奈良の飛鳥に山田寺というお寺があります。かつてこのお寺の本尊だった仏像が、12世紀の終わりに、興福寺の三代目の本尊として祀られました。しかし、応永18年(1411年)の火災によって、仏像の胴体は焼失してしまい、首から上の頭だけが残されました。残った頭は、新しく作られた本尊の台座の下に収納されたため、長い年月その存在が忘れられた状態になっていましたが、昭和12年(1937年)の東金堂解体修理により発見されたということです。

普段は興福寺に展示されている仏頭ですが、現在、「国宝興福寺仏頭展」が東京藝大の大学美術館にて開催されており、そこでこの仏頭を見ることができると、昨日のBS日テレの「ぶらぶら美術・博物館」で紹介されていました。

今回の展示では、興福寺でも見られないという360度の全方向から仏頭を観賞できて、また仏頭を取り巻く国宝の十二神将像も勢ぞろいしていて、なかなか面白そうな美術展になっているようです。

その姿に深い傷跡を残す“白鳳の貴公子”と呼ばれる謎多き仏頭。この番組ではその点をどんな風に説明するのかな?と思いながら見ていると、「飛鳥の山田寺からお連れして、その後火災にあって仏像が壊れて、そして、その後、昭和になって新しい本尊の台座の下から発見された・・・」と、こんな感じに説明しているだけで、数奇な運命の部分についての突っ込みがイマイチでしたね。まあ、さすがにテレビでは言いにくい点もあるかなとは思いますが…(^_^;)

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<ウィキペディアより>

さて、この仏頭には、数奇な運命に関わる因縁話が潜んでいるといわれています。先頭で簡単に説明したものが一般に言われている内容ですが、では、どんな因縁話があるのでしょうか。

山田寺は、7世紀半ば頃、蘇我入鹿の従兄弟にあたる、蘇我倉山田石川麻呂(そがのくらやまだのいしかわのまろ)の邸宅のそばに作られた寺院で、石川麻呂の自害後に完成しました。現在は山田寺跡となっており、往時の姿はなくなっていますが、かつては大きな伽藍や塔を持つ、荘厳な寺院だったようです。

やがて、興福寺の末寺となり、藤原氏の私有物となってしまいました。文治3年(1187年)、興福寺の僧兵が山田寺に押し込み、無断で本尊の丈六三尊像を持ち去りました。そして、この持ち去られた仏像が興福寺の本尊となり、その後の興福寺の火事により胴体を焼失し、仏頭だけが残りました。

山田寺創建の発願者の石川麻呂は、蘇我入鹿の従兄弟にあたりますが、大化の改新・乙巳の変(いっしのへん)で、自身も蘇我一族でありながら、蘇我を裏切り、蘇我入鹿の暗殺に加担した・・・、ということを歴史で習った記憶があるかと思います。

入鹿暗殺を目論んでいた中大兄皇子と中臣鎌足は、蘇我宗家の内部の亀裂を利用する目的で、蘇我氏傍系の石川麻呂を引きずり込んだということです。その結束として、石川麻呂の次女の遠智娘(おちのいらつめ)が中大兄皇子の元に嫁ぎました。この娘が持統天皇や大田皇女(おおたのひめみこ)の生母です。

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石川麻呂は、蘇我氏宗家を裏切った褒美として、大化改新政府から右大臣を与えられました。ところが、わずか4年後、異母弟の蘇我日向に、「中大兄皇子を暗殺し、謀反を起こそうとしている」と密告され、妻子らとともに、造営中の山田寺で自害。しかし、この事件は、どうも中大兄皇子や中臣鎌足の陰謀だったようです。

石川麻呂が自害した後、二田塩(ふたつたのしお)という人物が、すでに冷たくなっていた石川麻呂の首を切り、肉を切り裂いた。そして、遠智娘は、夫である中大兄皇子に父を殺されたことを悲しみ、無残な仕打ちをした二田塩の「塩」の名を恨み、発狂して亡くなったといわれています。

発狂して死ぬなんて、よほどのことあったのではないかと思ってしまいますが、そうなんです、この「塩」の名を恨み発狂したという話は、人物の「塩」のことを言っているのではなく、石川麻呂の首を塩漬けの「スシ」状態にしたことを言っているのではないかということが、関裕二氏の「蘇我氏の正体」に書かれていました。

