東三河エネルギー研鑚会の日常      

高次元エネルギー療法や日常を通した「東三エネ研」のエネルギー四方山話をご紹介します。

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天皇賞・春 終わった。そして山田寺仏頭のお話

いやはや、予想外しました なんと1着が1枠1番のビートブラックでした。大本命のオルフェーヴルはまったく見せ場なしで、下から数えたほうが早いくらいの大惨敗でしたね

我々が予想したジャガーメイルは、4着でした。惜しかったな~(―”―;)、といっても馬券は買ってないので・・・ ブログ読んで買っちゃった人(たぶんいないと思うけど)、ごめんなさいです

さて、勝ったビートブラックには、何かサインが出ていたのでしょうか?

つい最近サイン競馬情報を交換することになった方がいて、この方の影響で、今回十年ぶりくらいにサイン読みをやってみたのですが、ビートブラックは我々のサイン読みには全然引っかかってきませんでした。

この方は、今回の天皇賞のサインについて、「小沢の判決が関係ありそうだ」と数日前から言っていました。小沢が無罪になったことを、白→1枠(白色の枠)と見て、その枠にいるのがビートブラック。限りなく黒に近いのに無罪(白)ということでしょうか。そういえば、小沢って一郎って名前だから、イチロウで1枠1番だったのか?お金に汚い大物政治家が馬券に絡んできたってことかなぁ?今回は、大本命が飛んで万馬券になっているので、小沢関係で資金稼ぎをした人がいるのかなぁ?ブツブツ・・・

かつての自民党政権下では、選挙が近くなると、競馬は鉄板で固まるという話もありましたが、現政権下においては、このセオリーは通用しないのかな?最近の競馬は情が無くなってしまったという話もあるので、サイン読みの世界も変化しているのでしょうか・・・

ということで、我々のサイン予想も大いに、大外しをしてしまいました(^_^;) まあ、サイン競馬とはこんなものでもあって、ハマる時には実にお見事ですが、外した時にはしょーもないくらいグダグダです

「はぁ~、しかし、予想が見事にぶっ飛んじゃったなぁ~」と話していたら、「ぶっ飛んだ→ぶっ飛び→仏頭」という連鎖が頭の中で駆け巡り、なぜか奈良の興福寺にある「山田寺の仏頭」のことを思い出してしまいました。もの凄くくだらないシャレで・・・、すみません(^_^;)

では、「山田寺の仏頭」のお話に入っていきます

奈良の飛鳥に山田寺というお寺があります。かつてこのお寺の本尊だった仏像が、12世紀の終わりに、興福寺の三代目の本尊として祀られました。しかし、応永18年(1411年)の火災によって、仏像の胴体は焼失してしまい、首から上の頭だけが残されました。残った頭は、新しく作られた本尊の台座の下に収納されたため、長い年月その存在が忘れられた状態になっていましたが、昭和12年(1937年)の東金堂解体修理により発見されたということです。現在は興福寺の国宝館に展示されていますので、阿修羅像を見に行った時に見かけたことがあるのではないかと思います。

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<ウィキペディアより>

先日、奈良の興福寺で阿修羅像を見てきたという方が、「最近の阿修羅像は、今風のカッコいいライティングがされていて、オシャレになっていた」と言われていたので、私たちも、「阿修羅もいいけど、山田寺の仏頭もなかなかいいんだよね」なんて話をしたのです。

ちょっと前にこんな話をしていたせいもあって、ぶっ飛びから仏頭へ繋がった次第ですが、興福寺に収蔵されている山田寺の仏頭には、実は、因縁話が潜んでいるということなんですね。先ほど簡単に説明したものが一般に言われている内容ですが、では、どんな因縁話があるのでしょうか。

山田寺は、7世紀半ば頃、蘇我入鹿の従兄弟にあたる、蘇我倉山田石川麻呂(そがのくらやまだのいしかわのまろ)の邸宅のそばに作られた寺院で、石川麻呂の自害後に完成しました。現在は山田寺跡となっており、往時の姿はなくなっていますが、かつては大きな伽藍や塔を持つ、荘厳な寺院だったようです。

やがて、興福寺の末寺となり、藤原氏の私有物となってしまいました。文治3年(1187年)、興福寺の僧兵が山田寺に押し込み、無断で本尊の丈六三尊像を持ち去りました。そして、この持ち去られた仏像が興福寺の本尊となり、その後の興福寺の火事により胴体を焼失し、仏頭だけが残りました。

山田寺創建の発願者の石川麻呂は、蘇我入鹿の従兄弟にあたりますが、大化の改新・乙巳の変(いっしのへん)で、自身も蘇我一族でありながら、蘇我を裏切り、蘇我入鹿の暗殺に加担した・・・、ということを歴史で習った記憶があるかと思います。

入鹿暗殺を目論んでいた中大兄皇子と中臣鎌足は、蘇我宗家の内部の亀裂を利用する目的で、蘇我氏傍系の石川麻呂を引きずり込んだということです。その結束として、石川麻呂の次女の遠智娘(おちのいらつめ)が中大兄皇子の元に嫁ぎました。この娘が持統天皇や大田皇女(おおたのひめみこ)の生母です。

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石川麻呂は、蘇我氏宗家を裏切った褒美として、大化改新政府から右大臣を与えられました。ところが、わずか4年後、異母弟の蘇我日向に、「中大兄皇子を暗殺し、謀反を起こそうとしている」と密告され、妻子らとともに、造営中の山田寺で自害。しかし、この事件は、どうも中大兄皇子や中臣鎌足の陰謀だったようです。

石川麻呂が自害した後、二田塩(ふたつたのしお)という人物が、すでに冷たくなっていた石川麻呂の首を切り、肉を切り裂いた。そして、遠智娘は、夫である中大兄皇子に父を殺されたことを悲しみ、無残な仕打ちをした二田塩の「塩」の名を恨み、発狂して亡くなったといわれています。

発狂して死ぬなんて、よほどのことあったのではないかと思ってしまいますが、そうなんです、この「塩」の名を恨み発狂したという話は、人物の「塩」を言っているのではなく、石川麻呂の首を塩漬けの「スシ」状態にしたことを言っているのではないかということが、関裕二氏の「蘇我氏の正体」に書かれていました。

生首を塩漬けにするというのは、百済の方の風習で、それを知っていた中臣鎌足が、中大兄皇子に入れ知恵をし、石川麻呂の首を塩漬けにして戦利品として持ちかえらせたのではないかと。そして、それを見せられた娘の遠智娘は、父の「塩」まみれの変わり果てた姿に恐怖し、発狂したのではないか・・・

その後、山田寺は、孫にあたる鸕野讚良皇女(うののさららのひめみこ・後の持統天皇)や天武天皇の援助によって造営され、天武14年(685年)3月25日、本尊の丈六仏(丈六三尊像・現在の仏頭)の開眼が行われました。これはちょうど石川麻呂の三十七回忌にあたるので、非業の死を遂げた石川麻呂の追善だったのではないかということです。

