B フレンズ

穂の国東三河を中心に、三遠南信の歴史と謎、エネルギーを探求しています。ブログタイトル改めました。

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  1. 隠れ南朝伝説
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後醍醐天皇の番組が・・・~歴史秘話ヒストリア・NHK~

毎週金曜日、午後8時からNHK総合で放送されている「歴史秘話ヒストリア」。

今日9月8日(金)の放送で、延期されていた後醍醐天皇を取り上げた「謎の秘宝で日本を変えよ!~不屈の天皇 ミステリアス紀行」が放送されるという情報を聞いて、「やったー!」と思っていたのですが・・・。

後醍醐天皇NHK
NHK様のブログよりお写真お借りしました。

朝、新聞のテレビ欄を見て「あぁー 内容が違うじゃん?なんでー???」ということになっておりました。

で、さっそくNHK名古屋へ電話して確かめてみたところ、この地域では、9月1日に中部ナビゲーションという番組が拡大放送されたために、他の地域では放送されたヒストリア「富士山の噴火」を1週遅れで今日放送するっちゅーことでした。

後醍醐天皇はまた延期

一昨日、久しぶりに南朝リレー11を書いたけど、三河に南風吹かずか・・・

再放送の9月17日まで、またオアズケだ


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テーマ : 歴史雑学    ジャンル : 学問・文化・芸術

  1. 隠れ南朝伝説
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三河万歳の伝承からの南朝伝説 ~南朝リレー11~

東三河エネルギー研鑽会ブログにて、地元の封印された秘話・三河南朝伝説に関するお話を“南朝リレー”というシリーズで“10”まで書いてきましたが、若干ネタも切れたということもあり、すっかりご無沙汰となっておりまする

ところが最近、ドグオ氏が仕事のついでにたまたま通りかかって、気になる場所を見つけたといい、「ちょっとそこを確認に行きたい」というので、訪れてみたのです。

そしたら、そこには結構スゴイことが書いてあるなとビックリいたしました

小坂井 万才看板01
豊川市宿町中島にある看板です。

この看板には、小坂井三河万歳・小坂井神楽の発祥の地と書いてあります。三河万歳の発祥の地としては、西尾、岡崎市舞木町の伝承のことを以前読んだことがありましたが、まさかここも万歳発祥の地であるとは知りませんでした。

この看板によると、明治の頃に、ここ小坂井町宿(現豊川市宿町)から、代々万歳を襲名していた人が安城へ移住したとあります。それと、江戸時代の頃からの説明と、「小坂井の万歳・神楽発祥の地」と解釈できるような内容、および神楽は昔から盛んだったとあるだけで、江戸時代以前のことはここからは分かりません。

三河万歳というと、西尾市や安城市が三河万歳発祥の地と言われたり、盛んであったりしていますが、起源について調べてみたところ、はっきりと分からない点もあるようでした。

ふ~ん、豊橋市と一宮市の喫茶店モーニング起源説の話みたいな感じではっきりとしないのね?なんて変な方向にイメージしつつも、そういえば以前読んだ資料の中に、

「佐脇刀祢大夫(さわきとねたゆう)が三河万歳の祖で、御津の花ノ木にお墓がある」

と記されていたことを思い出しました

この「佐脇刀祢大夫が三河万歳の祖」という記述は、三河南朝のことを独自に調査された藤原石山氏、山口保吉氏それぞれの著書の中に出てくるものです。

そう、三河万歳のことを追っていくと、どうも三河南朝のことが絡んでくるらしく、そんな訳で東三エネ研久々の南朝リレーとなったわけでありました

まずは、三河万歳や佐脇刀祢大夫、三河南朝などについて書かれている資料をご紹介します。そんなに詳しく書かれているわけではなく、ちょっと意味不明な点もあるのですが、こんな内容です。

①【藤原石山著 三河に於ける長慶天皇伝説考】より
三河萬歳の起り
 西郷弾正は二木議長に従い来国して三河の守護代となったが正平十五年南朝に降り三河吉野朝を奉護した。山仲城に居た西郷弾正が正月に佐脇の御所に参内し拝賀の節、聖寿を寿ぎ奉って舞ったのが三河萬歳の初めで、山中城の下に舞木(儀)の地名のあるのはその起因と伝えている。
 天授二年辰年王田殿の建立が成り、その柱建に萬歳が奉納されその時の歌詞に

 弥勒の十年辰の年諸神の建てたる御家(ヤカタ)は風が吹いても祟る風(邪魔風)はないという

 この三河萬歳は御所萬歳又は千寿萬歳と云って小坂井町院内(大字宿字中島)に伝えられたが、その後安城市の別所に移つり御殿萬歳として伝えられた。(『塩尻』 『小坂井町誌』)
 院内は別に“はかせ村”とも云い萬歳と共に昔から神楽が伝えられ、この地方の神楽発祥の地とも伝え、南北朝の頃三河の御所で行った神事の伝統と伝えているものと思われる。

②【藤原石山著 南朝正統皇位継承論 長慶天皇の三河遷幸と諸豪の動き】より
三河万才の起因
 西尾市西町に伝統ある三河万才を伝えている。この万才の起源に就いて実相寺の記録を見ると、“文武天皇御河行幸の節百姓吉良大夫と云う者御前に於いて舞を奉し万才を唱えて聖寿を寿ぎ奉りしを初めとす”とあるが、大夫という名称は、五位以下の高官の総称で文武天皇の時代に見ず、又吉良と云う名称も、久麻久山より雲母を産し、元明天皇の時代に朝廷へも献じた。この雲母を国語で輝羅々と称するところから其の後幡豆地方を吉良と称し、源義氏が来往し、其の子長氏の居城が吉良庄に在るを以て吉良氏と称した。吉良の荘名の文献に現れるは関白藤原道家の建長二年に誌せる『家領処分記』を以って初めとし、文武天皇の時代に吉良と云う名称を見ず、大宝天皇を文武天皇とした後世の誤伝に基く伝説で、三河万才の起源は、南北朝時代二木右京大夫の守護代であった西郷弾正某山中に在し、三河の御所にて万才を舞ったのが起こりで、依って山とに(この部分の文が不明?)舞木の地名がある。この地名は、昔舞儀とも云い、吉良大夫万才を終へ帰りて後つけし名称の実相寺の古記録にも見える。大和時代千秋万才を舞たる人を法師と称し、大夫とは云はず、又三河万才の服装は鎌倉時代の武家の大紋を着し、宝飯郡下佐脇の御所宮の近く花ノ木に、万才の元祖佐脇刀彌大夫の墓がある。三河万才の起因は南北朝時代南朝の御所三河に存在し、その御所に於いて舞たるを起こりとするを至当と考える。

※上記の内容の説明:文武天皇の時代に「文武天皇行幸の折、百姓の吉良大夫という人物が御前で舞を奉した」と、西尾市の実相寺の記録にあるが、当時は吉良という名称はなく、吉良の地名が文献に現れるのは、もっと後の時代の関白藤原道家の建長二年に書かれた『家領処分記』が初めてだと、関連する伝承として記されています。


ほい、もう一丁。

③【山口保吉著 三河吉野朝の研究】より
-吉野朝を物語る地名の譯- 是願院と花ノ木(三河萬歳)
 三河萬歳と云へば誰もが智悉せらるゝお正月に附き物として有名である。寛成親王三河御津府の御所に於て御即位の御大典を擧行遊ばさる。寛成親王三河國の御降誕なり。當國の名山蓬莱山の吉祥を因みて亀鶴高砂の三鶴の舞を、是願院より侍臣昇殿して天下人の願として風俗の歌に和して奏上し奉る。之れ三河萬歳の起因なり。是願院の隣に花ノ木と稱する所あり。萬歳の元祖佐脇刀彌大夫の墓あり。佐脇、鶴、巻、莊田の三家は舞鶴の定紋を許されしと。天皇を御供養し奉まつる寺院中、瑞亀山、萬年山、亀鶴山、松亀山等の山號を有するも其因に基けるなりと傳ふ。三河萬歳の因は、南朝の帝王三河御津府御所に於て御即位ありしを尊稱する名稱として現今迄其名高し。右萬歳の元祖は御津の御所の傍佐脇にして、其後院内へ別れそれより別所西之町へ還る。西三河の萬歳の隆昌は徳川幕府江戸城へ招し殿中に於て奉楽せしより起こるなりと。然れども其因を尋ぬれば三河吉野朝の御遺蹟の一なりと。


読みにくいですが、何となく意味はつかめるかと思います。ざっくりと簡単にまとめると、

三河吉野朝と言われる南朝正統の皇統の人たちがいる御津町にあったとされる佐脇の御所(or豊川市森もしくは小田渕町の王田殿という南朝御所)で、お正月のお祝いもしくは、寛成親王(=長慶天皇)の即位のお祝いで、岡崎市舞木にある山中城の西郷弾正が、万歳を舞ったのが三河萬歳の起こり。それで、三河萬歳の元祖が佐脇刀禰大夫という人で、お墓が御津町花ノ木にある。そして、萬歳は小坂井町宿に伝えられて(ハカセ村)、そして安城に伝わった・・・。

こんな内容になるかと思います。

ちなみに、“ハカセ村”のはかせの由来ですが、“博士”というのは、日本の音楽、雅楽などの楽譜や仏教の声明のことなどを、“ハカセ”と呼んだそうです。そこから、神楽や万歳のような舞や歌をする人たちが住んだ場所の地名になったのかなと思われます。

さて、上記の内容で気になる所が、万歳を舞った人が西郷弾正で、万歳の元祖は佐脇刀祢大夫という人という点。

西郷弾正ってどういう人なんのでしょう?
佐脇刀祢大夫はどういう人だったのでしょう?