生首を塩漬けにするというのは、百済の方の風習で、それを知っていた中臣鎌足が、中大兄皇子に入れ知恵をし、石川麻呂の首を塩漬けにして戦利品として持ちかえらせたのではないかと。そして、それを見せられた娘の遠智娘は、父の「塩」まみれの変わり果てた姿に恐怖し、発狂したのではないか・・・

その後、山田寺は、石川麻呂の孫にあたる鸕野讚良皇女(うののさららのひめみこ・後の持統天皇)や天武天皇の援助によって造営され、天武14年(685年)3月25日、本尊の丈六仏(丈六三尊像・現在の仏頭)の開眼が行われました。これはちょうど石川麻呂の三十七回忌にあたるので、非業の死を遂げた石川麻呂の追善だったのではないかということです。

「塩漬けのスシ」にされた石川麻呂の生首と、火災にあって仏頭だけが残り、何百年も忘れられたまま塩漬けにされ、現代に蘇ったということが、なにやら因縁めいた話に思えてきますね。

ちなみにですね、この仏頭のお顔は、中日ドラゴンズの田島選手にそっくりです


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<写真並べてみました

落合GM、谷繁新監督の元、来年は面白い試合が見れそうかな~



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2013_10_26


遠州浜松の徳川家康と岡崎の松平元康が戦い、元康軍に敗北した徳川家康は、豊川市三上の権現山に身を隠し、折を見て命からがら脱出した・・・、こんな伝説が地元に残っておるといふ・・・

しかし、歴史上では、松平元康が後に名を変え、徳川家康となっていますので、この伝説では、同じ人間同士が戦ったということになってしまいます

何だかちょっと変な伝説話ですが、徳川家康入れ替わり説が多々ささやかれるのは、こんなところから来ているのでしょうか。

さて、この不思議な伝説話に登場する、家康が身を隠したという権現山。

あまり下調べもなくテキトーに行ってみたところ(^_^;)、権現山に入っていけそうな道は大きな貯水タンクがあり行き止まりのような感じになっていて、これ以上は進めないのかと思ってしまい諦めてしまいました(後で調べてみると、その脇に歩いて入れる道があって、山頂には古墳があるちゅーことでした

権現山に入ることが出来ず、その辺りをウロウロしていると、「勝山城跡」を発見

勝山城(かちやまじょう)というのは、熊谷直鎮が足利尊氏の六波羅攻め(元弘三年・1333年)の戦功により、三河国八名郡に所領を賜ったことにより築城された城で、宇利城を本城とする熊谷一族は、松平清康軍に攻め落とされ、愛知県豊根村へと落ちのびたという。

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公民館の脇に案内看板があり、そこを撮影していると、近所のオジサンが話しかけてきて、この勝山城のことを説明してくれました。

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石碑背後に見えるコンクリートで盛られた場所が本丸跡らしい。

地元の歴史にかなり精通している様子のこのオジサンの叔父様は、なんと豊川市国分尼寺を最初に発掘した学者さんだったということで、でもって、後醍醐天皇の皇子で、宗良親王の弟宮の無文元選禅師が開基したという浜松市の奥山半僧坊・方広寺にある後醍醐天皇に縁の古文書の解読も行ったということでした。スゲー( ̄▽ ̄;)

そして、このオジサンは、「権現山には古墳があるが、これの調査の願いを出しても、上が許可してくれず調査出来ない」といい、「この権現山の下にある緑野神社は一番格の高い神社で、天智天皇の皇子が祀られとる」とビックリするようなことを言われるので、

「ええ?天智天皇?天武とか持統天皇じゃなくて?」と何回か聞き直しましたが、オジサンは「琵琶湖の大津の近江神宮の天智天皇のその皇子で、天智天皇は何回もここに来とった」と言われてましたので、間違って言っているわけではないようでした。

だとしたら・・・、

「ええー?!持統天皇じゃなくて、天智天皇が三河に来ておったってこと?それも何度も?どういうこっちゃ???」

驚きの新発見です

とまあ、ちょっとした動揺を覚えながらも、オジサンと別れ、緑野神社へと足を運んでみました。

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木々が生い茂る道を下から登っていくと途中に小さな池のような水場があります。

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しめ縄で囲われています。和泉式部が“みどり野池の藻の美しさ”を詠ったとされる和歌がありますが(信号付近に歌碑あり)、

春ふかく なりゆくままに みどり野の 池の玉藻も 色ことに見ゆ / 和泉式部

この和歌で詠まれたみどり野の池とは、この辺りのことでしょうか?