「塩漬けのスシ」にされた石川麻呂の生首と、火災にあって仏頭だけが残り、何百年も忘れられたまま塩漬けにされ、現代に蘇ったということが、なにやら因縁めいた話に思えてきます。

サイン競馬大外しの反省話から、仏頭の話になりましたが、前回のサイン競馬の話に中にも、持統天皇が出てきていて、そして、また、この話も持統天皇と繋っておるのでありまする。

サイン競馬の記事は、ハズした時のいい訳が大変なのだ なぁんて言いつつも、さあ、次のサイン競馬はダービーかな?と、懲りもせず口走るエネ研なのでした




ちょっとサイン競馬で天皇賞を予想してみました

来る4月29日(日)は天皇賞・春GⅠが行われます。木曜日には出馬表も発表され、どの馬が来るのかと予想検討に頭を悩ませている方も多いことでしょう

我々エネ研も、超久しぶりにサイン競馬での勝ち馬予想をしてみました

まずサイン競馬って何?ってことですが・・・。

なぜか不思議なことに、レース前に流れるコマーシャルやポスター、近々で起きた出来事やニュースに、勝ち馬が絡んでくるということを読み解く、それがサイン競馬なのです

代表的な例として挙げてみると、ずいぶん昔の有馬記念になりますが、JRAのポスターに「名優」というコピーがあり、実際に勝った馬は「メジロマックイーンとダイユウサク」。これは万馬券となりました スティーブ・マックイーンと松田優作で来ちゃいましたね

そして、アメリカニューヨークの9・11事件のあった年の有馬記念では、「アメリカンボスとマンハッタンカフェ」が1着2着になり、モロその年の世界を震撼させるような事件を象徴するかのような馬が、2頭そろって来ておりました

この2例はあまりにもベタなサインですが、これで勝ったという人がけっこういたんですよ。まあ、こんな感じで、何かしらのサインや暗号がレースの前に出ているというオカルトチックな競馬を楽しむのがサイン競馬でもあります。

サイン競馬信者に言わせると、競馬の勝ち馬というのは、JRA(日本中央競馬会)によって仕組まれていて、馬やジョッキーの実力や能力だけで競い合っているのではないということなのです。厩舎関係者の冠婚葬祭にも、ご祝儀やらお悔やみといった形でのサインが時々出ていたようです。最近知った情報では、政局とも密接にリンクしているという話で、こういった暗号によって、政治資金までもが調達できるようになっているらしいとか、武豊が不調なのは民主党政権のせいだとか・・・

サイン競馬においては、武豊は天皇賞に強いジョッキーだと言われています。なぜ天皇賞に強いかというと、神武、天武、文武といった天皇にある「武」という字を名前に持っているからだということです。今の民主党政権は、天皇制をちょっとないがしろにしているような感じなので、これが武豊の不振に繋がるってことなのでしょうか。

まじめな人がこんな話を聞いてしまうと、これは八百長ではないのか?と思ってしまうかもしれませんが、八百長とは言い切れないのです。ちょっとした都市伝説みたいなことですね。かつて、ドグオは新聞の尋ね人欄のヘンテコリンなフレーズに、これがひょっとしたら競馬のサインかもしれないと思ったことがあり、そうしたら、そこに書いてあった名前によく似た馬が大穴をあけていて、まるでスパイ映画のようだと思ったことがありました。

それでは、今度の日曜日に行われる天皇賞をサイン競馬で紐解いてみましょう。

サイン競馬的セオリーでは、天皇賞には、天皇や皇室に関する情報が絡んでくるということです。それと同時に、JRAのCMやポスターで何がいわれているかをみて、キーワードになりそうなものを探していきます。

すると、今回の場合、TVのCMでは、ライスシャワーという過去の名馬が出てきて、出馬表が発表された木曜日に、天皇陛下の火葬に関するニュースが流れました。

まず一番に気になるこれらをサインとして検証してみると、ライスシャワーは2回春の天皇賞を勝っていますが、なんと枠番馬番は、2回とも同じで、2枠3番だったのです。そして、最初の天皇賞で勝った時のライスシャワーは、本命まちがいなしと言われたメジロマックイーンを打ち破っています。

次に、天皇陛下の火葬の話を考えてみます。ここでキーワードになりそうなのが、“天皇の火葬”です。日本で最初に火葬になった天皇はというと、持統天皇です。持統天皇は女帝で、第41代の天皇ということです。

この天皇の火葬という情報は、JRAが発表したものではなく、単なる一般のニュースです。ただ、なぜ天皇賞の枠順が決まり出馬表が発表される日に、突然公表されたのかという点が引っかかるので、これは暗号であると捉える事ができるかと思います(^_^;)

さて、これらのメッセージから勝ち馬を予想していくのですが、気になってくるのがライスシャワーの枠番馬番です。2回勝っていて、2回とも同じ番号で、これは怪しいとみれるのですが、今回この番号に入っている馬の情報をみてみると、この要素だけで、この馬がイケるのかどうかはちょっと弱い感じがします。もう一つの要素である、天皇の火葬話との関係が見つからないからです。

次に、持統天皇の41代目という点に注目してみました。

持統天皇は女帝なので、牝馬(女馬)が出ていないかをみると、牝馬は今回出走していません。

では、4と1という数字で、4枠、1枠の馬とか、馬番1番、4番の馬や、41をひっくり返して、14番の馬などを検証してみましたが、これだけではどうも説得力に欠けるのです。

このあたりで、「んんん。見つからないな~」と、つかえて考え込んでいたのですが、ボーっと出馬表を眺めていたら、「あれ、四位くんが出てるじゃん!」(すごい馴れ馴れしい言い方で・・・ 我々がかつて競馬で盛り上がっていた時、彼は若手騎手だったのよね

そうです、四位→41じゃないですか

で、四位くんの乗る馬、ジャガーメイルを調べてみると、「8歳の馬じゃ、年寄りだし、成績もそれほどでもなさそうだし、これはないよね」なんて、言いながら、念のため過去の戦績をみてみると、あらま、春の天皇賞を勝ったことがあるではないですか。

そして、さらにこの馬の経歴を洗ってみると、2年前の春の天皇賞で1着になっているので、今回、もし勝ったとしたら、ライスシャワーが春の天皇賞を2回勝った時の勝ちパターンともよく似た形になります。

そんなこんなで、ライスシャワーと持統天皇のサインの要素を兼ね備えているのは、ジャガーメイルだけってことが導き出されちゃいました

そして、今回の大本命のオルフェーブルは、にゃんと、メジロマックイーンのお孫さんなのよね~。ということは、ライスシャワーの再現であるジャガーメイルにやられちゃうのかな?なんて思うと、ちょっとしたドラマみたいなものも感じてドキドキしてきます おそらく、ジャガーメイルは人気薄だと思うので、ジャガーメイルの単勝なんて美味しいのかも?もしくはジャガーメイルからの馬連がおもしろいのかな?なんてね

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数年前に、A-PAT会員の資格が無効になってしまい、ウィンズか競馬場に行かないと馬券が買えないので、今回は予想を楽しんでみました ちなみに、中京競馬場へ行って、馬券を買って、帰りに、知立駅の立ち食いソバ屋でおソバを食べてくる・・・、というのが、かつてのドグオの必勝パターンでした また、やってみるってか?