まず、西郷弾正について。

西郷弾正は、豊川市篠束町にあった篠束城に居城した人物です。

sinodukajou001.jpg
篠束城は豊川市篠束町大堀にあり、畑の際に写真のような篠束城跡を説明する看板が立っています(現在は看板の地図がボロボロになってます)。

西郷氏というのは、肥前国高木郡西郷を出自とし、北朝に味方をしていた仁木義長に従う武将でした。仁木氏が三河の守護職になった時に、守護代として三河にやってきたのが三河の西郷氏の始まりとされています。仁木氏が南朝支持に代わると、それに従い西郷氏も南朝方に付きました。豊橋市の石巻へ移住した西郷氏の7代目の孫が篠束城主であったらしい。後醍醐天皇の皇女で、静岡県浜松市引佐の井伊谷宮の宗良親王の異母妹の懽子内親王(かんしないしんのう)を蒲郡から豊川市小坂井へお連れしたという西郷弾正が何代目の誰なのかはイマイチ不明です

関連記事:南朝リレーその2~皇女の足跡~

西郷弾正と南朝の関わりについて簡単に説明するとこんな感じなのですが、次に藤原石山氏の資料をみてみると、「岡崎市舞木の山中城の西郷弾正という人が、正月に御所に参内した時に、聖寿を願い舞ったのが三河万歳の始まりで、岡崎市の舞木という地名もこれに由来する」となっています。

そして、この万歳がかつて院内と呼ばれていた小坂井町宿の中島(最初に紹介した看板のあるところ)に伝わり、その後、安城市の別所に移り、そこで御殿萬歳として伝えられたと、そんな内容も記されています。

また最初の看板に戻りますが、「小坂井三河万歳・小坂井神楽」の看板は、篠束城から西の方向3~400メートルほどあり、その看板のすぐ近くには、穂の国(三河の旧国名)の前期の国造、朝廷別王(みかどわけのみこと)を祀る多美河津神社があります。

三河万歳の始まりとされる西郷弾正が居城したという篠束城。そのほど近いところに、万歳・神楽発祥の地があるというのは偶然でしょうか?

看板には書かれていませんが、この地(豊川市宿町)に三河万歳を伝えた人物は、西郷弾正だったのではないかと思わずにはいられないのです。

ここでもう一人の人物「佐脇刀祢大夫が万歳の元祖で、御津町花ノ木にお墓がある」という伝承から、佐脇刀祢大夫について考えてみたいと思います。

御津 佐脇大夫01

佐脇刀祢大夫 墓02
豊川市御津町花ノ木にある説明看板。

さてさて、看板の説明では、長篠・設楽原の戦いで奥平氏に参戦し、討死した佐脇城主が佐脇刀祢大夫だとなっています。

万歳の元祖とは出てきません。

う~ん、一体佐脇刀祢大夫って何者なんだろうと調べてみると、こんなところも出てきました。

170904田原 佐脇刀祢大夫屋敷跡02
田原市東赤石の住宅街の一角(道の駅めっくんはうすの近く)にある石碑。ここに青津村城、佐脇刀祢大夫邸跡と書いてあります。

田原 佐脇刀祢大夫屋敷跡01
曹洞宗栄杉寺の跡とも書いてありますので、青津村城の跡地がお寺になり、今はそのお寺もなくなってしまったということなのでしょうか。

おっとと、このような場所が出てきてしまって、豊川市御津町からは、かなり離れた田原市にも佐脇刀祢大夫がいたということになります。御津と田原の佐脇刀祢大夫は同一人物なのでしょうか?

しかしながら、ここでヘコたれるエネ研ではありません

御津町の佐脇刀祢大夫の場所と田原市の佐脇刀祢大夫の場所は、なんと三河南朝でつなげることが出来るのです。

田原市の佐脇刀祢大夫の屋敷跡といわれる石碑のある場所のすぐ近くには、見てはいけないお祭りといわれる不思議な祭り、「久丸神社の寝祭り」が行われる「久丸神社」があるのです。

関連記事:南朝リレーその9 ~久丸神社の寝祭り~

関連記事を読んでいただくと分かると思いますが、寝祭りというのは、久丸神社とすぐ近くにある神明社を行列が往復するお祭りで、久丸神社も三河南朝とかなりコアな関係がある場所と言われています。また、神明社は元伊勢ともいわれています。

そして、話がアチコチしますが、もう一つ、御津町花ノ木の佐脇刀祢大夫について。

御津町は、三河南朝の御所があった所といわれていて、実際にそれに由来するのではないかと思える地名が多々残されています。

実際、花ノ木の付近には、剣橋(つるぎばし=剣)、玉袋(玉)、加美(鏡のこと?)という三種の神器を示すような地名が隣接し、また、膳田、羽鳥(服織=はとり)、御所などの地名も集まっているのです。

御津地図 花ノ木
御津町花ノ木周辺の地図。山口保吉氏の資料に出てくる“是願院”というお寺と思われる場所は、見当たりませんでしたが、是願という地名は残っています(花ノ木の右斜め上)。

御津町地図 加美
加美(おそらく鏡のことでは?)、つるぎばし(剣)、玉袋(玉)三種の神器が揃っています。

御津地図 御所
加美、つるぎばし、玉袋より南に隣接する地名、膳田、御所。御所の右方向が花ノ木。

御津町地図 佐脇神社
玉袋に隣接する佐脇神社が「佐脇の御所」だったのではないかと言われています。「王田殿」という御所(佐脇の御所より北東方面へ2キロほど)が完成するとそちらに移動したということでしょうか。

藤原石山氏の資料によると、こういった地名があるということは、この地に天皇の御行在(仮宮を置いた)されたことと、南北朝時代に南朝に味方した人たちが長慶天皇を迎えたことを伝えているといいます。また、奈良時代初期、三河行幸をされた持統天皇の旧蹟と南北朝時代の天皇の遺蹟が重複しているとも記しています。

三河万歳と南朝、西郷弾正、佐脇刀祢大夫の話をややこしいながらも説明してみましたが、話の内容には意味不明な感じもあり、辻褄が合わない点もあります。また、佐脇刀祢大夫が三河万歳の元祖という点について、もう少し詳しい説明がないかを探してみたのですが、残念ながら見つかりませんでした。

それでもメゲずに、佐脇刀祢大夫という名前を手掛かりに調べてみたら、こんな内容が出てきました。

●“刀祢”、“大夫”という名称は役職名と考えられる。
●“刀祢”は、村長、里長、祭司を統括する人(祢(禰)に神職の意あり)、川船の船頭の意味がある。
●“大夫”には、“だいふ”“だいぶ”“たゆう”という呼び名があり、家老や伊勢神宮の神職を大夫と呼び、神職からの関連で、太神楽の長を大夫と呼ぶようになり、そこから転じて歌舞伎、万歳、浄瑠璃などの芸事をする人たちを呼ぶようになった。
●佐脇氏は、鎌倉幕府より引き継ぐ形で、室町幕府により北伊勢の朝明郡に配置された“十ヶ所人数”という奉公衆の一員らしい。

さて、以上の内容を踏まえてまとめてみます。完全に私たちの憶測になりますが、

御津町下佐脇花ノ木あたりに、佐脇刀祢大夫という人がいた。名前から見ると、この地域の何らかの長で、祭司を統括する役目も持っており、伊勢の太神楽についても知る人であり、それは北伊勢に関係ある由縁であるようにみえる。南北朝になり、南朝の正式な皇統を守るべく、この御津の地に御所が作られ、この御所で、祝いの席(正月か長慶天皇の即位か)で祝いの舞である三河万歳を披露したのが、篠束城に居城する西郷弾正だった。そして、西郷弾正に万歳を教えたのが、佐脇刀祢大夫という人物だったのではないか。

その後、西郷弾正が元となり、万歳を三河の各地へ伝わったのでは。

田原の青津村城が、佐脇刀祢大夫の邸となっていますが、伊勢には海路で渡ると早いし、久丸神社と南朝の関りからも、佐脇刀祢大夫も南朝に何らかの形で関わっていたのかもしれません。例えば、海路で南朝の方々を渡す役目とか。

こんな風に想像します。

ふ~、久しぶりに頭を使って疲れたよ~。いくら暇人のコブメロとはいえヘロヘロになってます

さて、最後にもう一つ。

佐脇の御所ではないかと言われる佐脇神社のすぐ近くに、長松禅寺というお寺があります。“どんき”と呼ばれる奇祭で知られるお寺です。

長松寺
ここには、三河吉野朝(南朝)を守護した熊野山伏の供養塔とされる像があります。藤原石山氏の記す口碑伝承によると、三河の御所を守護した熊野山伏が襲撃され、佐脇原で三河の騒乱と呼ばれる激しい戦いがあった。その時に多数の熊野山伏が惨殺され、この山伏たちを供養するために建立されたのが長松禅寺の供養塔だとのことです。

長松寺 山伏01
山伏の供養塔といわれる像は、黙して何も語ってくれませんが・・・。

いつもながら、一見、与太話のように見える藤原石山氏や山口保吉氏の三河南朝の考察ですが、以前私たちが南朝リレーで紹介した三河南朝の記事の内容も含め、改めて考えてみると、「やっぱ、ここに何かあったんだよね?」と感じざるを得ませんっ!と、あばれる君風に今回は締めたいと思います

今回も長々とお読みいただきありがとうございました



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  1. 隠れ南朝伝説
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設楽町の小鷹神社

長い間ご無沙汰しておりました(^^)

なんだかんだとちょいと人間不信になるようなことなどがありまして、ブログ記事の見直しなどをしておりました。最近になってやっとボチボチ、ノソノソとまたブログを書いていこうかなと思う心境になりました。ったく、人んチのHPの文言やブログの内容をパクって、さも自分の文書のように振舞うってどうよ?人を騙すような行為をして情報取るだけ取ったらウチらのことには触れたくないって?治療やヒーリングを職業にする人なのにこんなことが平気でできるなんて・・・・?ふ~ん。

そんなこんなでちょっと愚痴ってしまいましたが(すみません、これくらいは愚痴らせてください)、またよろしくお願いします

さて、8月の終わり頃。友人の家に遊びに行ったついでに、設楽町の小鷹神社へ立ち寄ってみました。

ここも南朝伝説のある場所で、この神社には南朝皇子の「護良親王」が祀られています。

20131001_160656.jpg

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護良親王という方は、後醍醐天皇の皇子で、第二宮、大塔宮とも称される方で、後醍醐天皇が隠岐に流されている間、倒幕運動の一番の功労者でありました。しかし、後醍醐天皇の側室の阿野廉子に疎まれて、鎌倉にて幽閉され殺害されてしまったという、南朝で一番最初の悲劇の方です。

