふき替えた時の古い瓦が、縁の下に残されていることが多いからなぁ」と、ちょいと縁の下を覗いてみたドグオ氏はこのような瓦を発見


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<十五弁の菊花紋。中心が梅鉢紋になっている。十五弁の菊花紋というのは珍しいらしい。それに梅鉢紋が組み合わさっている紋というのは一体どういう紋なのでしょうか?家臣でこの紋を賜った人がいるのかな?それとも誰か特定の天皇、親王さんを現す紋なのだろうか?何だろう?>

菊花紋をネットで調べてみても、十六弁とか十二弁の菊花紋などが多くあるようですが、十五弁はかなり珍しいようです。伊勢には多いとかいう話もありましたが、真偽のほどは分かりません。

梅鉢紋というのは、蒲郡市の清田の安楽寺にもあって、この寺は徳川家康の生母・於大の方の再婚先である久松家の菩提寺で、久松家の紋が梅鉢なんですね。自称天皇といわれる三浦氏が修業したのも安楽寺です。

徳川家康がここでまた南朝の痕跡地に絡んできていて、さらに安楽寺でも瓦の菊花紋が所々埋められていたので、何か怪しい気がしますね。


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<安楽寺の土塀にある梅鉢紋。屋根の瓦には菊花紋。一部埋められている。>

古い資料を元に南朝の伝承地を訪ね歩いて思うことは、ほとんどが何らかの理由で封印されているんじゃないかということです。誰かが都合が悪くて、南朝の証となる物を隠ぺいしてしまったんだよね、きっと。

今回はご紹介できませんでしたが、相楽の森一帯から御堂山にかけては、古いお寺や古城跡や古墳などがあって、山歩きしながら歴史散策、自然散策ができてよいですよ


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2012_10_22


岡崎市片寄町(旧額田郡額田町)。ホタルの里でも知られる山里に天恩寺というお寺があります。

三河南朝研究の藤原石山氏の資料を読んでいた時に、このお寺のことが出てきたので、気になって探索に出かけてきました。

とはいえ、天恩寺について、あまりよく下調べもせずに出かけてしまったので、どんなお寺なのか全く分からずだったのですが、訪れてみると、なんとまあ、素晴らしく美しいお寺でビックリでございました

さて、天恩寺というのはどんなお寺かというと・・・、

建武2年(1335年)。矢作川の戦いに敗れた足利尊氏は、「明日の戦に勝利させていただけたら、報恩のためにこの地に寺を必ずや建立いたします」と延命地蔵菩薩に戦勝祈願をすると、翌日の戦に大勝利。その後、将軍となり室町幕府を開くが、尊氏はその約束を果たせず、遺言とした。貞治元年(1362年)、三代将軍の足利義満がその遺言に従い、見性悟心(けんせいごしん)禅師に命じて天恩寺を建立。見性悟心禅師は、師である円応国師を近江より招き開山とし、自らは第2世となる。境内には、徳川家康ゆかりの大杉がある。長篠城の戦いの出陣の折、この辺りまで来た時、大杉の影から敵が矢を射かけるところを、延命地蔵の呼びかけにより難を逃れた家康は、これを大いに喜び、地蔵菩薩の前に三拝九拝し、何度も何度も馬上よりこの大杉を遥拝しつつ戦場に向かった。それにより、この大杉を「家康公見返りの杉」と呼ぶ。慶長7年(1602年)、徳川家康より寺領百石の寄進があり、以後江戸幕府により保護を受けた。建物の作者は不詳なれど、貴重な室町時代の禅風の建築であり、仏殿、山門は国の重要文化財。ご本尊は延命地蔵菩薩。臨済宗。


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<天恩寺略由緒>


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<道路際の駐車場に車を止めて、木立に囲まれた石段を登っていくと、門が見えてきます。>