オカルトチックなサイン競馬、信じるか信じないかはあなた次第ですので、あしからずですよ  きゃ~、どうなる?!

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平八じいさんと稲荷の話

南朝リレーその1で、豊川稲荷の狐塚のことに触れましたが、ここも南朝と何か関わりがありそうな感じなんですね。それで、南朝と豊川稲荷の関係についてなどをアレコレ調べていたら、お稲荷さんのことでおもしろい話が出てきました(^^)

豊川閣妙厳寺。通称豊川稲荷。霊験あらたかな稲荷として、今川義元、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康などの著名人から一般の人まで、広く多くの人々からの帰依信仰を集め、日本三大稲荷の一つに数えられているというのは皆さんご存知の通りです。

そんな豊川稲荷の元は西島稲荷だった・・・という話を以前「穂の国稲荷巡り」でもチラッと触れましたが、かつては、西島稲荷が多くの人々から篤く信仰され、とても賑わっていたのです。その西島稲荷には、社守(雑事を行う人)の平八というおじいさんいたのですが、このおじいさんが妙厳寺の社守になると、妙厳寺の稲荷、すなわち豊川稲荷が隆盛を極めるようになり、だんだんと西島稲荷はさびしくなってしまったと。豊川稲荷は別名「平八稲荷」とも言われています。

ちょっと何だか謎っぽい平八じいさんですが、このおじいさんは、遠州の都田から西島稲荷に来たという話で、調べてみると、浜松市北区都田町に平八稲荷という稲荷神社があり、そこにはこんな伝説がありました。

今は昔、都田村新木に平八という親切なおじいさんが住んでいた。平八爺さんはもとは、白狐だったが、皆のことをよく気にかけて優しかったため、村人たちに慕われていた。

ある年、長雨が続いたことがあった。その時、近くを流れる都田川を平八爺さんはじっと見ていた。しばらく川を眺めた後、突然、平八爺さんは村人たちに山の方へ逃げろと大声で言った。なにか起きたのかと村人が尋ねても、ただただ急いで逃げるよう叫び続けた。平八爺さんの真剣な声に村人たちは従い、山の上に登った。その時、川の水が氾濫して村全体を飲み込んでしまった。

こうして、村人たちは助かったのだが、平八爺さんの姿が見えない。かわりに、都田川の荒い流れの上をぴょんぴょんと跳んでいく、一匹の白狐の姿があった。

その後、平八爺さんを都田で見ることはなかった。「平八さんは白狐だったが、良い人だった」と村の人たちはお宮を作って稲荷神社としてまつった。それが現在新木にある「平八稲荷神社」である。
(浜松情報BOOKより)

この伝説のおじいさんをお祀りしたのが、平八稲荷ということで、地図で場所を確認してみると、「あれ、ここって秋葉神社に行く途中で、道路際の空き地に唐突に鳥居が立っていたのを見かけたけど、ひょっとしてあの場所のこと?」と思って行ってみると、やっぱりそうでした

かつては都田川の川べりの竹林に囲まれた中にあったらしいのですが、都田川の河川工事のために、現在の場所に移転されたそうです。

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<平八稲荷>
信号交差点の空き地のような場所に唐突にあるような感じになっていますが、かつては都田川の川べりの竹林に囲まれた中にあったとのことです。都田川の河川工事のために、現在の場所に移転されたそうですが、これから樹木が育ち、気のよい場所になっていくといいなと思います。

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<あれ?お社の前に石のようなものがくっついています>

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<近づいてみると・・・>

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<人面石でした>
おじいさんの顔に見えるところから、これが平八じいさんのお顔でしょうか?以前の場所にあった時に撮影された古い写真にも、祠の前に同じ人面石がありましたので、同じように移転されたようです。

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印 平八稲荷>

伝説によると、平八じいさんは狐で、川の氾濫の後、都田から姿を消したという話ですが、都田の鈴木家に平八じいさんが使用したといわれる茶碗や水がめが残されているようなので、それらしき人物がいたのでしょうか?

都田から姿を消した後、豊川市の西島稲荷へ来たということなのかな?ということで、西島稲荷の伝承を調べてみると・・・、

●この地方で最も古いといわれる西島稲荷(豊川市西島町)は、熱田大宮司家の一族である星野氏が、大和から西島に、宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)を田の神として勧請。

●慶長元年(1596年)には神宮寺も創建され、吉田城主の牧野成央が崇敬して社殿を造営し、熱田神宮から神官を迎え祭典が行われた。

●宝暦13年(1764年)に、賀茂神社の神官の竹尾茂朝が、西島稲荷の境内に水神を祀り、西川明神の神号を奉って安産の神とした。この神とは、豊橋市の賀茂神社境内にある貴船神社の高龗神(たかおかみ)のことである。

●西島稲荷には、「大和、豊島、平八」という三人の社守がいて、毎日太鼓をたたいて祈祷が行われ、毎日参拝者で賑わっていた。

●とても繁昌していた稲荷だったが、西島稲荷の社守をしていた鈴木平八郎が、妙厳寺境内にある稲荷社の社守として妙厳寺に迎えられてからは、いつとはなく寂れてしまった。

●この鈴木平八郎という人は、遠州引佐郡都田村(浜松市)の人で、信仰心に篤く、社交にもたけ、すぐれた才知のある傑物だった。浜松の都田の平八稲荷では、豊川妙厳寺の社守として働き、寺の繁栄に功労のあった人、神通力があった人などの伝説を伝えている。


・・・というような伝承が出てきました。

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<かつて最も繁昌していた西島稲荷>

創建についての詳細はよく分からないようですが、南北朝の頃(1336年頃からの約60年間くらい)ではないかという話です。平八じいさんが、妙厳寺へと移っていった様子を、「西島の平八稲荷が妙厳寺へ婿入りした」というそうで、安永四年刊の「三河刪補松(みかわさんぽのまつ)」という書物には、妙厳寺には平八という狐がいて、稲荷明神と崇めている。宝暦の頃(1751~1763年)、西島村の野狐が、豊川村の妙厳寺へ入婿になった夜は、西島より豊川村までの野道に、たいまつを数百灯したようになったと謳われた。それより妙厳寺の稲荷には参詣が途絶えず、賑々しく霊験あらたかなり・・・、と記されているようです。

余談になりますが、西島稲荷のすぐ近くに香月堂という焼き菓子製造工場があります。コンビニやスーパーで売られているバームクーヘンやマドレーヌで、ここの名前をみかけたことがある人もいるかと思います。