ところがですね、南朝研究の藤原石山氏らによると、愛知県設楽町の小鷹神社の祭神は、「護良親王」ではなく、「守永親王」ではないかということなのです。

守永親王は、後醍醐天皇の第一皇子の尊良親王の皇子ですが、後醍醐天皇の正式な後継者であった父・尊良親王が亡くなってしまったために、その後を継ぐべく後醍醐天皇が猶子(養子)にし、南朝の正統の天皇「興国天皇」になられた方です。ちなみに父・尊良親王は「東山天皇」であります。

*藤原氏の説によると、北朝の目をあざむき、正式な系統を守るために、南朝には正統と副統が存在し、歴史書に登場する南朝天皇は副統であって、それとは別に正式な天皇の系統が密かに存在したという。守永親王は裏に隠された正式な系統の天皇だと解説している。

そして、隠語のような物として、父・尊良親王を「大鷹、大高」と現わすのに対し、息子である守永親王を「小鷹、小高」という別称、符号があるという点、そして、鎌倉で亡くなった護良親王が三河地方に来たとは考えにくいことから、設楽町の小鷹神社の祭神は、「護良親王」ではなく「守永親王」でないかと推理しています。

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この石碑の背後の山に小鷹神社の奥宮があり、ここから遥拝できるようになっています。奥宮には、鉄の弓がおさめられているという話で、女人禁制なんだそうです。

さて、「小鷹、小高」が別称、符号になっているという点で、ちょっと引っかかったのが、菟足神社の祭礼に関わる、いけにえ伝説の「こだが橋」。

この伝説では、祭りの朝一番に橋を渡った娘をいけにえにするために、橋で待っていると、そこに現れたのは自分の娘であった。どうしたものかと悩んだ父であったが、「子だが仕方ない」と諦め、娘をいけにえにした。ここから「こだが橋」と名付けられたとなっています。

ここでいう「こだが」は、「小鷹」から来ているのかもしれないという疑問がわいてきました。

菟足神社周辺に残されている数々の南朝関連の伝承を考えてみると、いけにえ伝説は、天皇の身代わりになった皇女から来ているのかもしれないとも思えるし、菟足神社のいけにえの風習をみてうんざりしたという大江定基ですが、豊川市音羽の萩に隠棲していた南朝皇子を山口県萩のあたりにかくまったのは大江氏だというし・・・。

また、探ってみよう~(^^)



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南朝リレー 10 ~菟足神社の風祭りと吉野の地名~

当ブログ恒例の菟足神社の風祭りネタです

とはいえ、以前にも菟足神社についての記事を書いておりますゆえに、ネタも尽きて、そんなに面白い話もないのですが・・・(^_^;)

さて、今年の菟足神社の風祭りは4月13日(土)、14日(日)に行われます。4月の第二土日が祭礼の日になりますので、カレンダーの都合で今年はちょっと日にちが遅くなっていますね。桜も散ってしまいました。

ネタも尽きたとはいえ、それでも何かないかと絞り出してみたら、当ブログのもう一つの研究材料である「南朝」に絡む面白いものが見つかりました。

それは地名(名称)との奇妙な一致です。

菟足神社の周囲にある地名および名称には、「柏木の浜」「五社稲荷」「樫王(かしおう・菟足神社の北側にある地名)」があります。また、五社稲荷の北側には、善住寺というお寺があって、そこには赤松円心のお墓もあります。

そして、南朝と言えば吉野ですが、以前に「南朝リレーその7 ~小俣京丸から後南朝へのライン~」という記事で、後南朝を題材にした小松左京の「本邦東西朝縁起覚書」という小説のことをご紹介しました。

後南朝の舞台となった奈良県吉野郡川上村へと続く169号線沿いには、南朝の皇子の自天王を祀る北山神社、そして、その弟宮を祀る河野宮があるのですが、その辺りの地図を何気に眺めていたら、「あれ、菟足神社の周りの地名と同じ地名が並んでるのはこれ如何に?!」と思ったのです。

単なる偶然の一致にしても、なんだか出来過ぎているような気もして・・・。

地図で見てみるとこんな感じです。

utarijinjashuhen01.png

まずは菟足神社の周辺地図ですが、五社稲荷、樫王、柏木の浜、善住寺(赤松供養塔)がありますね。

そして、次に奈良県吉野周辺の地図を見ると・・・。

kawakamimura01.png

169号線を吉野町方面から川上村方面へと向かうと、まず、五社トンネルという名のトンネルがあり、その周辺が樫尾(かしお)という地名になっています。

そして、さらに169号線を南下すると、柏木という地名が出てきます。そこには、弟宮の河野宮を祀る金剛寺があります。

吉野柏木

河野宮からさらに169号線を南下していくと、自天王を祀る北山宮へと続きます。このルートは、南朝の歴史の中でも後南朝と言われる、南朝最後の抵抗活動があった場所です。この地で自天王と河野宮が赤松の残党に殺害されて、南朝の歴史は幕を閉じることとなりました。

奈良川上村

川上村の全体の図。位置関係はこんな感じです。

こうやって見てみると、後南朝の史跡が残る場所の地名および名称が、菟足周辺となぜか重なるんですよね

三河南朝の伝承が残されている菟足神社周辺、また、長野県の大鹿村にも鹿塩(かしお)という地名があって、そこには、宗良親王や尹良親王の伝承が残っています。樫王と樫尾、そして、鹿塩という「かしお」という地名が南朝で繋がるのです。

そして、後南朝の皇子たちを殺害したのが赤松氏の残党ですが、五社稲荷近くの善住寺には、赤松円心という南北朝初期に南朝方だった武将のお墓がなぜかあるのです。

zenjuji02.jpg

zenjuji01.jpg

赤松氏とこの地域はどんな関わり合いがあったのでしょうか?

その赤松氏というのは、後々足利幕府によってお家断絶となり、その残党が家名復興を目指して、南朝方の皇子を殺害したということです。

何か奇妙で不思議なつながりを感じます。

もうひとつおまけで、柏木神社というのが、菟足神社からは数キロ離れた豊川市西原という地域にあるのですが、その柏木神社のすぐ近くに「金剛寺」というお寺があるのです。山門の際にきれいな湧水のあり、軒丸に菊花紋があるこのお寺は、後醍醐天皇の皇女、懽子内親王に縁があるようです。金剛寺という名のお寺は全国に多々ありますが、後南朝の河野宮を祀る吉野の川上村の金剛寺と名称が一致するというのも妙なところです。

さらに、おまけの脱線話ですが、菟足神社の風祭りでは、土曜日の夜に仕掛け花火や手筒花火が奉納されます。毎年、仕掛け花火の大スポンサーである「総合青山病院」の創業家の名は牧野さんです。牧野さんと言えば、越後長岡の大名になった牧野氏がよく知られていますが、この牧野氏は元々は東三河の豪族でした。

この牧野氏の家紋が、「三つ柏」で、豊川市御津町の大恩寺にかつてあった「念仏堂(三河南朝御所の王田殿から移築したとされる)」の天井画にも、三つ柏が描かれています。ここでも柏というものが関係してきますね。

後村上天皇と柏の話もありますが、まあ、あまり追いかけるとますますややこしくなりそうなので、こんなところにしておきます

おまけに、コブメロの実家の家紋も三つ柏だったと、つい最近分かる。凄い節穴・・・( ̄▽ ̄;)


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南朝リレーその9 ~久丸神社の寝祭り~

節分も過ぎ、暦は立春。春を感じる季節になりました

日も長くなり、日ごとに太陽の温かさも増してきていますが、花粉症の人には辛い時期ですね 今年はさらに大陸からの大気汚染もひどく、おまけにもう少し暖かくなると黄砂も飛んできますので、目、鼻、のど、呼吸器がやられないように気をつけないといかんですね 私も以前みたいなひどいメにあうのはもうごめんだわサ

大陸といえば、旧正月だと言って花火をバンバンぶっ放して大騒ぎしているようですが、今年は2月10日が旧暦のお正月でありました(年によって日にちが変わる)。

さて、旧正月の申の日と酉の日にかけて、ある変わった祭事が行われる地域があります。それは、愛知県田原市の久丸神社とそのすぐ近くの神明社で行われる「寝祭り」という祭事です。

なぜこの祭りが奇妙なのかというと、「このお祭りの祭事の様子を、誰も見てはいけない」というところです。うっかり見てしまうと、大変なことになってしまうと恐れられ、伝説では、この祭りを見て盲(めくら)になったり、狂気になった人や、神職をあざけったため数日のうちに病気になり死んだ人もあったらしいということです。また、知らずにその祭りの場所を通ってしまい、神主に出会い、熱病を発症した人も何人もいたという・・・

では、どうしてこのような奇妙な祭事が行われるようになったか。言い伝えによると、神様が見苦しいご病気であって人に会うことを嫌ったからだとか、また、ある説では、南朝系の皇子で、常に北朝をはばかって隠れていたので、人の賑わう所へ出ることを好まなかったということです。

現在では、南朝の天皇や親王にまつわる祭りであると密かに言われているようです。

ふむふむ、ここも南朝に縁があるのね

そういえば、去年の秋に訪れた南朝の隠れ里という伝説の、静岡県春野町の京丸の里に伝わる話が、久丸神社のお祭りに似ているなと思い出しました。

それは、春野町の石切という集落の古老の話で、「昔々、京丸の人が来るという話を聞くと、雨戸を閉め、用心して寝てしまった」という話です。

京丸という場所は、南朝の親王や皇女が隠れ潜んでいた所で、北朝の追跡に対して凄く神経質になっていたという点から、周囲に恐ろしげな伝説を流して、人が近づけないようにするとか、行動を悟られないようにしたことが、こんな伝説となったのではないかと推理します。

富士谷の隠れ大本営に潜んでいた南朝の皇子、皇女たちは、北朝軍に攻められ、遠州京丸の山中に隠れた。しばらくこの地で時の移るのを待ち、折を見て、山麓の気田に下り、南朝方の西園寺氏などの所領であった都田に入ったが、ここも長居が出来ず、北畠氏の一族の石津氏を頼り、佐鳴湖付近の入野へ行ったが、ここも今川氏の勢力が伸びてきていて、三河の渥美神戸へと舟でたどり着いたものと想像される(藤原石山氏の調査による)。