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<門をくぐると見えてくるのが・・・>


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<大きな杉。>


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<この杉が家康ゆかりの大杉です。>


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<石垣が組まれた上に凛とした建物が見えます。>


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<貞治元年(1362)創建当時の姿が残る仏殿。入母屋、檜皮葺、桁行3間の室町時代初期の大変貴重な建物。国指定重要文化財。天に向かって反り返った屋根がとても美しいです。>


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<横から見るとこんな感じ。>


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<そして、天恩寺の境内には、古い土塀が残っていて・・・>


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<その土塀の瓦には菊の紋>


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<菊の紋>


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<足利一門諸家の家紋、二つ引両紋もありました。>


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<江戸時代に組まれたという石垣ですが、まるでお城のようでもあります。>


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<天恩寺への登り口の石柱。帝国特別保護建造物と書かれたこの石柱は、戦前に建てられたようです。>

以上が天恩寺のあらましでしたが、天恩寺の創建の逸話となっている建武2年の矢作川の戦いというのは、後醍醐天皇の命を受けた新田義貞と足利尊氏旗下の足利直義・高師泰が三河国の矢作川で布陣し、足利勢は敗れて遠江国へ退却した戦いのことです。

史料によると、矢作川の戦いで出陣し、足利軍を率いていたのは尊氏の弟の足利直義と高師泰となっているので、足利尊氏が岡崎の地で戦勝祈願したというのは、はてさてどうなんでしょうか?

創建の由来となっている矢作川の戦いですが、この戦いに敗れた足利軍は10日ほど後に、現静岡県駿河区で手越河原の戦いを行いましたが、これも南朝方の勝利で終わっています。そして、この一連の合戦の中に、“鷺坂の戦い”というのが三河であったとされ、それは現在の豊川市八幡町西明寺付近の地名に由来するといわれますが、豊川市篠束町にある篠束神社付近にも鷺坂の名がありました(神社の氏子が鷺坂会という名で活動しています)。

他にも鷺坂の名は、静岡県磐田市にもあって、ここで行われた戦いが“鷺坂の戦い”という説もあるようですが、鷺坂の戦いについては、どこで行われたのかが諸説あり、また、矢作川の戦いという合戦も、愛知県岡崎市の矢作川付近から静岡県の手越河原に至る広域な合戦のことだと思われます。後世においては、合戦自体の詳しい資料などが残っているわけでもなく、太平記などの記述を参考にするしかないのです。ちょっと横道にそれますが、国府がおかれた場所(豊川市と磐田市)に鷺坂と呼ばれる地名があるというのは面白いですね。

ちなみに豊川市八幡町の西明寺は南朝ゆかりのお寺で、長慶天皇並びに松良親王の位牌が安置されているそうです。目と鼻の先に住んでいたのにホントに知らなかったわん

もうひとつ疑問ついでに、天恩寺の創建について、「貞治元年(1362年)、三代将軍の足利義満がその遺言に従い建立した」となっていますが、1362年の時点では義満4歳で、将軍にもなってないんですけど・・・、とツッコミを入れたくなります(^_^;)

さて、お寺の伝承では天恩寺は北朝方となりますが、南朝を供養するお寺であるという考えと、三河から遠州地方にかけて展開する南朝方に睨みを利かせる拠点としての役割のお寺という考え方も出来るかと思います。

藤原石山氏の資料には、天恩寺のある地域は、作手街道の要衝の地であり、額田町の山中に南朝の残党が多く潜居したことから、足利氏も重要視し、天恩寺を建立して、南北戦死者の供養につとめると共に、南朝に味方した残党の台頭を抑えたのではないか。額田の山中には南朝方の皇子皇女をはじめ、戦死した犠牲者を弔う供養も多数散在しているとあります。

南朝方を供養するお寺といえば、今川氏によって1441年に創建された妙厳寺(豊川稲荷)だということですが、年代的には南北朝の争乱がだいぶ落ち着いてからの話になります。天恩寺の場合は、創建年代から考えると、南北朝真っただ中ということになりますので、供養だけというのは少し違うのかもしれません。