この工場は、数年前から、B級品のバームクーヘンやマドレーヌなどの焼き菓子を販売する「香月堂アウトレット」という店舗を始めたのですが、これが、まあ、大盛況で、開店前から長蛇の列ができるほど大賑わいしています さらに、駐車場が拡張されたり、待合用の小屋ができたりと、規模も拡大していて、なんと、観光バスやマイクロバスが立ち寄っている時もあるほどなんですね。通りがかるたびに「今日もすごい列ができてるわ~」と思うのですが、何だか、平八じいさんの神通力を彷彿とさせるような感じですよね 

日によって出てくるお菓子の種類はまちまちですが、レジ袋にいっぱいになるほど買っても1000円そこそこなので、「ここでバームクーヘン買っちゃうと、コンビニで買う気がなくなっちゃうよね」なんて話が出るほどかなりお値打ちです。ちなみにコブメロはスイートポテト味とバナナ味のバームクーヘンがお気に入りです

さて、平八じいさんが移っていったという豊川稲荷とは、円福山妙厳寺の境内に祀られた稲荷社のことです。妙厳寺は、曹洞宗に属する禅宗の寺院で、嘉吉元年(1441年)、今川氏の縁戚関係にある東海義易(とうかいぎえき)禅師の協力で、円福原(えんぷくがはら)と呼ばれたこの地域に、今川氏によって創建されました。

南北朝の動乱の後、遠江の今川氏が東三河一円を支配することになるという社会情勢からみると、妙厳寺の創建は、時の権力者である今川氏の南北対立の感情を緩和するための宗教的な政策であり、また、今川家が代々南朝に敵対して、南朝方を熾烈なまでに敗亡へ追い込んだつぐないとしての意味もあるらしいです。

北朝方の足利尊氏も、後醍醐天皇の怨霊供養のために、京都の嵯峨嵐山に天龍寺を創建し、足利義満は、南朝の残党が多く潜伏していた岡崎市額田町に天恩寺を創建しているように、各地で南朝を供養するため(残党の台頭を抑制する意味も含んでいる)の寺院が創建されたので、足利氏の家来筋であった今川氏もこれにならったものだと思います。

後醍醐天皇といえば、お稲荷さんとのこんな伝説をみつけました。

足利尊氏の誘いで京都に閉じ込められてしまった後醍醐天皇は、吉野に逃げるために密かに脱出した折に、伏見稲荷にお祈りをすると、暗闇の中に道筋を照らすあかい雲が現れ、天皇が河内の大内山に入ると、その雲は吉野山の上に消えてなくなった。これをいなり神の道開きという・・・。

いにしえより、神の御使いのことを「ミサキ(御先)」といい、これは先鋒とか、先導という意味になるそうです。田の神のミサキは狐、神武天皇を案内したヤタカラスはミサキ鳥で、猿も神の使いのミサキとして大切にしている神社がいくつかあります。

神の使いをミサキという・・・。狐塚から遥拝しているとされる場所は美佐々木(ミササギ)。ミサキと美佐々木って、似ているような気がするけど、何か意味があるのかな~?

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<豊川稲荷狐塚>
何百人という大人数の食事を、お釜一つでパッパッパッと作ってしまうという不思議な力の持ち主の平八じいさん。このお釜が妙厳寺に残っているそうです。ひょっとしたらと思って、先日行った時に拝殿の奥を覗き込んでみましたが、残念ながら釜っぽいものは見えなかったです。大切に保存されているのでしょう。

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印 西島稲荷と豊川稲荷>

さてさて、これらの三か所の稲荷を、平八じいさんの足跡をたどるかのように巡ってみるのも面白いかと思います。ちなみに、三か所巡った次の日、コブメロは100円拾いました  おや?背後よりみみっちいというドグオの声がするが、サプライズな体験には変わりはないのざぞ (なんか出口ワニさんみたいな神様言葉になっちゃった )

そんなこんなで、我が東三河エネ研では、これらの稲荷を「新三大稲荷」と勝手に認定させていただくのであります

ご清聴、誠にありがとうございました~


南朝リレーその2~皇女の足跡~

さて、前回チョロっと話が出ました柏木の浜と柏木神社。

たまたま同じ名前の神社になっただけじゃないの?なんて思ってしまうところですが、同じ名前や字が違っていても同じ発音になっている場合、何らかの関係があることが多いので、一度調べてみる必要があって、注意しないといけないのです

柏木の浜は、浜と名がつくように水辺なのですが、同じ名を持つ柏木神社というのは、柏木の浜から7~8キロも離れた山里にあるのです。海と山、これを見ても関係があるようには全く思えないのですが、ドグオが頭をかきむしりながら調べてみると、また新たなキーワードが出てきました

前回のブログなどで何回も紹介しておりますが、小坂井の柏木の浜は、菟足神社の祭神の菟上足尼命(うなかみすくねのみこと)が、暴風の末にこの浜に到着したという伝承があります。この吹き荒れる風から、菟足神社のお祭りは“風祭り”とも呼ばれていて、これが菟足神社に関する伝説の定説となっています。

ところが、地元で三河の南朝を研究されていた藤原石山(ふじわらせきざん)氏の書物によると、菟足神社や柏木の浜には南朝の軌跡が残され、風祭りのいわれが南朝の伝承にまつわるものではないかということが記されていました。

藤原石山氏の説をざっくりと説明してみます。(石山氏の説は色文字)

●篠束城の西郷弾正が、懽子内親王を蒲郡市西浦の無量寺から柏木の浜にお連れした。

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<篠束城の跡>
菟足神社のお隣が篠束地区で、畑の際に篠束城跡を説明する看板が立っています。西郷弾正(さいごうだんじょう)の「弾正」とは役職名のことです。

西郷氏というのは、肥前国高木郡西郷を出自とし、北朝に味方をしていた二木義長に従う武将で、二木氏が三河の守護職になった時に、守護代として三河にやってきたのが三河の西郷氏の始まりとされる。二木氏が南朝支持に代わるとそれに従い西郷氏も南朝方に付いた。豊橋の石巻へ移住した西郷氏の7代目の孫が篠束城主であったらしい。懽子内親王(かんしないしんのう)をお連れしたという西郷弾正が何代目の誰なのかはイマイチ不明です。

●平井の浜の宮を報恩寺境域に移された。報恩寺には和泉式部の供養塔がある。

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<報恩寺にある和泉式部供養塔>
平井の浜の宮というのは、おそらく柏木の浜のことを指しているのかな?懽子内親王の院名「宣政門院」から、宣(せん)は泉(せん)に通じ、懽子内親王=和泉式部とみることもできるという石山氏の説は、懽子内親王を和泉式部の伝説にかぶせてあるということなのか、もしくは、懽子内親王は泉様と呼ばれたという話から、彼女の伝承が和泉式部伝説になってしまったということなのでしょうか。

●小坂井町の五社稲荷は、五世紀頃の古墳で、菟上足尼命を葬った古墳とも伝わる。この五社稲荷の山の南麓には、年中湧き出す泉があり、泉様と崇敬した懽子内親王の祠を、稲荷の山に祀ったのが五所稲荷で、昔は御所稲荷とも云ったらしい。