なので、京丸に伝わる「人々が寝静まって見ないようにしたという伝承」と、田原の久丸神社の「見てはいけないお祭りの伝承」が重なるように思います。

ではでは、その皇子、皇女さんは誰だったのでしょうか。

田原市の神戸神明社(かんべみょうじんしゃ)所蔵の「久丸明神社旧記」によると、「久丸大明神 神戸之内漆田にあり、右皇女神明は高子媛と申し、久丸、梅丸と申す者 甥の君にて、右三人舟にて 百々村(どうどうむら)に揚り給ひ 神戸に住み給ふ」と記されているとのことです。

この高子媛というのは、後醍醐天皇の第一皇子の尊良親王の流れの、元子内親王(小室門院)のことではないかといわれます。

梅丸というのは、長慶天皇の皇女、梅子内親王のことではないかと思われます。この皇女は、小室門院とともに、遠州京丸山中に隠れていて、京丸には「梅が元」という伝説地があるといいます。

そして、久丸というのは、小室門院と興良親王(宗良親王の子)の御子で、松良親王のことではないかと。松良親王は南朝の正統な皇位を継承した方といわれます(三浦天皇の家伝によりますが)。

さて、誰も見たことがないという久丸神社の神事。どんなことをやっているのかは文献で垣間見るしかなく、藤原石山氏が調査された「渥美郡神戸郷久丸明神記」という明治37年調べの記録には、

昔、神明社の神主を青津地区の大場氏が、久丸神社の神主を赤松地区の楠氏がつとめた。一方の神主が、正月の巳の日から神明社の約4キロ東の太平洋に面する海岸へ行き、海水を浴び、3日間身を清める禊払いをした。これを垢離掻(こりかき)という。

垢離掻が終わると、申の日に神明社の神主は、神明宮に帰り祭礼にかかる。久丸神社の神主は百々村の神の窯穴という所に行き、神の窯穴祭りをして、一夜を明かす。神の窯穴で背負ってきた釜で斎火を焚いて神事を行い、翌日の未の刻に神明社に帰る。神明社の神主は神明宮で夜明ししてこれを迎え、外殿で神酒を酌みあって、祭りを終える・・・。


と記されているようです。ここで出てくる大場氏や楠氏というのは南朝の家臣でしょう。

これらの祭りはすべて極秘の行事であって、神主が神の窯穴へ行く途中や神明社に帰る途中などの姿を見ると神罪をこうむるということから、村人はこの日には戸を閉め、明かりも灯さず、火も焚かず、音も立てないように家の中に籠り、静かに祭りが終わるのを待った。外出もせず、まるで寝静まっているかのようであることから、「寝祭り」の名が生まれたようですが、申の日に夜明しをするということから、庚申待ちの信仰もここに入り込んでいるように感じるところです。

現在では、時代とともに行事も簡略化し、みそぎもなくなり、神の窯穴の祭りもしめ縄をはって式をするだけになったということですが、神事は神職だけで行われ、氏子の人々は、神罰をこうむるという昔からの言い伝えを守り、神職の往復する姿を見ないよう、付近を通行しないということです。

南朝の皇子、皇女らが遠州京丸から舟で逃れて田原の神戸の地に滞在したという伝承。そして、その逃れて来た方々が正統な皇統を引き継ぐ方々であったという点から、久丸神社の祭神は南朝の皇子だと伝えられ、この皇子がこの地に潜伏中に、天皇が父である上皇や母后の御所に年賀に行く「朝覲御幸(ちょうきんぎょうこう)」、または、天皇が正月にただ一人で行う宮中秘儀「四方拝」が密かに行われたのではないかという説もあります。

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そんなところを推理してみると、神明社が親である小室門院(小松天皇)が住まわれていた御所で、おまけにひょっとしたら松良親王は、皇位を継承し「松良天皇」になっていたのかもしれません。そして、松良親王と梅子内親王が久丸神社に住まわれていて、正月に親の住む御所にお年賀に参内していたのではないかと。んで、松良親王は松良天皇として四方拝を行っていたんじゃないかと想像しちゃいます。ついでに言うと、神明社のすぐ近くには若宮神社というのがあるので、松良親王と梅子内親王の間には皇子がいたんだろうと妄想します

ということで、こんなことを知識として頭に入れて、現地に赴いてみましたが、久丸神社は町中によくある神社の風景にしか見えませんでした。ちょいガッカリ しかし、神明社は立派ないでたちで、由緒書きによると、倭姫が神さんをかついで場所探しにまわったところであると、いわゆる元伊勢だということが書いてありました。以前、渥美にも元伊勢の伝承があるという話を小耳にはさんだことがあったんですが、ここのことだったんですね。

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<久丸神社>

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<神明社>

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<神明社の由緒書き。変な人物が写り込んでおりまする。すみません。>

南朝に関係するものは何の欠片もなく、ただ久丸神社の近くに「よしの寿司」というお店があるだけでした。南朝に関わることはこれだけかな・・・(^_^;)

そして、神明社の近くにもう一つ若宮神社というのがあるので、久丸神社と神明社の間を往復するという行列は、この神社には関係ないのだろうかという疑問が浮かび、若宮神社へ立ち寄ってみました。

すると、その近くで作業をしていた青年がいたので、ドグオ氏は「久丸神社の行列ってここまで来るの?」とフレンドリーに尋ねてみると、その青年は目を合わさないような態度とちょっと口ごもった様子で、「・・・それって、寝祭り・・・?」と鋭い眼光をチラッとさせながら言いました

「うん、そうそう、それ」と聞くと、青年は、「う、うん・・・、ここには来ないよ」と言って、そこから先は何も言いたくなさそうな雰囲気だったので、「あ、そうなんだ。どうも、どうも、ありがとうございました~」と明るくその場を去ったドグオ氏でした

なんでしょう。現在でも口外してはいけない掟でもあるのでしょうか。やはりあまり人には言いたくないお祭りってことなんでしょうかね。

久丸神社の寝祭りは、藤原石山氏の資料によると、旧正月を過ぎ、最初の巳の日を迎えてからの申酉の日に祭りを行うそうです。巳の日を迎えずに祭りを行うと災いが起こるということのようです。その習わしによって今年の暦を見てみると、旧正月が2月10日。それから最初の巳の日が2月20日で、23日、24日が申酉の日になります。

おそらくこの日の日中に行列があると思われますので、この場所を通りかからないようにした方がいいかもしれないですね。場所は、田原市の道の駅めっくんはうすの近くで、国道259号線をはさんで、あっちとこっちで行列が往復すると思いますが、もし行列を見てしまった場合は、後日、神社へ行ってお祓いをしてもらえば大丈夫だそうです

でも、場所的に交通量の多い所なので、知らずに通りかかって見ている人もいるんじゃないかと思うのですが・・・


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  1. 隠れ南朝伝説
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田布施の血脈?!

2012年も押し迫ってまいりました。

アセンションと言われた21日~22日ですが、表面的には穏やかに過ぎていきましたね.。見えないところではどうなってるのは知りませんが、まあ、そんなものでしょう ニュースによると押しかけた観光客によって、マヤの神殿が修復不能なくらいに壊れてしまったとか・・・。なんだかなぁ

さて、年末に選挙も行われ、いよいよ自民党の安倍政権が始まります。そんな中、安倍総理は、母方の祖父である岸信介元首相のお墓参りに、山口県田布施町を訪れたというニュースを目にしました。

「ん?岸首相のお墓が田布施にあるって?」

と田布施に引っかかりを感じ、安倍総理の家系なる物を少し調べてみました。

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ちょうどいい具合に、「フラッシュ 新年合併号」に安倍一族の記事が載っているということで、購入して読んでみました。ちなみに付録はなんと話題の「壇蜜」のDVDで、コンビニへ買いに行ったドグオ氏は、レジのオネエチャンの前で「壇蜜のDVDが欲しくてフラッシュを買うわけじゃないですから~」と心の中で必死に言い訳したらしいです・・・

ま、壇蜜はさておき、安倍家の系図を見てみると、

●安倍晋三の母方の祖父は、岸信介元首相。
●岸信介元首相は、佐藤家から岸家へ養子に入った。佐藤家の佐藤栄作元首相とは兄弟。
●佐藤栄作元首相の奥さんは、松岡洋右元外務大臣の姪で、佐藤栄作とはいとこ同士。
●松岡家は吉田茂元首相の娘と婚姻関係にある。
●吉田茂元首相の孫は麻生太郎で、安倍晋三とは縁戚関係にある。
●吉田茂元首相の奥さんは、大久保利通(薩摩)の孫。
●安倍晋三の母方の叔父の奥さんは、井上馨元外務大臣の血統。
●井上馨元外務大臣の血統には、日産の創始者、鮎川氏がいる。
●安倍晋三の奥さんの実家は森永製菓。

などなど、まあ、素晴らしい系譜が出てきます。「まるで戦国時代の政略結婚のように養子縁組をしている」と記事にも書かれているように、あっちこっちで政界財界との繋がりを作り上げておるようです。

そして、田布施と言えば、南朝の末裔だといわれる大室寅之助の出身地ですが、山口県熊毛郡出身および関連する政治家(田布施一味とかいうらしい)など、いわゆる長州出身者には、

伊藤博文、山縣有朋、戦前の外務大臣の松岡洋右、終戦時の内務大臣の安倍源基、日産創始者の鮎川義介、日立創始者の久原房之介、共産党No.1の宮本顕治、マルクス主義を広めた河上肇、岸信介元首相、佐藤栄作元首相、安倍晋太郎元外務大臣etc・・・

といった名前が見られます。

で、不思議なことに鹿児島県にも熊毛郡という地名と、田布施(南さつま市金峰町)という地名があって、小泉純一郎元首相の父・純也氏が田布施の出身だという話で、ついでに、民主党の代表になった海江田万里氏の本籍も金峰町だそうです。

こちらは薩摩出身ってことですね。

なぜに田布施という地名がこんなに絡んでくるのでしょうか。おまけに山口県の田布施町は16000人ほどの小さな町なんですが、ここから総理大臣が2名も出ているなんてあまりにも凄すぎると思いませんか。なんでかな?