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登った先に緑野神社。権現山の麓に位置する小さな神社です。祭神は、速玉男命 事解男命 伊邪那岐命 伊邪那美命。由緒・創建は不明ですが、相当古くから鎮座する神社のようです。

しかし、オジサンの天智天皇の皇子という話が気になります。

天智天皇の皇子の皇子としたら、誰のことなんでしょう?

権現山の周囲を見てみると、黒谷神社、白山神社、緑野神社があります。これらの神社の名を注意してみると、黒、白、緑(青)の色を現わしていることがわかります。ここでもうひとつ、赤のつく神社があると高松塚古墳の壁画の東西南北に描かれている四神獣のようになるのです。

すると、権現山の麓の権現下という地域から(ちょうど四隅の一角に当たる)、赤川姓の人々が豊川西岸に引っ越したという話があって、もしかしたら、赤川氏にちなんだ赤川神社なるものがあったのではないか?ということです。

そして、この四つの色にちなんだ神社は結界の役目と見ることもでき、勝山城はこの結界を利用する形で、その中に城を築いたと考えられるともいう。

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地図にするとこんな感じで、権現山も四つの神社の結界の中に入るんですね。

その権現山の麓の、権現下という辺りにいた赤川姓の人たちが、豊川西岸の地域に引っ越したという話を元に、その西岸の地域を地図で見てみると、そこには「蒜生神社」という神社があります。

「蒜(ひる)」というのは、にんにく、にら、ねぎ、ノビルなどのユリ科の植物の古称ですが、「石蒜(せきさん)」というと彼岸花のことになります。彼岸花は、真っ赤な花を咲かせる毒のある花です。もしかしたら、この蒜生神社の「蒜」は彼岸花のことを示していて、蒜生神社は赤を意味する神社なのかもしれないという仮説をおっ立ててみました(^_^;) でもって、西側の対岸に移った=彼岸(あの世とか西方浄土)。そこから彼岸花=石蒜=蒜生神社になったのかな?などと思ってみたりして

さて、四色が四方に配置される四神獣とは、
玄武(北・黒)
青龍(東・緑、青)
朱雀(南・赤)
白虎(西・白)
となっていますが、権現山の周囲の神社もこんな配置になっているのかしら?と思ってみましたが、ちょっと配置が違うようでした

でも、配置が違うとはいえ、この四神が揃っているとして考えてみると、五行で中心に来るのは黄竜(中央・黄)で、黄色というと、黄櫨染御袍(こうろぜんのごほう)という、天皇が重要な儀式の際に着用する束帯装束の袍があります。太陽の光が当たると金色に輝くというこの色は、天皇以外は着用することのできない色だということです。

ということは、この四色の神社の中央は天子様の場所ということで、天皇に関係するお墓もしくは御所なんぞがあったのではないかと想像してしまいます。

もしかしたら、権現山をほじくったら黄色を現わすものが出てくるのかな?それで、そんなモンが出たらヤバいから権現山を調査させてくれないとか?

この近くの下条の正楽寺には、文武天皇の皇子・竹内皇子の塚があるというし、藤原石山氏らのいう長慶天皇の身代わりで後醍醐天皇の皇女が亡くなったという話や石巻には南朝の玉川御所があったともいう。そして、オジサンのいう天智天皇の皇子の話まで出てきて、一体誰のことを伝えているのかが訳分かんないっす。元々訳分かんないのに、ますます分からんですわ

おまけに、五行説というと、天武天皇も後醍醐天皇も陰陽道をやっていたというし、陰陽道というと賀茂氏で、賀茂神社もすぐ近くにあるんだよね・・・。ますます分からんですわ



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2013_05_28


2012年が明けてはや3週間が過ぎてしまいました。遅ればせながらですが(^_^;)、新年明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願い申し上げます