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<五社稲荷に隣接する弁天。かつて水があっただろう形跡あり>
菟足神社と五社稲荷の間には、国道一号線が通っています。現在は、国道一号線で分断されるような地形になっていますが、かつて、五社稲荷と菟足神社一帯は地続きの丘陵地だったそうです。掘割にして一号線を通したため、湧水が出なくなったという話です。御所稲荷→五所稲荷→五社稲荷と変遷したってことのようですね。

●菟足神社の若宮社に古木の銀杏がある。銀杏は「公孫樹」ともいい、南朝の皇子、皇女にゆかりのある地(信州や尾張など)では公孫樹を御神木としている。懽子内親王も尼となって諸国をめぐられた折に、銀杏を蒔いて記念樹にしたと伝わる。

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<菟足神社の若宮社にある銀杏の古木。大きくて立派な木です>

●菟上足尼命を祀る神社ならば、「菟上神社」と書いて「うなかみじんじゃ」としてもいいところを、「菟足」と表現するのには、兎年生まれの懽子内親王を、菟上足尼命の御再現(垂迹)として、「菟垂さま→菟足さま」として尊崇、合祀したことに起因するのではないか。そして、南朝皇女の懽子内親王を菟上足尼命とし、「菟足さま」といってこの地方の人々は崇敬&信仰したのだが、南朝の敗北で南朝にまつわる伝説は史上から抹殺されることとなり、古代の菟上足尼命の伝説のみが伝わることとなったのだろう。

と、まあ、こんな内容のことが書かれているのです。

さて、次に、山里にある柏木神社に関係する、豊川大木の進雄神社と豊川長草の素盞嗚神社をみてみます。

豊川市大木進雄神社。この神社のすぐお隣の西原町松葉という地区が尼御所と呼ばれた地域だとのこと。尼御所については、三河国司の大江定基の女官が隠居した場所だという伝承もあるようですが、藤原石山氏は、宣政門院懽子内親王に関わる場所ではないかと説いています。

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<大木進雄神社。鳥居の向こうの森の中をしばらく歩くとその先に・・・>

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<神社の境内が広がります。この西側に柏木神社が鎮座しています。>


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<神社のすぐ近くにある金剛寺。写真はお薬師さんを祀るお堂>

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<お寺の階段のすぐ下には、きれいな水の湧く場所がありました。これも泉様に繋がる足跡でしょうか。飲んでいいのかどうかは不明です。>

そして、南朝リレーその1で紹介した、美佐々木の念仏塚古墳のすぐ近くにある豊川市長草の素盞嗚神社へ。

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<長草の素盞嗚神社>

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<長草の素盞嗚神社境内にある大きな大きなクスノキ。樹齢300年以上はあるようです。>

奥へと行ってみると、末社が並ぶ中に、柏木神社がありました。

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<末社 柏木神社>

で、いくつかある末社の中にこんな神社が・・・。

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<杢呂子神社と書かれた札は、はてさて、何て読めばいいのでしょうか?>

藤原石山氏の本の中には、長草の素盞嗚神社には「杏呂子神社」があると書かれていました。

藤原石山氏によると、南朝は、後醍醐天皇の後、正副二系統の天皇の流れがあるとしています。北朝からの執拗な討伐の目を欺き、南朝の本当の流れを根絶やしにされないために、2系統に分けたのではないかと思いますが、この正副が入り乱れ、各地に南朝の皇子や皇女らが散らばっていたために(後醍醐天皇は超子だくさん)、南朝の実態が訳わかんない状態になっているのかもと想像します。

で、正統の天皇を守るために身代わりになったのが懽子内親王で、杏呂子神社の「杏(きょ)」は「虚」を意味し、「呂」は繋がるという意味から、身代わりを祀る神社であると説いているのですが、ちょいと意味不明で理解に苦しい感じもあるような・・・ 南朝にゆかりの地には銀杏が御神木にされていることや懽子内親王が銀杏を各地に蒔いたという伝承があることなどが、「杏呂子神社」の「杏」にかかるってことなのかなぁ?

ん?でも、実際に神社の札に書かれている字は、「杢呂子神社」になっていて、「杏呂子神社」ではないんですね。似てるけどちょっと字が違う。あれ?どういうことでしょう?

「神社を中心としたる宝飯郡史」という本によると、長草の素盞嗚神社の末社は、「杢呂子神社」と記録されていて、神社の札に書かれたものと同じでした。今のところの調べの中では、「杏呂子神社」と表記された物は見つかりませんでした。

「ほんじゃあ、“杢呂子”ってどういう意味がるのだろう?」ということで、ドグオがまたまた頭をかきむしりながら調べてみると、漢字をそのまま読むと「モク・ロ・シ」と読めることから、ここから転じて、「ムクロジ」という植物のことではないか?ということがみえてきました。

では、どんな物なのかというと・・・、

「無患子(ムクロジ)」は、中部地方以西に分布し、高さ約10mに達するムクロジ科の落葉高木。果実の皮は漢方に使われたり、サポニンを多く含み泡立つので石鹸にしたり、泡が消えにくいため液体の消火器にも使われている。種子は固いので、中国では唐の時代から数珠の玉に使われ、日本では羽子板の羽根の玉に使われる。庭園や神社に広く植栽される。

名は、ムクロジ科の別植物の「モクゲンジ」の中国名・木欒子を、誤ってムクロジにあてたため、「木欒子」の日本語読みモクロシからムクロジになったという。また、昔、神巫がこの木で作った棒で鬼を殺したので、鬼を追い払い、患いを無くすということから、無患子という。

1661年に生け花の参考書として刊行された「替花伝秘書(かわりはなでんひしょ)」では、戦さから帰陣の折にいける花に、楠(くす)と添え物に「むくろ木(ムクロジ)」をあげている。


・・・と、植物と名前の由来や読み方について、こんな説明がされていました。

ちょっとややこしい感じもありますが、「木欒子」の読みがモクロシとなり、そこからムクロジになったという点から考えてみると、「杢呂子」は、素直にそのまま「モクロシ」と読むことができるので、結果、「杢呂子」はムクロジのことを表しているのではないかと推理できるのです。そして、1661年の生け花の参考書にあるように、クスノキの添え物として、ムクロジを活けるという作法があるらしいこともみえてきました。

どういう意味で、クスノキとムクロジをセットにして花を活けるのかが分かりませんが、長草の素盞嗚神社をこんな視点から眺めてみると、クスノキと一緒にムクロジがセットされていることが、何らかの暗号になっているようにも思えてきます。

クスノキといえば、南朝の忠臣・楠木正成を代表とする一族を暗示させる木です。南朝の伝承のある地域では、クスノキが植えられていることが多く見られます。

戦さから帰還の折にクスノキと一緒に添えられるというムクロジは何を表しているのでしょうか?