そして、田布施と言えば大室寅之助ですが、南朝の末裔であり、明治天皇との入れ替わり説がささやかれる人物であります。

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田布施と南朝の関わりあいをアレコレ考えてみるのですが、全くもってよくわかりまへん ただ、何となく気になったのが、以前、南朝の富士の隠れ大本営といわれる場所を探っていた時に見つけた、静岡県富士宮市の田貫湖周辺に後醍醐天皇の御所があったという伝承で、その田貫湖畔には、田貫神社があり、田貫次郎、尹良親王(ゆきよししんのう)がお祀りされているということでした。

「タヌキ?何?ちょっと間抜けな名前だな」なんて思っていたのですが、尹良親王の伝承の中に、上野国新田荘の寺尾城主・世良田正義の娘を妃にしたという記述や、新田・小田・世良田・桃井氏が尹良親王を奉じたという話が残されていて、「世良田と田貫かぁ・・・」とぼんやり考えていたのです。

「田貫って、タを抜くんだよね。ってことは、世良田からタを抜くと、世良になるから、世良と言えば世良親王(よよししんのう)っていう後醍醐天皇の皇子がいたよね。早くに亡くなった親王だけど、乳父は北畠親房で、親房は世良親王が亡くなったことで、出家したんだよね。世良親王は聡明で後醍醐天皇から大きな期待をかけられていた皇子だったから、親房はその責任を感じたということらしい・・・」

世良親王という方は、建武の新政の前に亡くなっているので、南北朝の物語の中には登場してこない人物ですが、以前から「世良親王の世良と世良田って、田があるかないかだけで同じような名前だから何か関係あるのかな?」とうっすら疑問に感じていたのです。

そして、もうひとつ、タヌキを隠語として考えてみると、「タを抜いたり、消したり、隠したり、伏せたりしてごらんなさい」というメッセージかとも思えてきて、そうして考えてみたら、ひょっとして「田布施」も隠語で、これは「タを伏せてみろ」と取れるかもしれないと思ったのです。「田無」もあるけど、これはまだ未調査ってことで

そうして田布施を見てみると、ここは「世良田」か「世良親王」に関わりのある場所なのかもしれないと思えてくるのです。

じゃあ、世良田を見てみると、世良田の地名は群馬県太田市にあります。世良田東照宮があり、徳川家の祖先の地ともいわれています。徳川家は、元々は南朝の忠臣である新田氏が先祖といわれ、徳川の家臣団には、南朝の忠臣たちが名を連ねています。世良田と南朝の関係は何やら深いことがうかがわれますね。

戦後では、世良田を中心にした半径約50キロ圏内から三人の総理大臣が出ておるのです。中曽根康弘氏、福田赳夫氏、小渕恵三氏のお三方ですが、同じ地域にかたまるなんて密度濃いよね~
 
もうひとつ世良田というのは、いわゆる被差別部落といわれる地で、先ほどから出ている山口県田布施や鹿児島県の田布施も同じようにいわれる地だそうです。

こういった地域についてはネット上では半島系とかよく言われていますが、南朝関係者が各地で潜伏したという伝承を追っていると、被差別部落といわれる場所は南朝と関係する場所なんじゃないの?という感じもしてきます。うわ、こんなことを書いてていいのでしょうか(滝汗

そして、フラッシュの記事には、安倍晋三総理の父・安倍晋太郎氏が「我が祖先は奥州の安倍宗任(あべのむねとう)である」と語っていたとあり、「安倍宗任は、平安時代の武将で、源頼朝に負けたため、四国の伊予国や九州の筑前国に配流されたのち、松浦水軍となった子孫が現在の山口県大津郡に移り住んだ・・・」と書かれています。

「安倍家のルーツは奥州で、東北蝦夷の首長である安倍一族の末裔」ということから、かつて石塔山荒覇吐神社(アラハバキジンジャ)の建立にあたって、安倍晋太郎氏は多額の寄付をしたということでした。安倍家のルーツが東北というのは間違いではないと思いますが、神社建立のきっかけとなった「東日流外三郡誌(つがるそとさんぐんし)」という古文書は、後に作者の創作物だったといわれています。

蝦夷、アラハバキで思いだされるのが封印されてしまった神様です。そして、封印された神様、女神様というと瀬織津姫が出てきますが、なんと安倍晋三総理の奥さまの昭恵夫人は、瀬織津姫にハマっておったようで、ヤンズ氏の瀬織津姫関係のイベントなどに顔を出していたこともあったようですよ。昭恵夫人が瀬織津姫に心惹かれたのも安倍家のルーツに由縁するものだったのかなぁ?なんて思ってしまうところですね

こうやって眺めてみると、山口、鹿児島、群馬という離れた土地で、なぜかよく似たような事が起きているように見えてきます。偶然で片付けるには無理があるようにも思うし、やはり、背後に結びつける何かがあるのでしょうか

ひょっとして、それは、南朝に関係する血脈なのかもしれませんね・・・


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今年も訳の分らん話にお付き合いいただきありがとうございました。
それでは、皆様、来年もよろしくお願いいたします


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  1. 隠れ南朝伝説
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南朝リレーその8 ~京丸ボタン伝説の里探訪~

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再び登場の南朝リレーその7でご紹介した図ですが、この図の中心に位置しているのが静岡県浜松市春野町にある小俣京丸という場所です。

南朝の隠れ里といわれる小俣の里と京丸の里。南朝の隠れ御所があったのではないかというのが小俣の里で、高塚山に葬られた尹良親王(宗良親王の皇子・長野県浪合村で自刃)をずっとお守りしてきたのが京丸の里といわれ、ここは60年に一度、たらいのようなデカイ花を咲かせるという京丸ボタン伝説でも知られています。

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<小俣の里と京丸の里の位置関係はこんな感じです。とにかくどちらとも山深い場所です。>

かわいい花ちゃんのブログを拝見していて、南朝の隠れ里といわれる小俣京丸の里にとても興味を抱いておりました。一度訪れてみたいと思っていたのですが、以前記事にも書いたように、小俣の里は昨今の大雨の影響で土砂崩れが起こり崩壊してしまい、小俣の集落に入れなくなってしまったということでした(それでも花ちゃんさんは土砂に埋もれた小俣集落に突入したという・・・)。

小俣は無理そうだけど、尹良親王をずっとお守りしてきた藤原家のある京丸には行けそうかな?ということで、京丸の里の方へ行ってみようということになりました。

とはいえ、色々と調べてみると、なんだかすごい山奥みたいで、道もどんな道なのかが全く想像が出来なくて、でも、京丸山に登山する人もいるみたいだし・・。一体どうなってるんだろ?という感じだったので、ひとまず行けるところまで下見をしてみたのです。

車を走らせ、国道362号線から石切方面に入っていくと、まず車一台分の幅しかない隧道に遭遇で、いきなりここでビビる そして、豊岡発電所からさらに京丸方面の道に入ると、ビタビタに湿った細い林道に「対向車来たらすれ違えないじゃん?!」ってな感じにビビる それでも頑張って走っていると対向からトラックが来てしまい、細い林道をバックする羽目になり、おまけに脱輪しそうになってビビる

「もういいよ、帰ろう」ということで、この日は途中で引き返し、「こんなすごい道、メゲる・・・。行けるのかな・・・」と、若干意気消沈気味で、しばらく考え込んでおりましたが、スズメバチ、熊、マムシ、山ヒルなどの脅威がないこの時期、凍結などの心配がないこの時期を逃したら、またしばらく行けなくなってしまうということで、先日、思い切って行ってまいりました

さて、若干ドキドキしながらも下見でビビった石切方面に入っていくと、「あれ、隧道って意外に平気に入れるじゃん」とか、「林道も前にきた時ほど、狭さを怖いと感じないじゃん?」と、一度走ってみたせいか意外と気楽な雰囲気で林道を走ることが出来てヤレヤレでした

林道は、途中舗装がなくなり、ダートになり、道がでこぼこしたり、枝が落ちていたり、落石があったりもしますが、気をつけながら走れば大丈夫で、これもヤレヤレでした

林道の途中には、民家も数件あって、住んでいる方がいらっしゃるようです。その近くには石切小学校跡があり、そこには公民館が建てられていました。

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<石切小学校跡の石碑>

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<石切小学校だった建物。>

そして、石切小学校跡からまもなく、京丸の藤原家、京丸山へ登山する入口に到着。この先はゲートが閉まっているので、ここに車をとめて徒歩でいきます。


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<ゲート前のスペースにある案内看板。>


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<そんなに高い山はありませんが、山々が折り重なる深い景色です。>


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<晩秋の林道に木漏れ日が静かにさしています。>


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<落ち葉をサクサク踏みながら歩きます。>


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<青空と晩秋の山。>


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<美しい景色を眺めながら林道をテクテク歩いていきます。>

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<林道の下は崖になっていて、川が流れています。川の流れる水音と木々のざわめく音、鳥の声・・・、自然の音だけしかない気持ち良い空間です。>

さて、1時間10分ほど、距離にして5キロほど歩いて行くと、藤原家へと繋がる私道がありました。その私道に入らせてもらい、坂道を上がっていくと、建物が見えてきました。歩き始めは小寒かったのに、ふ~、暑い~。汗、汗


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<神社のような祠なのだろうか?この背後には御神木かとも思われるような杉の大木が。>


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<その建物の裏にある杉の大木。>


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<春野町の名木百選に選ばれているようです。樹齢は不明らしいですが、かなり太いので相当な年数が経っているのではないでしょうか?>


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<ちょっくら失礼して杉の波動を感じさせていただくの図。重厚感のある中に、暖かさ、柔らかさを感じました。しかし、なかなか反応を示してくれなかったので、人の気に慣れていないせいか?はたまた動かざること山の如しのような芯の通った精神が宿るような杉なのかな?なんて思ったりしましたが、はて、どうなんでしょね?>


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<神社のような建物の近くにある石碑。大正9年7月に民俗学者の折口信夫がここを訪れ一泊したと記してあります。>


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<そして、石垣の積まれた上に立つ京丸の藤原家の屋敷。>


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<横から見た藤原家。日当たりが良くて、ホッコリするような穏やかな空間。昔の田舎の家ってこんな感じだったよね。>