さて、今年は辰年ですね。辰=龍ということで、愛知県岡崎市の岡崎城内にある「龍城神社(たつきじんじゃ)」へお参りに行ってきました。

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岡崎城のすぐお隣にある龍城神社は、東照宮の一つで、徳川家康・本多忠勝・天神地祇・護国英霊が祭神として祀られています。

1455年、岡崎城を築城した際に龍神が現れ、城の井戸から水を噴出させながら天に昇って行ったという龍の井があります。この井戸は徳川家康が誕生した日の朝にも金龍が昇天し、吉兆の事あるごとに龍神が現れたといわれているそうです。

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すぐお隣の岡崎城の入り口には、こんな看板も。

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名古屋城の「おもてなし武将隊」は有名ですが、岡崎城にも「葵武将隊」なるものがいるようです
*武将隊の写真が、ぶしょったい(三河弁)です。すんません(^_^;)

さてさて、徳川家康といえば、この岡崎城で生まれたということで、岡崎公園内に「初湯の井戸」があります。徳川家康の先祖の出身地といわれる豊田市の「松平郷」にも徳川家康が誕生の折りに「初湯につかう水をくんだ井戸」なるものがありました。

「徳川家康=岡崎、三河の武将」というのが定説になっていますが、前回のブログでもちょっと触れましたが、徳川家康と松平元康が戦ったという話があり、実は、この二人は全くの別人で、どこかの時代に入れ替わっているのでないかというそんな裏話的なものを見つけました。

なぜ私たちがこんな裏話に興味をそそられたかというと、パワースポット巡りと称し、あちこちの神社仏閣などを巡っていると、徳川家康に関する妙な逸話が残っている場所に何箇所か遭遇したからです。

●静岡県袋井市の可睡斎にある「徳川家康が敵に追われて、寺の機転で隠れて助かった岩穴」。
●静岡県の菊川には、敵に追われた家康が、恐怖のあまりにオナラをしてしまい(切な屁というらしい)、そこから名づけられた「へっぴり坂」というのがある。
●浜松市には「負けて逃げる途中に、あまりに腹が減ったために茶屋で餅を食べていたら敵に追いつかれて、慌てて逃げたために餅代を払わず無銭飲食し、餅屋のばあさんに追いかけられて代金を払った」という場所がある。
●三方ヶ原の戦いで、武田信玄に敗れた徳川家康は、脱糞しながら、まくれて浜松城に逃げ帰った(これは定説ですが)。
●岡崎市の山中八幡宮に、三河一向一揆で徳川家康が敗れて逃げ隠れた「鳩ヶ窟(はとがくつ)」という洞窟がある。

これらの話を耳にする度に、「この人は静岡でやたらと敵に追われているけど、何で?何をしとったの?」とか岡崎の山中八幡にも隠れた穴があるのを見て、「ここでも追われて隠れたのって何で?」と引っかかりを感じていたのです

定説にある武田に敗れた話は史実だと思いますが、それ以外の各地に残る逸話は、あまりに情けないというか、弱いというか・・・

三河の一向一揆というのは、家康が三河に地盤を築いている最中のことなので、命からがらというのは何となく納得はいきますが、遠州地方に残る「追われて逃げ隠れた」という逸話は、ちょっと変な気がするのです。家康が浜松城を拠点として遠州を支配し始めている時なので、そんなに追われるようなことがあるのだろうかという疑問が湧いてきます。

もっと分かりやすく言うと、この当時の遠州地方は今川家が滅んで、支配者がいない状態、空き家状態なのに、なんでそんなピンチを何度もしなければいけないのか?

三方ヶ原の敗戦の逸話が形を変えて各地に伝わったというのは、ちょっと苦しい気がするし。

一番情けないと思うのが、餅を無銭飲食してしまったことですが、これは三河と遠州を支配するれっきとした大名がするようなことかなぁ???まるで志村けんのバカ殿のコントのようです

トロイの木馬にもあるように、シュリーマンがトロイア戦争の伝説をそのまま信じて、発掘できたように、伝説となっている話というのは、必ず元になっている話があると思っています。「火のない所に煙は立たず」という感じで、徳川家康の逸話にも何かあるのではないかと、何となく疑問に思っていたのです。

八切止夫(やぎりとめお)という名古屋生まれの小説家がいます。1987年に死去されていますが、「八切史観」といわれる独自の史観にもとづく(ちょっとトンデモ本?)歴史小説などを発表された方です。「上杉謙信女人説」が最近では知られているのではないでしょうか。