ムクロジを、「むくろ=骸」と見てみると、「杢呂子神社」の「杢呂子」は誰かの亡骸を表していて、その亡骸こそが、長慶天皇の身代わりになって自害された懽子内親王ではないかと。そして、クスノキは南朝に忠誠を誓う忠臣を象徴するものとして、皇女を守るかのようにクスノキが植えられたのではないかと推理するのであります。

一連の話を表にしてみると、こんな感じです。

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三つの神社、小坂井の柏木の浜、長草、大木の柏木神社の三つの神社をつなぐキーワードは、懽子内親王の伝承とみることができるように思います。

石山氏の調査によると、南朝には正と副の流れがあって、正統の天皇を守るために、副の方の天皇が世間で認められた天皇として仕立てられていたということです。で、本当の本当の正統の南朝の天皇側は、秘密の大本営に隠されていて、実は表だった情報としては出ていないとのこと。

北朝は南朝を根絶やしにする目的で、激しい討伐をしていたそうなので、南朝側も必死で各地を転々とし、潜伏していたようなのです。

で、その副の側にいたのが、後醍醐天皇の皇女・懽子内親王で、北朝から狙われ危ない状態であった正統の流れである長慶天皇をお守りするために、長慶天皇が亡くなったかのように見せかける目的で、自らを犠牲にし自害したということなのです。

柏木の浜に上陸されたという懽子内親王。柏木の浜といえば、菟足神社の風祭りなんですが、実はこのお祭りのもう一つの解釈として、副の皇女、兎年生まれの懽子内親王を悼み、副から吹く、吹くといえば風に転じ、風祭りになったとみることもできると石山氏は書いています。

しかし、南北朝時代よりも前に書かれたとされる宇治拾遺物語には、大江定基が、「菟足神社の風祭でイノシシがいけにえになるのをみてうんざりした」ということが書かれていて、ここの中で「風祭」と記されていますので、「副→吹く風」というのは、風祭りになぞらえて付会したものでしょうか?

ところが、「風祭」の記述がみられるとされる宇治拾遺物語や今昔物語の成立年代は、宇治拾遺物語が1213年~1221年頃、今昔物語が平安末期頃というのが定説になっていますが、もう少し時代が下がるのではないかという話もあるようです。

懽子内親王が亡くなったのが1362年とされています。宇治拾遺物語の成立年代からは100年ほど経過していますが、宇治拾遺というのは読んで字のごとく、拾い集めた物語集なので、後から入れ込んだということも考えられるかもしれません。一方、今昔物語は、編纂から世に出るまでの間(1120年代~1449年)、300年間ほど死蔵状態だったといわれ、また、物事が明らかになった時に随時加筆できる形の文章になっているようです。

昔の書物というのは、写本を重ねて伝えられてきています。風祭という記述が、原本に記されていてなおかつ年代も特定できる形になっていればいいのですが、その点が不明なので、石山氏の説をこじつけ話と言い切ってしまうこともできないなとも思うのですが・・・。


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さて、新たな疑問が出てきました。

大木進雄神社の西側にあるという柏木神社ですが、「flow Trip -archive-」というブログによると、祭神は「蛭子(えびす)神」と書かれています。山の中の神社に蛭子神?山里で水死体があがったことがあるってこと?なんて疑問がわきますが、「蛭子=水死体」の意味もあるので、まあ、これも亡骸ともとれるのかな?なんて思います。

でも、蛭子の状態の亡骸と考えると、柏木の浜に着いた懽子内親王ってどうなっていたの?という疑問も膨らみ、ますます訳の分からない謎かけの世界にはまっていく気分です

西宮えびすなどの蛭子神を祀る神社では、柏の神紋が多く使われています。ここから蛭子と柏木神社の柏が関係してくることが分かります。南朝の御所であったといわれる王田殿から大恩寺に移築したとされる阿弥陀堂(平成6年火事により焼失 )の天井には、菊紋と一緒に三つ柏紋が描かれています。この柏紋と柏木神社との繋がりや柏木の浜にも柏の木が三本植えられているといった、新たな謎が浮上してきました。

何かを隠すための巧妙かつ緻密な仕掛け。それを関係者、そして、後世に伝え、南朝の復活のその時のための、壮大な暗号、もしくは、呪詛、魔法陣でも施してあるのだろうか???なんて、妄想が膨らんでしまうのでありますが、あまりにも分からなさ過ぎて、結果的に隠した骨を忘れるワンコのような状態になっているような気もする・・・

ということで、次は王田殿の痕跡を追ってみたいと思います


菟足神社・風祭り

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もうすく菟足神社の風祭りです。今年は4月7日(土)、8日(日)です。花火は土曜日の夜7時から行われます。境内では手筒花火、神社の前の空き地で仕掛け花火があります。至近距離から見る仕掛け花火と仕掛け花火のやぐらの真後ろから打ち上げられる“裏打ち”といわれる打ち上げ花火はド迫力☆春先の花冷えといわれるような時期ですが、花火見物、お祭り見物にお出かけしてみてくださいな

東三河は、徳川幕府から火薬の取り扱いを許可されていた地域でした。家康は、幕府に敵対できないように、武器の取り締まりや、武力に繋がりそうなことを排除するように細心の注意を払っていました。「入り鉄砲、出女」といわれるように、関所では武器を厳しく監視し、武士には刀を抜くことも、剣術の練習さえもご法度にしていました。ある大名は、ちょっとだけ剣術をしようとしただけなのに、幕府から謹慎を言い渡されたという話があるそうです。

これほどまでに、諸大名の武力に対してピリピリしていた家康が、どうして東三河の武士のみならず、一般庶民にまで火薬を扱うことを許可したのでしょうか?火薬は、日本国内では産出できないもので、輸入に頼る貴重で高価な物でした。また、東三河は武士から農民までもが、火薬の他にも弓の弦を張った状態で所持することを許されていました。東三河だけが、いつでも戦争OKの、戦闘準備態勢バリバリな感じですよね 何のためにこんなことをさせたのか、家康は何を想定していたのかが興味をそそるところです

そんなこんなの歴史もあって、この地域は祭りと言えば必ず花火というほど、花火が当たり前で、ホントに花火が好きな人が多いです。風祭りの仕掛け花火も、「寄付を集めるのが大変だから今年が最後かも・・・」という話はコブメロが子供の頃から耳にしていたのですが、いまだに仕掛け花火をやっているという・・・ あ~あ、なんだかんだ言って、やっぱ花火はやめられないのね~(^_^;)

そんなコブメロも、従姉妹の家が菟足神社のすぐ近くなこともあり、お祭りの日は従姉妹の家に入り浸り。神社の屋台に花火を買いに行っては、爆竹をバンバン出しまくって、遊び呆けてました。楽しかったにゃ~

おっと、花火好きのバカのしょーもない思い出話はさておき、今回は、菟足神社に関係する場所を紹介してみたいと思います。

式内の古社である菟足神社。祭神は、「菟上足尼命(うなかみすくねのみこと)」です。菟上足尼は、孝元天皇の後裔の葛城襲津彦命(かつらぎそつひこのみこと)四世の孫で、足尼(すくね)は宿禰(すくね)で、古代の姓の一つ、天皇の近臣の敬称です。竹内宿禰の後裔とも云われ、「国造本記」には穂国造りとあります。