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<藤原家の前は京丸谷。この谷に京丸ボタンが咲くらしい。>


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<石垣の上に建物が・・・>


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<登ってみるとまた祠のような建物。これは阿弥陀堂らしい。>


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<親鸞が訪れたという伝説もあるようで、お堂の入り口には、牡丹谷を眺める僧侶の絵が掲げられている。お堂内の天井には竜などの絵が描かれているようです。>

さてさて、一通り探訪を終え、林道を戻ることに。帰り道は、写真を撮ったり、吊り橋で道草したりで結構時間がかかってしまいました。

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<さすがに吊り橋は怖くて真ん中には行けなかった(>_<)>

ラジオも入らない、携帯も圏外のこの場所は、自然そのもの、その時がそのまま残されているような空間、時がゆったりと穏やかに流れているようなそんな空間でもありました。実は、富士~小俣京丸~奈良県北山宮を結ぶ図の、レイライン上に私の実家もどんぴしゃで乗っかって来るんですね。そんな理由もあって、この空間を味わってみたいと思ったのでした

折り重なる山々が屏風のような、つい立のような役目をし、山の懐深くに抱かれるような、日当たりのいい空間。北朝からの追手の危険をのぞけば、穏やかに静かに暮らせるいい空間ではないかと思った次第です。きっと逃れてきた南朝の皇子、皇女らもこの空間にひと時の安堵と癒しを感じたのではないかと思います。

おまけ1。

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<藤原家の軒先に写った緑の光と虹色の光。>


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<石切小学校跡の近くにある石切集落の八幡社、尹良親王座像がお祀りされているという。ここにも同じような緑の光と虹色の光が出現。太陽光線の加減でたまたま同じような光が写ったのだとは思いますが、同じような位置に同じ色の玉ということで、ひょっとして光の玉ちゃんがまた出た?なんて思ってみたりもして。はてさて、どうなんでしょうね?>

おまけ2。

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<藤原家へ登る坂道にあった鹿の角。>


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<林道の下を流れる川。この川の中央の岩に目が写っている・・・


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<拡大図。木が三角形のように立っていて、その中心に目。フリーメーソンか?!>

鹿の角に、三角の目。あれ、これは、まるで鹿男あをによしの鎮めの儀式みたいじゃないですか。じゃあ、誰が鹿の運び番で、誰が鹿の使い番なのかしら?おまけに、ドグオ氏は鹿の角を持って「MY 鹿です」とドラマの多部未華子ちゃんの真似して喜んでおる・・・

・・・最近、ドラマの再放送に毒されていてすみません

さてさて、12月21日、22日辺りがアセンションの日だと世の中では言われていますが、何らかの価値観が変わる転換期なのでしょうね。現実的に昨今の出来事を眺めてみても、そんな風に感じます。そんな時期に、レイラインのヘソに当たる地に訪れることが出来たということは、何かのお導きかなと思う次第です。京丸のあの場所にいると、今の世の中のめまぐるしい動きがウソのように感じられました。まさしく600年間、南北朝の争乱を避けて、世間の流れから遮断されていたそのままの空気があるように思いました。ラジオも携帯も入らいない、電波や電磁波の影響がないさっぱりした空間はいかにも清々しくもありました

しかし、運動不足の足には、いきなり往復10キロの道のりちょっときつかったかな?2~3日、殿筋が筋肉痛でした

おしまい(*^_^*)


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  1. 隠れ南朝伝説
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南朝リレーその7 ~小俣京丸から後南朝へのライン~

昔々読んだ小松左京の本の中に、「そういえば南朝の事が出ていたような?」と思い出したドグオ氏は、本棚をさばくってみたところ、すっかり茶色に変色した昭和49年発行のハヤワカ文庫、定価320円を見つけ出しました

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「本邦東西朝縁起覚書」 著:小松左京 
現在は絶版です。興味のある方は古本もしくは図書館でお探し下さい。

南北朝の読み物としては、かの有名な「太平記」があり、また吉川英治の「私本太平記」が一般的にはよく読まれていると思います。

NHKの大河ドラマでもかつて真田広之主演で「太平記」をやったことがあるけれど、この時代を取り上げたドラマや映画や小説は、最近では少ないようですね。

信長、秀吉、家康の三英傑が出てくる戦国時代ものと比べて、話がややこしいのと登場人物にあまりにも馴染みがなさ過ぎて、一般大衆には興味がなく、ウケないのでしょうね

戦前は、楠木正成の活躍などは広く国民に知られたものらしいですが(国策でしょうか?)、戦後は一転して、かつての天皇に忠誠を誓った忠臣の話などは、戦争の反省とやらで、無かった事のように扱われているように思います。

さて、SF小説の大家である小松左京が、その数少ない南北朝を題材に扱った作品が「本邦東西朝縁起覚書」であります。

その内容は、「歌書よりも軍書にかなし」とうたわれた吉野・・・、という書き出しで始まるタイムパラドックスのお話です。

・・・やたら詮索好きで、どこへでも首を突っ込んでしまう男三人組が、何か面白いことはないかなと吉野を訪れた。

奈良県橿原市から吉野へ向けてオンボロ車で出発した三人組。吉野町を過ぎ、窪垣内のあたりから東熊野街道へと入り、険しい山道を走らせていると、柏木のあたりで車がオーバーヒートをする。

そこでしばらく小休止をしていると、仲間の一人が、「川上村金剛寺という寺に、河野宮の墓があるぞ」と言うが、他の二人は、「河野さんって誰?」というような、南朝の事は何も知らないというリアクションだった。

すると、「河野宮というのは、後南朝悲劇の皇帝だ。自天王の話を知らないんか?ここから先は、北山村まで後南朝遺跡がたくさんあるぞ」と言って、ここからこの三人はやっかいなことに首を突っ込んでいくことになるのであった。

結局、南朝の三ノ公かくし平にたどり着いた彼らは、そこで何と、本物の南朝の皇子に出会うのだった。

「壺中遊行の術」なる仙人の秘術がある。その術によって、壺に見立てた石棺の中に、その身を封じ込められた南朝の皇子とその家来。南朝をお助けするために役行者によってかけられた術であったが、約500年ぶりに、この詮索好きの三人の男によって、なぜか封印が解かれてしまったのだ。

復活した皇子は自天王といい、「我こそは、正統の天皇なり。」と宣言すると、現代まで脈々と南朝再建の意志を守り続けていた民衆が、自天王の元に集まり、なんと、現代の政府と政権を争って対戦することになってしまう。

「北朝は約束を破り、またまことの神璽はこちらにあり、皇統の正統性は我々にある。」
「偽王朝である北朝を倒し、皇統を正統にかえすためだ」と自天王はいう。

自天王軍と自衛隊の一大決戦が関ヶ原において行われ、やがて、日本は木曽~九頭竜ラインを境にして、東西に政府が分かれる、東西朝時代となってしまう・・・。


あらすじはこんなところです。タイトルの「本邦東西朝縁起覚書」というのは、こういったことによるのですね

自天王というのは、南朝再建のための抵抗勢力といわれる後南朝の最後の天皇といわれる人物で、小倉宮(父・後亀山天皇)の皇子とか後亀山天皇の弟の子とか長慶天皇の孫とか言われていますが、詳細は不明。自天王の弟宮が河野宮です。

この小松左京の小説には、役行者が出てきたり、源義経や天狗が出てきたりして、かなり荒唐無稽な話ではありますが、意外とリアルな部分もあって、戦後の自称天皇というのは、こんな感じなのかもしれないとも思ってしまいます。

小説の中に後南朝の遺跡がたくさん紹介されていて、自天王の御所が、奈良県上北山村小橡の「瀧山寺」にあり(すぐ近くに北山宮)、弟宮の御所は、奈良県川上村に「河野御所」として設けられたと書かれています。

さて、この話を元にして、南朝の隠れ御所と伝えられている静岡県春野町の小俣京丸と、奈良県上北山村の瀧山寺をラインで結んでみようかなと思って、とりあえずそのポイントを直線で結んでみると・・・、あら、まあ、なんと、そのラインは夏至の日出と冬至の日没の角度、レイラインで結ばれてしまったのでした

これは、面白いと思い、小俣京丸を中心にして、反対側には何かあるのかな?と線を伸ばしてみると、山梨県の富士山の北麓方面に行くではないですか。

ひょっとして、南朝の隠れ大本営といわれる「富士谷」はこの辺りかと思って調べてみると、富士吉田市大明見辺りで発見された宮下文書(富士古文書)が保管されていたという「阿祖山太神宮」がライン上に乗っかってきました。

で、さらにその周辺を探ってみると、三浦氏の唱える「松良親王生誕地 富士の皇居」といわれる都留市法能も近くにあります。

都留市に関しては、宗良親王も「名にたてる鶴のこほりの民なれば千世のみつぎもたえせさりけり」と、貢物を欠かさぬ都留郡民を歌に詠んでいるので、ここに親王の足跡をうかがうことができます。

ライン上に現れる田貫湖は、後醍醐天皇の本殿があったという伝承があるようです。実は、後醍醐天皇は吉野ではなく、富士に密かに入られておったとか。また、尹良親王が滞在されていたという伝承も残っている場所です。

図にしてみると、こんな感じです。

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<小俣京丸を中心としたレイライン

図には、南朝に関すると思われる豊橋市、豊川市のローカルな地名も記してあります。一応、当ブログは三河南朝を中心に追っかけておりますゆえに・・・(^_^;)

そして、この図を眺めてみると、水色で示された帯状のラインが、不思議なことに後南朝の歴史の時系列とも一致してくるように思います。

先ほども少し出ました後醍醐天皇の富士谷の大本営の伝承について今回は置いておくことにして、この水色のラインの歴史をみていくことにします。

①天授5年(1379年)、北朝からの襲撃により三河南朝御所・王田殿が崩壊する。長慶天皇らはそこを脱出、富士谷へと逃げる。

元中9年(1392年)、南北朝合体。南朝と北朝は表向き講和する。南朝方には不利な条件が提示されたが、やむなく受け入れた。足利義満と講和した後亀山天皇とは別に、主戦派である長慶院たちは山梨県富士谷の隠れ大本営で南朝の正統の皇統を密かに守り続ける。