なので、南朝方に睨みを利かせる拠点として考えてみるのが、スッキリ来るかなと思います。

しかし、もう一丁、ひねりを利かせて考えてみると、南朝方の拠点だったのかな?とも思えてきます。

なぜそう思うのかというと、天恩寺の仏殿、あの姿かたちが、三河南朝御所、王田殿にあったとされる念仏堂にソックリな点がとても気になるからです。


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<豊川市御津町の大恩寺にあった念仏堂。写真でも十分に分かると思いますが、この建物と天恩寺の仏殿はソックリだと思いませんか?!>

三河南朝御所・王田殿にあった阿弥陀堂を移築したのが大恩寺の念仏堂。こちらは桁行5間なので、天恩寺の仏殿より大きいですが、サイズこそ違え、室町時代の様式、屋根の形、雰囲気がホントにソックリです。どちらも室町時代の極上の逸品で、ひょっとしたら、施主か大工は同じかも知れないと思えてくるほどです


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<これは大恩寺念仏堂内の厨子ですが、天恩寺仏殿の内部にも、これとよく似た厨子がありました。>

江戸時代に作られたといわれる天恩寺の石垣も、本当は南北朝時代のことで、実は城郭のような役割だったのかも知れないと妄想してしまいます。

で、もうひとつ、ちょっと気になるのが、お寺の名前。岡崎の天恩寺、南朝に関係するとされる豊川市御津町の大恩寺と豊川市平井町の報恩寺(懽子内親王の伝説)。これらのお寺に“恩”という字があるのは単なる偶然なのかなぁ?

テンオンジ
ダイオンジ
ホウオンジ


onji002.jpg
<オンジ繋がりに何か暗号でもあるのだろうか・・・?と大変気になるべ。>

そんなこんなで、ややこしい南北朝絡みの話は色々ありますが、天恩寺はとても素敵なお寺でしたこれからの季節は紅葉もきれいだと思いますので、ぜひ訪れてみてくださいな


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2012_09_30


静岡県浜松市天竜区春野町小俣京丸という所があります。

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秋葉山本宮秋葉神社のある秋葉山よりさらに山奥にあるその場所は、日本百名山の著者・深田久弥(きゅうや)氏でさえも、「疲れた、参った」というほど、行くのにかなり大変な所で、そんな険しい道のりを越えて行った先にあるのが、秘境ともいわれる小俣京丸にある小俣の里と京丸の里。

京丸山の南東、京丸川の上流にかつてあった集落が京丸の里で、遠州七不思議のひとつ、60年に一度、たらいのようなドでかい花を咲かせるという「京丸ボタン」の伝説で知られる場所です。そして、京丸川の南部を流れる小俣川の右岸にあった集落が小俣の里。この二つの地域は南朝の隠れ里でもあるのです。

遠州地方の南朝伝説探りの参考にさせていただいている「かわいい花ちゃんのブログ」というブログがあります。不思議な縁や不思議な出来事が重なったことから南朝の京丸や宗良親王(むねながしんのう)、尹良親王(ゆきよししんのう)を探究されているという方のブログなのですが、つい先日の9月7日の記事に、「小俣の里が昨今の大雨で土砂崩れが起こり、崩壊してしまった」と書かれていて、大ショックを受けたエネ研なのでありました

「ほ、崩壊・・・

携帯電話も圏外で、山ヒルや黒マムシもいて、もしマムシに噛まれたら町にたどり着くまでに命が持つだろうかなんて話もあって、少々ビビってはいましたが、一度訪れてみたいと思っていました。昭和41年に廃村になってしまった地域ではありますが、600年存在してきた里は、どうやら土砂崩れで押し流されてしまった様子です。

石で組まれたあまりにも立派な水路も崩落してしまったのでしょうか・・・。

かわいい花ちゃんさん曰く、「ここに南朝の御所があって、三種の神器もここにあったのではないかと思う」とのことで、分け入るのに困難な山奥に作られた立派な石組の水路をみると、何らかのものがここにあったのだろうと考えさせられる場所です。