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<菟足神社の巨大な兎>

菟足神社のある小坂井町のお隣の平井町に柏木の浜といわれる場所があります。ここは菟足神社の祭神の旧蹟と伝えられていて、菟上足尼命は暴風の末、なんとか無事にこの浜に到着されました。しばらく平井に滞在されていた菟上足尼命は、その後、菟足神社へと移って行ったといわれています。


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<柏の木が三本あります。柏は新芽が出るまで枯れた葉を落とすことなくつけたままでいることから、家が代々続いていく縁起物にされています>

柏木の浜から西へ300メートルほど行った所に、善福寺というお寺があります。

善福寺の伝えによると、平井郷柏木の浜に着かれた菟上足尼命に、平井の郷人が善福寺境内の田園を捧げて宮を造った。その宮の園内にて、蹴鞠の儀が催された時、梅の木に蹴鞠が当たって、梅の実がすべて地に落ちてしまった。菟上足尼命が薨去した後は、この梅の木には梅の実がならなくなった。この梅は“ならずの梅”と呼ばれ現存していると以前書かれた本にはありましたが、イマイチどこにあるのかが分からなかったです。今もあるのかな?

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<善福寺にある菟上足尼命のご休憩跡>

善福寺から西へ100メートルほどの信号交差点の角に、平井の八幡さまがあります。ここに菟上足尼命が祀られていて、その後、菟足神社へと移って行かれたのです。

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<平井八幡社>

お祭りでは、日曜日の午後から、平井から菟足神社へ神様をお連れする神事があります。これが、平井の人が来ないと祭りが始まらないといわれる所以でしょうか。「ほこ様」と呼ばれる神様を地面から持ち上げないように、地面を引きずるようにして、お運びするのです。高さが3メートルくらい?ありそうな竹の竿の先に三角形の飾りと剣のようなものがついていますが、これがほこ様で、これを真っ直ぐに立てた状態で、引きずってお運びするのです。倒してしまうと、また最初の位置からやり直しということで、倒れやしないかとハラハラしますが、これが一度も倒したことがないという話で・・・。ホントかなぁ?

また、ほこ様と一緒に、若い衆が大きなしめ縄を平井から菟足神社まで担いでいきます。この大きなしめ縄は、大きさといい、形といい、なんだか中に人が包まれているような雰囲気もあるんです。お祭りの朝に最初に橋を渡った娘をいけにえにするという、いけにえ伝説から、その娘さんが中にす巻きにされているのだろうか・・・?なぁんて、幼き頃はアホな妄想をしておりました(^_^;)

おしめと呼ばれるこの大きなしめ縄は、菟足神社の一の鳥居にかけられます。このしめ縄をくぐると一年健康でいられるという話を聞いたことがあります。以前は、しばらくすると外されてしまったと思いますので、上手いことくぐってみてくださいな。


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<菟足神社一の鳥居。宿や小坂井地区の大きくて立派な山車も鳥居の所にいて、これもまた見事です>

今年はいまだに寒いせいか、桜の見ごろは4月7日あたりだとかいう話も。桜の花がお祭りをまた演出してくれそうです(*^_^*)

さて、お祭りがらみで、菟足神社関連をご紹介しましたが、実は、ここにも南朝に関わる謎が隠れているようです。前回の南朝リレーその1で紹介した美佐々木のすぐ近くにある、尼御所と呼ばれたという地域のすぐ近くに柏木神社という名の神社があるのです。また、後醍醐天皇の皇女で、長慶天皇の身代わりとなられたという、兎年生まれの灌子内親王が平井にある柏木の浜に上陸されたという伝承もあり、なんだかこれらと関連がありそうな気配がしています。

ということで、この話は次回に・・・

南朝リレーその1~三河吉野朝~

ずいぶん前の話になりますが、パーソナルパワーラインなる個人のお宅から見た「夏至の日の出」、「冬至の日没」のマイパワースポット探しをしていた時のことです。

何人かのパーソナルパワーラインを調べたのですが、その中でも豊川市の御油に住んでいるFさんのパーソナルパワーラインが、「夏至の日の出は本宮山、鳳来寺山」、「冬至の日没は蒲郡の竹島」となっていて、凄いパワーがありそうな場所が出てきていいな~♪なんて思っていたのです。

そして、Fさんチからの東西南北方面には何があるのかも調べてみると、北方向に足助八幡宮、東方向に砥鹿神社旧社地、浜松市引佐の奥山半僧坊・方広寺が出てきて、「これもまた凄いところが出たな~」と。

「ここって何かあるの?何でだろう?」と考えていたら、そのあたり一帯は大木さんが所有する場所だという話を耳にしました。

大木さんといえば、大木氏という氏族がかつて東三河に大きな勢力をもっていて、砥鹿神社のある一宮町に大木という地名が今も残っている。砥鹿神社の祭神に大木食神(おおきくいのかみ)が祀られていて、考安天皇の御代に大木食命(おおきくいのみこと)が豊橋市の石巻山に三河四宮石巻神社を勧請し、大木氏が代々神職をしている・・。この時出たのはこれくらいの情報でした。

そして、先日、徳川家康が世良田次郎三郎だったのではないかという話を調べていた時に、世良田というのは、新田義貞の新田家から分かれた家であるという話から、そういえば、岡崎の糟目犬頭神社には、新田義貞の首塚があるという話を思い出しました(過去記事:二つの犬頭神社)。

糟目犬頭神社の首塚のいわれは・・・、足利尊氏に討たれた新田義貞は、京都で首を晒されていた。これに怒った岡崎の上和田城主・宇都宮泰藤は京都に潜入し新田義貞の首を取り返してきて、その首を犬頭神社に葬ったということのようですが、この首を葬ったことを隠すために、犬の首をはねたという伝説にして隠したらしいのです。

さて、足利尊氏と新田義貞というのは、足利尊氏は北朝方の武将、新田義貞は南朝方の武将ということで激しく敵対していたわけです。宇都宮泰藤も新田と共に南朝に仕える武将で、仲間の首が晒しモノになっていることが許せなかったのでしょう。

「ん?ここで南朝の話が出てくるか?そういえば、足助八幡宮って南朝の家臣の足助次郎が祀られているし」ということで、ちょいと南朝の伝承探りをしてみることになったのです。

いや、でも、南北朝の話や南朝の話は、ややこしさ満載なのでどこまで探れるのかなぁ?といった感じですが、どうやら東三河や遠州地方は南朝方に仕えていた形跡なので、地元に残る古文書(というより古本かな?)を頼りに、まずは超近場から探索開始してみました。