八切氏は「徳川家康は二人だった」という小説を出されていますが、この話の元となったのが、明治35年に発刊された、村岡素一郎著の「史疑徳川家康」という本です。

この本は、当時華族会の会長をしていた徳川家から猛反発をくらい、発行禁止となってしまいました。明治の歴史学会からも封じ込められてしまいました。

それから数十年後、この話を元にして、八切氏が独自の歴史検証を行い、発表したわけです。

さて、家康二人説とは。

まず大河ドラマでみるような、正史とされる徳川家康は、元の名前が「松平元康」であり、後に改名して「徳川家康」となりました。家康は岡崎城に生まれ、三河の小さな国主ゆえに、駿府の今川家に人質に出されますが、この途中、田原の戸田氏にさらわれ、尾張の織田家へ人質として渡されます。そして、今川と織田が三河の安祥(安城)で戦った際に、人質交換として、今川家の人質になりました。この幼名・竹千代が成人して、松平元康になり、今川義元の死後、岡崎城を取り戻し、やがて徳川家康となります。

これが皆さんがよく知る徳川家康ですが、次にもう一つの徳川家康です。

駿府に世良田二郎三郎(せらたじろうさぶろう)という人物がいました。この人物は上州の新田郡得川郷(現・群馬県太田市徳川町)を出自とする者ですが、この人物こそが後の徳川家康となる人物だそうです。

この世良田二郎三郎は、武士でも農民でもなく、山賊のようなことをやっていたのか、もしくはささら者と呼ばれる階級に属していたのか、何をやっていたのかは得体が知れない男でした。

世良田二郎三郎は、駿府の今川義元が上洛するにあたって、松平元康の子供、竹千代(信康)を誘拐しました。松平元康は今川軍の先陣を努めているので、討ち死にする確率が高く、もしそうなった時に三河の跡継ぎが手中にあれば、三河を乗っ取れるのではないかと世良田二郎三郎は企てたからです。

しかし、有名な桶狭間の合戦で今川義元が亡くなると、今川家は勢力を失いますが、織田も三河を攻めるわけでもなかったので、中途半端な状態に置かれた三河を手に入れようと、また世良田二郎三郎は画策し、まずは浜松城を落とし手に入れました。

今川家から誘拐された竹千代は世良田二郎三郎の手元にありましたが、この人質の竹千代を織田に渡して、松平元康を織田の仲間に入れようと画策した世良田二郎三郎は、途中、田原の戸田氏と計らって、竹千代を織田に渡しました。竹千代(信康)は、信長の元で人質生活を送ることになりました(信長に可愛がられていたようです)。しかし、松平元康は織田方につくことを拒んでいました。

そして、矢作川上流から松平元康に攻め込んだ世良田二郎三郎でしたが、烏合の衆ばかりの世良田勢は、松平勢に負けて降参。しかし、この時、世良田次郎三郎は抜け目なく立ち回り、山中城(山中八幡の近く)を落として、そこの城主におさまり、うまいこと松平元康の同盟者となってしまいました。
*世良田二郎三郎が松平元康を攻めている頃、豊川市三上でも両者が戦い、負けた世良田二郎三郎が権現山に隠れたという話が残っているのではないかと推察します。

やがて、世良田二郎三郎は、松平元康に協力して手柄を立て、その勢いに乗った松平元康は、織田信長の人質になっている、長男・竹千代(信康)を奪還しようと考え、尾張の森山へ兵を進めました。

しかし、そこで家臣に松平元康は討たれ、殺害される。これが世にいう「森山くずれ」です。(正史でいう森山くずれというのは、この時より26年前の天文4年のことで、討たれたのは、元康の祖父の松平清康となっています)。

主君を失い困った家臣は、多くの手柄を立てている世良田からの「俺を身代わりに仕立てよ」という申し出に、これが一番安全な策だと賛成。この時に、松平元康と世良田二郎三郎が入れ替わったということです。

まんまと入れ替わった世良田二郎三郎は、そのまま織田信長と交渉し(信長も気付かなかった)、竹千代(信康)を取り返し、そのまま竹千代の後見人におさまってしまいました。