今までも様々な自然災害はあっただろうに、それでも600年間ずっとそこに存在してきた里が、昨今のゲリラ的な大雨であっけなく崩壊してしまっただなんて、そんなことがあっていいのだろうか・・・(>_<) それほど最近の自然災害というのは強烈ってことなんでしょうか

さて、南朝の隠れ里といわれる小俣京丸という里。謎に包まれた南朝の話でもあるので、詳しいことはよく分からず、また諸説色々とあるのですが、長野県浪合村で自刃された尹良親王(宗良親王の皇子)の首を高塚山に葬り、それを小俣の里よりさらに深い山奥にある京丸の里でずっとお守りしてきたのが藤原さんという家なのだそうです(何年か前に山を降りられて、今は家だけが残っているようです)。

北朝に見つからぬように、山深い僻地へ身を潜めた南朝の人々。そんなひっそりとした京丸の里の民話に「京丸ボタン伝説」という悲話があるのです。

・・・足利の世。追われた南朝は山奥に隠れ住むようになった。京丸もそんな落武者の里であった。

大嵐の過ぎ去ったこの山奥の里に、一人の若者が倒れていた。よそ者を決して入れてはならぬという村の掟で、本来ならば殺してしまう所ではあったが、嵐で迷い込み怪我をしている様子の青年を助けることになった。

大変感謝した青年は、養生をしながら村人の仕事を手伝い、しだいに村人にも親しんでいった。ただ、青年は、口がきけないようで誰とも話はしなかった。

そんな青年に村長の娘、菊が好意を持っていたが、ある日、二人でいるところを見つかり、青年は、村を出ていくことになった。一人で出ていくはずだったが、菊に好意を抱く別の青年を殺めてしまったことにより、菊を一緒に連れ出すことになり、二人で村を出て行った。

青年は、自分は北朝の家臣の家の息子で三太郎といい、菊の村で助けられた時に、ここは南朝の里だということが分かったので、口がきけないふりをしていたと打ち明けた。

菊とともに、駿河の焼津にある実家に戻った三太郎であったが、菊が南朝の里の娘だと分かると、嫁に迎えることはできないと親から反対をされる。しかし、それに食い下がる三太郎は、自分の兄に刺されて亡くなってしまう。

三太郎の亡骸にしがみつき号泣する菊。一度村を出たものは二度と帰れないという村の掟ではあるが、行くあてのない菊は、やはりお母さまのところに帰りたいと思い、京丸の里へと戻ることにした。

飲まず食わずで三日間歩き通した菊の目にうつったのは見覚えのある美しい京丸山。そして、千尋の谷にかかる吊り橋の上から、山を見上げてみると、そこには傘くらいある大きな白いボタンが5輪咲いていた。

「あれが、お母さまから聞いた60年に一度咲くという京丸ボタンか。死ぬ前に一度見ることが出きたとは有難い。お父さま、お母さま、愚かな菊をお許しください。三太郎さまの元に参ります」とつぶやいた菊は、橋の上から谷に身を投げた(三太郎と菊が二人で身を投げたという話もあるみたいです)。

その花が咲くと天変地異が起きると伝わる京丸ボタン。菊がその花を見た翌年、遠州、駿河一帯は、とてつもない天変地異に襲われた。家々も倒れ、三郎太の家も津波に飲み込まれ、誰一人助からなかったと・・・。


この不思議な京丸ボタン、京丸に住んでいた藤原さんが1913年に咲いているのを見たという話があるそうですが・・・。その後は咲いたことがあるのでしょうか?