②しかし、その後、富士谷も足利方に攻撃され落城。長慶院の皇子である松良親王は皇女綾姫らとともに遠州京丸へと身を隠した。しばし、この地で時の移るのを待ち、折をみて山麓の春野町の気多に下り、そこから浜松の都田へ入ったが、ここも長居が出来ず、浜松市入野を頼ったが、今川氏の勢力が伸びて、奥三河や信州方面の各地へと潜伏していった(藤原石山氏の資料による)。

③応永31年(1424年)、信州浪合にて、南朝皇子が土俗に襲われたたいう浪合遭難があり、浪合で自害された尹良親王(ゆきながしんおう)を春野の高塚山に弔い、そこを守るために、京丸の地で、藤原家の方々が代々暮らしたところが小俣京丸です。
*浪合遭難には、応永3年と31年と永享7年と諸説が伝えられていますが、ここでは応永31年説を取らせていただきました。

④南北講和を受け入れた後亀山院の流れをくむ小倉宮も、その後、約束を違えた北朝に対して抵抗をはじめ、嘉吉3年(1443年)に、南朝与党らが突如御所に乱入し、神璽と宝剣を奪いとり、叡山に立てこもった。

その後も、南朝の血統を引く宮方の挙兵は、奥吉野の山中に続々と続いた。

⑤長録元年(1457年)に、赤松家の残党により自天王と弟の河野宮が殺害され、首級と神璽を奪って逃げた。これにより、後南朝も終焉を迎え、建武3年(1336年)に後醍醐天皇が吉野に転居し朝廷が分裂してから約120年もの長くにわたる南北朝の争乱は、歴史の中から消えていったのでした。


このように見てみると、後南朝の歴史の一連の流れが、この図の中で、日出から日没になぞらえられてしまいました。

歴史の中からも消えていってしまったというように、まるで栄枯盛衰の没落の図のような、一見残念な感じにもみえます。しかし、冬至の日没は、最も太陽のパワーが弱くなる時期ではあるけれども、ここを境に太陽はまたパワーを増していくということで、南朝再生への祈りがここに込められているようにも思えてきます

呪術的な理由でこのように移動していったのでしょうか?いやいや単なる偶然か。それとも、時空の仕掛けた壮大なシナリオなのでしょうか・・・

もしかしたら、南朝の御魂は、次なる再生へとパワーを蓄え、着々と準備しているのかもしれません。そして、小説にもあったように、どこぞの壺から、南朝の親王、内親王、ご家来衆が、「呼ばれて飛び出てじゃじゃじゃじゃ~ん」なんて、まるでハクション大魔王のように出てくるのかも?なんてね


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  1. 隠れ南朝伝説
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南朝リレーその6 ~相楽神社 蒲郡市~

今回は、懽子内親王(かんしないしんのう)の伝承に引き続き、また蒲郡市方面の南朝の足跡のお話です。

戦前、豊川市御油で南朝顕彰運動があった頃、豊川市御津町(旧宝飯郡)の山口保吉氏という方も、蒲郡市相楽町から大塚の辺りを中心に三河南朝の調査をされていました(大塚小学校の地名が大門という。参考までに、地名・字名の大門は、南朝の痕跡のあった地を現わすことが多いとされる)。

山口氏は、大宝天皇は長慶天皇の別号と考証しましたが、藤原石山氏によると、三浦家の系譜では、長慶天皇の皇孫にあたる美良親王を大宝天皇と尊称し、南朝最後の天皇と伝えています。

って、いきなり言われても意味不明ですよね(^_^;) だいたい「大宝天皇って誰?」っていうのが、一般の解釈ですよね。正史に現れる天皇じゃないし。

ま、山口氏曰く、三河南朝というのは、大宝天皇=長慶天皇にまつわる歴史のことを言うらしいですが、下の系統図をみると分かりますが、藤原石山氏と三浦氏が提唱する系統とは若干違っています。

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<藤原石山氏による南朝皇統図>

この図では、大宝天皇は長慶天皇の孫となっていますが、山口氏は長慶天皇と大宝天皇が同一人物ではないかとみているようです。この系統図も正式な歴史を研究している学者がみたら、トンデモ扱いだと思いますが・・・

また参考までに、北陸に派遣された第一皇子の尊良親王を軸とした北陸王朝なるものがあったという記述もあるようで、そこでは白鹿という年号を使っていたらしいです。

後醍醐天皇は第一皇子の系統に正式な皇統を継がせたかったようで、実は、密かに第一皇子に践祚(せんそ・皇位を譲る)し、三種の神器も引き継がれていたようなのです。そんな点を考慮してみると、正史には現れない秘密の皇統が継承されていたというのもまんざらウソではなく、このようなトンデモ話にも実は真実が隠されているのかもしれないと思えます

ということで、山口氏ぐっさんの「三河吉野朝の研究」「芳花鶴水園の聖地(ほうかかくすいえんのせいち)」という凄いタイトルのややこしい内容の本をみて、蒲郡市相楽町にある相楽神社へ行ってきました

相楽神社は、砥神山の東北側、御堂山の南東側に位置する神社ですが、相楽神社の話の前に、まずは砥神山について説明したいと思います。


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昭和39年に発行された「蒲郡史談」という本によると、砥神山は昔から三河富士とも呼ばれる山で、この山が、相楽山荘という行楽地のある御堂山~五井山ドライブコース~三谷温泉を結ぶ観光的要所であったということです。現在、相楽山荘は相楽の森という自然景観を楽しめるキャンプ場や自然を散策するスポットになっています。

砥神山の名は、伝説では、橘諸兄卿(たちばなのもろえきょう)が十匹の鹿が駆け登るのをみて、「あの山は何山だ?」と訪ねたが、まだ名が付いていない山だったので、「それでは、その山を“十鹿見山”と呼ぶように」と言われた。以来、「とかみ山」というのだそうです。

また違う説では、遠くから鹿が見えたので、「遠鹿見山」で、とかみ山というようになったと。

砥神神社(現・蒲郡市豊岡町にある)の社伝によると、この地にしばらく滞在していた橘諸兄卿は、砥神山に光る物が現れるのをみた。そして、夢の中に白髪の老人が現れ、「その山は縁故ある霊地であるからすみやかにワシを祀るがよい」と告げた。恐る恐る「いかなる神におわしますか?」と尋ねると、「ワシは登加美の神じゃ」と告げた。それで、砥神山の山嶺に「とかみの神」を祀ったのが砥神神社の始まりだと伝えられているそうな。

現在、この砥神山の南西側に砥神神社があり、東北側に相楽神社があります。この相楽神社というのが、以前は兎上神社(とかみじんじゃ)と呼ばれていて、熊野神社と八幡社が合祀されて今の相楽神社という社名になったということです。

ということは、砥神山の両サイドにある神社の名は「とかみ神社」だったわけですね。

さて、“とかみ”から連想するのが、豊川市一宮町にある砥鹿神社で、ここで面白いと思うのが、橘諸兄の夢の話と砥鹿神社の縁起話がよく似ているような気がするのです。

橘諸兄卿、草鹿砥公宣卿(くさかどのきんのぶきょう)という公卿が訪れた・・・
この二人の公卿は同時代の人物のようである・・・
夢のお告げ・・・
老人・・・
とがみの神とトガの神・・・
社を建てて欲しいと告げる・・・


ふむふむ、状況や内容、話の構成がよく似ているなという印象で。ということは、伝説の元となった事象が同じなのではないかとも思えます。

で、一方、豊川市一宮町の砥鹿神社の社名の由来には、

①大国主が最後に止まった場所で、止所でトガ。
②鹿を神とする、ト鹿でトガ。
③豊川(とよがわ)からトガ。
④トカリ氏からトガ。
⑤多賀からトガ。


などの説がありますが、蒲郡市の砥神神社も、兎上、兎頭、戸神、十鹿見、遠鹿見といった書き方があります。

そして、昔は、砥神神社と多賀神社がそれぞれあって、江戸時代に両社が合併してしまったようで、それ以来、多賀神社の名が消えて、砥神神社になってしまったようです。

砥鹿神社と砥神神社と相楽神社は、伝承や社名由来が何か似ている感じがしてとても気になります。

さらに、兎上、兎頭という名前から、菟上足命(うなかみすくね)を祀る菟足神社とも繋がり、豊橋市高塚の菟頭神社(うがしらじんじゃ)とも関係してきそうな感じがします。三河南朝御所・王田殿があったとされる豊川市小田渕町の近くにも菟足という地名があるので、そんな点も気になるところです

さてさて、砥神山から砥鹿神社へと話が繋がり、前ふりの説明が長くなってしまいましたが、砥鹿神社との関係は、この辺りをじっくり考えてみると、三河国一宮の砥鹿神社の秘密が解き明かされるのかもしれませんが、色々と研究されている方も多く様々な説がありますし、また私たちには難しすぎるテーマで、あまりアホなことを言っては失礼なのでここまでですね

それでは相楽神社へとまいりましょう。

豊川市御津町に隣接する蒲郡市相楽町門成の山の中にあります。晴れていると三河湾が一望できる気持ちのよいロケーションです。

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<道端にある案内看板。相楽神社に兎上神社が合祀されたことが説明されている。>


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<相楽神社。ぐっさんによると、この周辺一帯を後村上天皇を祀る場所といい、また、長慶天皇(=大宝天皇)の生誕地で、そんでもって多賀の里とも呼ぶらしいのですが、ちょっと意味不明で分かりづらい・・・ ま、しかし、そんなこんなで謎多き場所でありんす。>


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<この日は薄曇りだったので眺望はイマイチでしたが、天気が良ければ三河湾の眺めがキレイだと思います。周りはみかん畑で、ポカポカとした長閑さが気持ちいいです


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<社殿全景ですが、屋根をみると軒丸瓦全部に漆喰のような物が埋め込まれている様子・・・?>



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<何か被せ物がしてあるような屋根のてっぺんの瓦の文様と軒下にある緑の文様は、よく見てみると、どうやら菊花紋のようです。>


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<違う角度からもみても、被せ物の下にあるのは菊花紋に見えます。緑色になっているのは銅版の装飾品のようですが、分からないように削ったのか、埋めたかのようです。しかし、ほとんど全部の瓦の文様を埋めるとは、これいかに?深まる謎