この後は、三河を乗っ取った世良田二郎三郎が、後々の徳川家康になるのです。自分の出自の地、上州新田郡得川郷から徳川に改名し、得川郷には葵が多く自生することから葵の御紋となったとさ。ちなみに松平家の御紋は桐紋だったそうです。

旧宝飯郡小坂井町には伊奈城がありますが、ここが葵の御紋の発祥の地だということを小さい頃から聞かされていました。校歌にもあったし。しかし、かの徳川家の御紋の発祥の地だという割には、さほど話題にならないのはなぜ?という疑問が常にあったのですが、こーゆー話があったんだったら、何となく納得するわいってな感じです。

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*伊奈城の看板。

この話ばかりでなく、徳川家康の出身地とされる三河の地域が、天下を平定した後、まったく優遇されていないのは何でだろう?とも思っていました。出生の地である岡崎が御三家の一つになってもおかしくないのに、岡崎をおさめていたのは家来の水野家とか本多家とはどういうことでしょ?石高も低いし

明治維新になり、15代将軍の徳川慶喜は、明治政府から「祖先の生まれた地、駿府にお帰りなさい」と言われ、駿府に移住し余生を送ったということです。あれ~?徳川の祖である家康が生まれた地は、岡崎じゃなかったっけ???「祖先の生まれた地、岡崎か豊田松平郷にお帰りなさい」とは言われなかったのね?これも変な話ですねぇ(^_^;)

とまあ、色々と何ともややこしい話で、まだまだトンデモナイ話は尽きませんが(^_^;)、とりあえず今まで述べてきた話から言うと、三河の松平元康の長男の竹千代(信康)は、世良田二郎三郎(徳川家康)の子供ではないというのが分かると思います

正史によると、武田に密通したという罪により織田信長から長男・信康と妻・築山殿を自害させよとの命令を徳川家康は受け入れます。そして、徳川家康の長男とされる松平信康は、遠州の二俣にある二俣城で自害させられましたが、この方のお墓は、江戸時代ずっと荒れたままになっていたという話を聞きました。自分の本当の嫡男ならば、その後、徳川信康という名を与えて丁重に祀るとかできただろうに、この方は松平信康とか岡崎信康という名のままです。信康の母、築山殿も家康の正妻になるのですが、いとも簡単に殺してるし。自分の子供じゃないし、自分の奥さんじゃないし、おそらく入れ替わりの事実も知られているだろうから、本当は家康自身が殺したのだろう。

で、最初に出てきた遠州などに残る逸話に戻りますが、これは世良田二郎三郎が、駿府や遠州などで一獲千金の悪だくみをしていた時の話だとしたら、ああいった情けない話はあると思います。

そして、世良田二郎三郎が竹千代を誘拐した時に、等禅坊という僧侶の助けを借りました。その後、世良田二郎三郎が家康となって天下平定した後、等禅坊はこの時の手柄で、遠州に立派なお寺を立ててもらった、これが可睡斎だそうな。

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*可睡斎にある家康が隠れたとされる“出世六字の穴”

おそらく山中八幡の鳩ヶ窟の話も、世良田二郎三郎が山中城を攻略する時に関係する逸話じゃないかと思う次第です。

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*山中八幡の鳩ヶ窟

ささら者の世良田二郎三郎が立身出世のために色々やったことが、その後徳川家康の伝説となったのですが、情けない話が多いのも、のし上がるために必死だった証しだと言えるのではないでしょうか。

事実、上州の新田郡徳川郷(群馬県太田市)には、徳川家光が建てたという世良田東照宮もあるんですよ。大正時代に起きた世良田事件にもこの話が関係してくるようです。

今回は初詣に龍にちなんだ神社で岡崎城に行ったことから、とんでもない方向に話が飛んでしまいました。タイトルと中身がだいぶ違っちゃいました

八切氏の話は読んでいると脳みそがシェイクされるような衝撃を受け、話を整理するのがとても大変なのですが、今回は家康の二人説についてピックアップしてみました。

独自の切り口を持つ八切史観は、日本の歴史的な身分制度を紐解くことや、日本民族の成り立ちや分類などを調べてみると、意外なモノが見えてくるようです。

単なるトンデモ話で楽しんでいただければ幸いですが、でも、実はかなりディープな問題をはらんでおります。そのことについては私たちは門外漢ですので、あしからずです。


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