前回のブログで紹介した、蒲郡市形原の「田土社」も、草木に覆われて、その姿を遠くから眺めるしか出来ないような状態になっておりました。御津町の大恩寺にあった念仏堂も火災により焼失してしまったし、また昨今の大雨で十津川など南朝ゆかりの地が土砂崩れで大変なことになっていると思います。小俣京丸も田土社もその他のゆかりの地が、このまま自然の中に還り、と同時に南朝伝説や南朝の伝承地に寄り添うようにある木地師や特殊部落の歴史も、時代の一コマとして時空の中に還ってしまうのでしょうか。

なんだか切ないのう・・・



YOU TUBE キングクリムゾン・エピタフ

キングクリムゾンのエピタフ(墓碑銘)をザ・ピーナッツがカバーしたものです。オリジナルのクリムゾンも良いのですが、このバージョンはなかなかの出来だと思います。“我が墓碑銘に現れし言葉は混迷”というフレーズが、南朝の歴史を物語るようにも思います。そして、これからの世界を象徴するかのような内容も含んでいるような気がしてしまいまふ


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2012_09_10


今回は、またまたしつこく南朝のお話です。

後醍醐天皇の皇女、懽子内親王(かんしないしんのう)。後醍醐天皇と西園寺禧子との間に1315年に生まれたといわれています。異母兄に井伊谷宮に祀られている宗良親王、異母弟に後村上天皇などがおられます。

父、後醍醐天皇の即位により、内親王となり、16歳で伊勢の斎宮に卜定(占いによって選任)されるも、後醍醐天皇が倒幕計画の変で捕えられ、隠岐に流罪となったため、斎宮を退下する。

流罪となっていた後醍醐天皇は、その後、勢力を取り戻し、天皇に復帰。そして、大覚寺統(後醍醐天皇側・南朝)による持明院統(北朝)に対する融和政策のためにか、懽子内親王は、母の喪に服している中にも関わらず、持明院統(北朝)の光厳上皇の後宮に入内。

ところが、当初、後醍醐天皇側に味方をしていた足利尊氏が離反し、持明院統の天皇を立てたため、後醍醐天皇は吉野へと逃れ、南北朝が始まることになる。

父、後醍醐天皇が崩御すると、懽子内親王は、光厳上皇の御所を抜け出し、仁和寺で出家し、48歳で亡くなったと伝わります。

南北朝の橋渡しを担ったとはいえ、時代の流れの犠牲でもあったと思われる懽子内親王。隠れ南朝だったという三河吉野朝の正統の皇統である長慶天皇をお守りするために自らの身を犠牲とし、身代わりとなったと伝わる皇女とは、懽子内親王のことではないかという説があるのです。

1362年48歳で亡くなったとされる懽子内親王ですが、子細な記録が残っていないため、彼女の出家後の行動、亡くなった時期や墓所、光厳上皇との間に生まれた二人の皇女のことなどは実際のところはっきりとしていません。なので、出家後に、ここ東三河の地を訪れていたのかもしれないというのは、無きにしも非ずとも考えられます。

ということで、東三河に残る懽子内親王の伝説の場所を巡ってみました

まずは、蒲郡市西浦町にある無量寺です。

西浦山無量寺縁起によると、天歴5年(951年)、良久上人によって開創された、蒲郡ではもっとも古いお寺とされています。良久上人が全国行脚でこの地を訪れた際、絶景の三ヶ根山中での荒行中に、日ごろ信仰している不動明王を感得。そして、霊光輝く大木で不動明王像を刻み、西浦の地にお堂を建立したのが無量寺の始まりで、これが秘仏のご本尊、厄除け西浦不動といわれる所以だとのことです。

縁起によると、開創より約400年後の正平年間(南朝で使用された元号で1346~1369年の期間を指す)、後村上天皇一行が三河湾を航行中、海難に遭い、天皇は三河湾に浮かぶ篠島へ、懽子内親王は西浦の岬に無事到着。懽子内親王は無量寺に留まり、後日、感ずるところがあって尼となったという。

現在では、西浦不動がん封じ寺という名でも知られ、多くの参拝者が訪れています。


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<観光バスも訪れる西浦無量寺>



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<身代わり滝不動>


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<大きなクスノキも境内にあります。クスノキといえば南朝の忠臣であった楠木正成一族を象徴するものですね。>


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<無量寺のクスノキは、清田(せいた)の大クスに次いで蒲郡市内二番目の大木であると説明してありますが、清田の大クスといえば、南朝皇統の末裔であると自称する三浦氏が修業した安楽寺というお寺のすぐ近くだというのも、何かあるのかな?と思ってしまうところです。>