何で紋が隠してあるのだろう?いつこれをやったのだろうか?何か見つかってはいけない理由があったのだろうか?などと考えつつも、「寺院では、屋根をふき替えた時の古い瓦が、縁の下に残されていることが多いからなぁ」と、ちょいと縁の下を覗いてみたドグオ氏はこのような瓦を発見


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<十五弁の菊花紋。中心が梅鉢紋になっている。十五弁の菊花紋というのは珍しいらしい。それに梅鉢紋が組み合わさっている紋というのは一体どういう紋なのでしょうか?家臣でこの紋を賜った人がいるのかな?それとも誰か特定の天皇、親王さんを現す紋なのだろうか?何だろう?>

菊花紋をネットで調べてみても、十六弁とか十二弁の菊花紋などが多くあるようですが、十五弁はかなり珍しいようです。伊勢には多いとかいう話もありましたが、真偽のほどは分かりません。

梅鉢紋というのは、蒲郡市の清田の安楽寺にもあって、この寺は徳川家康の生母・於大の方の再婚先である久松家の菩提寺で、久松家の紋が梅鉢なんですね。自称天皇といわれる三浦氏が修業したのも安楽寺です。

徳川家康がここでまた南朝の痕跡地に絡んできていて、さらに安楽寺でも瓦の菊花紋が所々埋められていたので、何か怪しい気がしますね。


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<安楽寺の土塀にある梅鉢紋。屋根の瓦には菊花紋。一部埋められている。>

古い資料を元に南朝の伝承地を訪ね歩いて思うことは、ほとんどが何らかの理由で封印されているんじゃないかということです。誰かが都合が悪くて、南朝の証となる物を隠ぺいしてしまったんだよね、きっと。

今回はご紹介できませんでしたが、相楽の森一帯から御堂山にかけては、古いお寺や古城跡や古墳などがあって、山歩きしながら歴史散策、自然散策ができてよいですよ


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  1. 隠れ南朝伝説
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南朝リレーその5 ~天恩寺 岡崎市~

岡崎市片寄町(旧額田郡額田町)。ホタルの里でも知られる山里に天恩寺というお寺があります。

三河南朝研究の藤原石山氏の資料を読んでいた時に、このお寺のことが出てきたので、気になって探索に出かけてきました。

とはいえ、天恩寺について、あまりよく下調べもせずに出かけてしまったので、どんなお寺なのか全く分からずだったのですが、訪れてみると、なんとまあ、素晴らしく美しいお寺でビックリでございました

さて、天恩寺というのはどんなお寺かというと・・・、

建武2年(1335年)。矢作川の戦いに敗れた足利尊氏は、「明日の戦に勝利させていただけたら、報恩のためにこの地に寺を必ずや建立いたします」と延命地蔵菩薩に戦勝祈願をすると、翌日の戦に大勝利。その後、将軍となり室町幕府を開くが、尊氏はその約束を果たせず、遺言とした。貞治元年(1362年)、三代将軍の足利義満がその遺言に従い、見性悟心(けんせいごしん)禅師に命じて天恩寺を建立。見性悟心禅師は、師である円応国師を近江より招き開山とし、自らは第2世となる。境内には、徳川家康ゆかりの大杉がある。長篠城の戦いの出陣の折、この辺りまで来た時、大杉の影から敵が矢を射かけるところを、延命地蔵の呼びかけにより難を逃れた家康は、これを大いに喜び、地蔵菩薩の前に三拝九拝し、何度も何度も馬上よりこの大杉を遥拝しつつ戦場に向かった。それにより、この大杉を「家康公見返りの杉」と呼ぶ。慶長7年(1602年)、徳川家康より寺領百石の寄進があり、以後江戸幕府により保護を受けた。建物の作者は不詳なれど、貴重な室町時代の禅風の建築であり、仏殿、山門は国の重要文化財。ご本尊は延命地蔵菩薩。臨済宗。


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<天恩寺略由緒>


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<道路際の駐車場に車を止めて、木立に囲まれた石段を登っていくと、門が見えてきます。>


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<門をくぐると見えてくるのが・・・>


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<大きな杉。>


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<この杉が家康ゆかりの大杉です。>


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<石垣が組まれた上に凛とした建物が見えます。>


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<貞治元年(1362)創建当時の姿が残る仏殿。入母屋、檜皮葺、桁行3間の室町時代初期の大変貴重な建物。国指定重要文化財。天に向かって反り返った屋根がとても美しいです。>


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<横から見るとこんな感じ。>


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<そして、天恩寺の境内には、古い土塀が残っていて・・・>


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<その土塀の瓦には菊の紋>


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<菊の紋>


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<足利一門諸家の家紋、二つ引両紋もありました。>


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<江戸時代に組まれたという石垣ですが、まるでお城のようでもあります。>


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<天恩寺への登り口の石柱。帝国特別保護建造物と書かれたこの石柱は、戦前に建てられたようです。>

以上が天恩寺のあらましでしたが、天恩寺の創建の逸話となっている建武2年の矢作川の戦いというのは、後醍醐天皇の命を受けた新田義貞と足利尊氏旗下の足利直義・高師泰が三河国の矢作川で布陣し、足利勢は敗れて遠江国へ退却した戦いのことです。

史料によると、矢作川の戦いで出陣し、足利軍を率いていたのは尊氏の弟の足利直義と高師泰となっているので、足利尊氏が岡崎の地で戦勝祈願したというのは、はてさてどうなんでしょうか?

創建の由来となっている矢作川の戦いですが、この戦いに敗れた足利軍は10日ほど後に、現静岡県駿河区で手越河原の戦いを行いましたが、これも南朝方の勝利で終わっています。そして、この一連の合戦の中に、“鷺坂の戦い”というのが三河であったとされ、それは現在の豊川市八幡町西明寺付近の地名に由来するといわれますが、豊川市篠束町にある篠束神社付近にも鷺坂の名がありました(神社の氏子が鷺坂会という名で活動しています)。

他にも鷺坂の名は、静岡県磐田市にもあって、ここで行われた戦いが“鷺坂の戦い”という説もあるようですが、鷺坂の戦いについては、どこで行われたのかが諸説あり、また、矢作川の戦いという合戦も、愛知県岡崎市の矢作川付近から静岡県の手越河原に至る広域な合戦のことだと思われます。後世においては、合戦自体の詳しい資料などが残っているわけでもなく、太平記などの記述を参考にするしかないのです。ちょっと横道にそれますが、国府がおかれた場所(豊川市と磐田市)に鷺坂と呼ばれる地名があるというのは面白いですね。

ちなみに豊川市八幡町の西明寺は南朝ゆかりのお寺で、長慶天皇並びに松良親王の位牌が安置されているそうです。目と鼻の先に住んでいたのにホントに知らなかったわん

もうひとつ疑問ついでに、天恩寺の創建について、「貞治元年(1362年)、三代将軍の足利義満がその遺言に従い建立した」となっていますが、1362年の時点では義満4歳で、将軍にもなってないんですけど・・・、とツッコミを入れたくなります(^_^;)

さて、お寺の伝承では天恩寺は北朝方となりますが、南朝を供養するお寺であるという考えと、三河から遠州地方にかけて展開する南朝方に睨みを利かせる拠点としての役割のお寺という考え方も出来るかと思います。

藤原石山氏の資料には、天恩寺のある地域は、作手街道の要衝の地であり、額田町の山中に南朝の残党が多く潜居したことから、足利氏も重要視し、天恩寺を建立して、南北戦死者の供養につとめると共に、南朝に味方した残党の台頭を抑えたのではないか。額田の山中には南朝方の皇子皇女をはじめ、戦死した犠牲者を弔う供養も多数散在しているとあります。

南朝方を供養するお寺といえば、今川氏によって1441年に創建された妙厳寺(豊川稲荷)だということですが、年代的には南北朝の争乱がだいぶ落ち着いてからの話になります。天恩寺の場合は、創建年代から考えると、南北朝真っただ中ということになりますので、供養だけというのは少し違うのかもしれません。

なので、南朝方に睨みを利かせる拠点として考えてみるのが、スッキリ来るかなと思います。

しかし、もう一丁、ひねりを利かせて考えてみると、南朝方の拠点だったのかな?とも思えてきます。

なぜそう思うのかというと、天恩寺の仏殿、あの姿かたちが、三河南朝御所、王田殿にあったとされる念仏堂にソックリな点がとても気になるからです。


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<豊川市御津町の大恩寺にあった念仏堂。写真でも十分に分かると思いますが、この建物と天恩寺の仏殿はソックリだと思いませんか?!>

三河南朝御所・王田殿にあった阿弥陀堂を移築したのが大恩寺の念仏堂。こちらは桁行5間なので、天恩寺の仏殿より大きいですが、サイズこそ違え、室町時代の様式、屋根の形、雰囲気がホントにソックリです。どちらも室町時代の極上の逸品で、ひょっとしたら、施主か大工は同じかも知れないと思えてくるほどです


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<これは大恩寺念仏堂内の厨子ですが、天恩寺仏殿の内部にも、これとよく似た厨子がありました。>

江戸時代に作られたといわれる天恩寺の石垣も、本当は南北朝時代のことで、実は城郭のような役割だったのかも知れないと妄想してしまいます。

で、もうひとつ、ちょっと気になるのが、お寺の名前。岡崎の天恩寺、南朝に関係するとされる豊川市御津町の大恩寺と豊川市平井町の報恩寺(懽子内親王の伝説)。これらのお寺に“恩”という字があるのは単なる偶然なのかなぁ?

テンオンジ
ダイオンジ
ホウオンジ


onji002.jpg
<オンジ繋がりに何か暗号でもあるのだろうか・・・?と大変気になるべ。>

そんなこんなで、ややこしい南北朝絡みの話は色々ありますが、天恩寺はとても素敵なお寺でしたこれからの季節は紅葉もきれいだと思いますので、ぜひ訪れてみてくださいな


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本日は「B フレンズ」ブログに、ようこそいらっしゃいました(^^)

穂の国東三河~三遠南信地域を中心に、歴史や信仰、伝説の謎などの探求しています。そして時々エネルギー研鑽も♪

2017.9.19ブログタイトルを改めました。

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