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<無量寺の片隅にある石碑ですが・・・。この石碑の背後に見える木の後ろ側に・・・>


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<このような供養塔のような古い石塔が建てられています。この石塔が、懽子内親王の供養塔だということですが・・・。>

藤原石山氏らによると、身代わりの皇女・懽子内親王は巳様とも呼ばれ、それを祀ったのが西浦無量寺のすぐ近くにある「田土社」で、ここはイボや皮膚病に霊験あらたかということで、かつては参拝する人で賑わっていたということです。

田土社は、「たのつちしゃ」とよみ、祭神は、天之目一箇命(あめのまひとつのみこと)。田土山の中腹にあって、「瘡毒、體毒等の病に霊験あり。社西の椿の葉を比って患部を撫づる時は快癒すとぞ」というように、皮膚病などに霊験ある神社で、また、雨乞いの祈願をしたこともあったようです。

田土社の祭神の天之目一箇命は、三重県の多度大社の別宮の一目連神社に祭られている神様と同じです。

多度大社の一目連神社は、現在、鉄工・鋳物などの金属工業の祖神・守護神として崇敬を集めていて、製鉄・金属関係の神様となっています。

その田土社は、地図には形原クリーンセンターの温泉施設のすぐ近くにあると記してあるのですが、その周辺をいくら探しても神社らしきものが見つかりません(―”―;) 1回目に探しに行った時には、何度あたりをウロウロしてみても、全く分からずで、おまけに突風が吹いてきて、今まで晴れていた天気がいきなり小石が飛んでくるような嵐の様相になってもうて

「懽子内親王は吹く風の神の垂迹でもある」なんて石山氏らが言っておったように、まるで懽子内親王が何か言ってるのか?!とちょっとビビルような、凄い様相の天気で参ったざんす(>_<)  ということで、この日は田土社を探すのを断念。そして、後日仕切り直しで探してみると、やっぱりクリーンセンターのすぐ裏手の山肌に田土社はありました。

生い茂る草木のその向こうに、鳥居と灯篭が確認できますが、道もなく、草木を押し分けて踏み入ることがどうしてもできず、神社を訪れることはできませんでした(それなりの装備をしていけば可能かも?)。

遠くに眺めるしかできない田土社は、まるで、千と千尋の神隠しのような、あそこから向こうには違う世界があるような、そんな佇まいでしたが、ちょっと残念な気も・・・ どんな風になっちゃっているんだろ・・・


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<無量寺の近くにある田土社。こんな景色になっていました。>

イボや皮膚病がよくなるという霊験(ガンも内部の皮膚(粘膜)にできたイボみたいなものだからがん封じかしら?)は、神仏がその人の身代わりになってくれるから、治癒するということらしく、そこから身代わりの皇女・懽子内親王が結びつくのではないかと思います。

そして、懽子内親王にゆかりのある場所として、王田殿があったとされる場所の近くに、懽子内親王ゆかりのお寺があります(お墓があるとか?)。懽子内親王は「閑子内親王」とも書くようで、このお寺の名も閑通寺といい、懽子内親王を偲ばせるような寺名です。


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<豊川市ある閑通寺。懽子内親王にゆかりのあるお寺だとの話ですが、懽子内親王を示すようなものは特に見つかりませんでした。お寺の前には川が流れています。>


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<瓦には菊紋。>

さて、場所は変わって、懽子内親王の異母兄の宗良親王が拠点とした静岡県引佐の井伊谷に「足切観音」という身代わりの観音様の伝説のあるお寺があります。

そのお寺は、かつての名前は円通寺といい(現在は晋光寺)、縁起によると、宗良親王が、身代わりになってくれた観音様を護持するために草創したお寺だということです。

宗良親王は、敵の流れ矢に当たり落馬したが、不思議なことに矢が当たった場所には傷一つなかった。その夜、観音様の夢をみたので、これは日ごろ信仰する観音様のお陰だと、朝、厨子の扉を開いてみると、観音様の片足から血が流れており、これは観音様が身代わりになってくれたと涙し、終生守り本尊とした・・・、こんな伝説があるようです。


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<静岡県引佐の井伊谷にある二宮神社。>


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<後醍醐天皇の第4皇子、宗良親王が祀られています。>


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<二宮神社を少し下がったところに足切観音が祀られています。>


asikirikannon002.jpg
<足に由来する観音様ということでわらじが奉納されています。>


asikirikannon003.jpg
<お堂の瓦には菊紋。宗良親王ゆかりのお寺だから菊紋を使っているんですよね・・・。菊の紋は結構使用されているなんて話もあるらしいけど、後醍醐天皇から菊の紋の使用を許可された武将が、あまりにも恐れ多くて使えなかったという話もあるくらいなので、やっぱ、天皇に関わる何らかのゆかりがなければ使えないんじゃいかと思えてくるのであった。>


neko001.jpg
<おまけ。 お寺の近くにいたナーゴたち

さてさて、身代わりといえば、おびんづる様。なで仏ともいわれる仏様で、東大寺やその他の寺院で、「除病したい場所をなでてください」と書かれた仏様を見かけたことがあるかと思います。


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<このようなお姿の仏様です。写真はウィキペディアより。>

先日、岡崎市の瀧山寺(たきさんじ)に行ったら、そこの本堂の中にも、おびんづる様が安置されていたので、私コブメロは「馬鹿な頭がよくなりますように」、ドグオ氏は「腰、腰」なんていいながら、スリスリしてきたんです。

そして、帰宅すると、コブメロは頭痛がしてきたのです。少し横になっていれば治るかなと思っていたのですが、どんどん頭痛が辛くなってきて 「おびんずるが効いたせい?」といいつつ、ドグオ氏に少し肩や首をほぐしてもらったのです。すると、間もなく楽になってきたので、夕食の支度を始めると、今度は、ドグオ氏が、「う、気持ち悪っ・・・」とうずくまっているのです。

「あんたを触っておったら、だんだん気持ち悪くなってきた・・・」と、夕食も食べれないくらいの状態に

最近は、腰が調子悪いとか言っていたはずなのに、この時は「頭が痛い」というので、首を触ってみると、頸椎7番あたりが冷たくなってて。なので、ここをガシッと押さえ込んでみたら、「うわ、来た!」とかいって、なんとか気持ち悪さから脱出したようです。ヤレヤレ。

で、次の日、「ちょっと、ちょっと、おびんづるさんと首の付け根の一撃、効いたよ。腰治ったもん」と嬉しそうに話すドグオ氏であったが、一体なんだったのでしょうね?


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<岡崎市の瀧山寺。本尊は薬師如来。三大東照宮の一つといわれる瀧山東照宮もあります。>

最後におまけ。もりけんの外応の話。

不思議研究所の森田健(もりけん)氏は、外応の話の中で、身代わりに関係するような話をしています。

たとえば、旅行に出かける日に、ちょっと指を切ってしまったなどの怪我をしてしまうと、「これから出かけるのに縁起が悪い」と思う人は多いかと思いますが、もりけんの話では、「時空(宇宙・神)は騙されやすいので、ちょっとした怪我で血を流すことも、大きな怪我で血を流すことも同じ現象と捉える。だから、これを外応として捉え、出かける時に、ちょっと怪我をして血が出たことは、これからひょっとしたら起きるかもしれない、流血的な事象をここでクリアした(済ませた)と考えればいい」と言っています。

なので、血を流すような事象(事故や怪我など)を避けるための身代わりの行為として、献血(体の外に血が出る)をしておくのも手だとも言ってましたよ。

ということで、身代わりの皇女・懽子内親王の話から、おびんづる様、もりけんへと話が飛んでしまい、何だか脈絡があるような無いような話になってしまいました(^_^;)

関連記事:隠れ南朝伝説



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2012_08_25


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