まず、Fさんの地域には何があるのかを探ってみると、南朝の遺跡である塚があることが分かりました。

この塚は、「御坊塚(ごぼうつか)」という名で、南朝の親王である、松良親王(まつながしんのう)の陵墓であるという伝承のようでした。

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<御坊塚全景>

で、何と、さらにその塚の隣には、三浦家先祖代々の供養塚もありました。三浦さんというのは、昭和において、南朝の正統の末裔であると主張された三浦芳聖氏のことです。三浦天皇とも称し、戦後の自称天皇の一人です。三浦家に伝わる独自の串呂哲学なども関係してくるので、三浦天皇の説明については、けっこう面倒くさいのでまたの機会にします。ただ、パーソナルパワーラインを引っ張ってみるきっかけは、この串呂哲学を真似ッコしてみたところからの発想だったりして・・・(^_^;)


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<松良親王の墓と思われる塚>


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<三浦家先祖代々供養塔>


この塚を中心にして、ナンチャッテ串呂をしてみると、真北が足助次郎重範を祀る足助八幡宮になりますが、足助次郎重範というのは、南朝の後醍醐天皇に味方し、笠置山で幕府の大軍と戦い奮戦したけど、落城後に捕えられ、京都六条河原で処刑されたという南朝方の忠臣でした。南朝の忠臣であった足助次郎が祀られている神社が、御坊塚の真北に来るとは、偶然なのか、意図的に配置されたのかが気になってきます。

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<足助八幡宮>

次に、塚から真南に線を引いていくと、御津神社と大恩寺があります。御津神社と大恩寺を調べてみると、ここも南朝とゆかりの深い場所でした。

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<御津神社>

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<御津神社の舟形の石組み ここに雄の龍神が祀られている>

南朝を支持した御津神社の神宮寺だったのが大恩寺で、この大恩寺の阿弥陀堂は、豊川市小田渕にあったといわれる「王田殿」の建物を移築したものだそうです。

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<子供の頃、大恩寺をライオン寺と言っていた馬鹿なコブメロ

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<大恩寺の本堂から見た山門>

この「王田殿」というのは、三河吉野朝の御所の名であったようです。この王田殿のあった場所は、昭和の初期の頃は「王田天神跡」という場所で残されていたようですが、現在では、道路拡張などによって全く分かりません。ただ、該当しそうなそれらしき場所には天神という地名が残っています。

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さらに南へ行くと、豊橋市杉山に長慶寺というお寺があり、第98代南朝・長慶天皇ゆかりの寺だという伝承があります。

さて、今度は真東へと目を向けてみると、一宮町大木に大木氏ゆかりと思われる大木神社が、そして、その少し先に砥鹿神社の旧社地があります。

東三河に大きな勢力をもっていたという大木氏と南朝が何か関係があるのか?

南朝に味方をしていた高井主善という武将が、引佐にいる南朝を守る最後の砦として、石巻山に城を築き、最終防衛線として必死で守っていました。ところが、北朝方の勢いが強く、城は落城。高井主善は自刃しましたが、その正妻と側室は密かに逃げのびました。南朝に味方していた高井主善の側室が、石巻神社の宮司の大木氏の娘で、この戦乱の中、敵方に見つからないように身籠っていた娘を必死で隠し、無事に出産させたようです。この子供はその後、石巻神社の宮司になったという話で、大木氏と南朝の繋がりがここにありました。

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<大木神社 右手には本宮山が望める良いロケーション。しかし神社の表示も何もない状態で由緒のある神社なのに寂しい限りの感じです>

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<砥鹿神社旧社地に近い津守神社>

そして、さらに真東へ行くと、浜松市引佐奥山の方広寺に繋がりますが、この方広寺は、引佐の井伊谷宮に祀られている後醍醐天皇の第四皇子の宗良親王の弟の満良親王が開かれたお寺です。

あら~、またも御坊塚から南朝に深いゆかりのある場所に繋がってしまいました

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<方広寺山門>

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<奥山半僧坊といえば天狗です>

さて次に、真西へと行きたいところなんですが、宮路山、五井山が真西ラインを通過するかなといった感じと、真西ラインからはちょっとズレる地点に、三浦天皇が子供の頃に預けられたお寺や、その後住職をしたお寺があり、この場所も南朝と関わりがあると思われます。この辺りは今後調べてみます。

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図にしてみるとこんな感じです。

図を見てみると、豊川稲荷が書いてありますが、この豊川稲荷も南朝とゆかりのある場所らしいとのこと。

豊川稲荷の奥の院に「狐塚」というお狐さんがたくさんいらっしゃる所があります。静かな森の中の奥にある狐塚。最近、狐塚の岩山に硬貨をねじ込んでいる風景をよく見かけますが、実はある場所を遥拝するための場所だったのではないかということなんです。

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狐塚から真北に、豊川市長草町美佐々木という所があります。ここのお隣は、旧一宮町大木(豊川市大木町)という場所です。

この美佐々木に念仏塚一号古墳があるのですが、かつてはこのあたり一帯は古墳が八基ほどもあったそうです。東名高速道路の工事などで古墳はなくなってしまい、今は小さな念仏塚が残されているだけになっています。

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<ここからは大変珍しいといわれる力士の埴輪が出土したそうです。桜ケ丘ミュージアムに収蔵されています>

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<念仏塚全景>

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<念仏塚の上>

この塚は、昔から南朝の皇子、皇女の供養塚といわれてきたようですが、地元の古老の話によると、美佐々木のいわれについては一切口外してはならぬという、村中の申し合わせがあり、それが故にか、今では何も伝説が残っていないという・・・(あちゃ~、何ちゅーこっちゃ)。

豊川町にある進雄神社(豊川稲荷のすぐ近く)に満良親王が祀られていることから、この塚は無文元選禅師(満良親王・方広寺開基)の御陵墓だと説く方もいますが、この美佐々木の近くに尼御所と伝わる場所があって、そこは後醍醐天皇の皇女の懽子内親王(かんしないしんのう)が密かに住まわれた場所であるとのことから、ひょっとしたら美佐々木の念仏塚は懽子内親王に関係するのかもしれません。*懽子内親王の読み方は諸説ありますが、ここでは“かんし”とさせていただきました。

陵~みささぎ~美佐々木。北朝による激しい南朝討伐から南朝の天皇を守るために、自らを犠牲にし、長慶天皇の身代わりになって自害されたと伝わる懽子内親王。そんな皇女を偲び、美しいという文字を当て、「身を捧ぐ~美佐々木」という地名を彼女に捧げたのか?なんて想像もめぐります。

念仏塚の近くには、「みささぎの滝」といわれる清水の湧く滝があったそうです。工場開発でその姿は失われてしまいましたが、懽子内親王の伝説は、泉式部伝説や泉や滝ある場所に残されているような気もします。

懽子内親王は院名を「宣政門院」と称すことから、宣(せん)は泉(せん)に通じ、懽子内親王=泉式部とみることもできるという説があって、三河玉川宮と呼ばれた場所の近くや豊川市三上の緑野神社、蒜生神社、小坂井町報恩寺などに泉式部の伝説があり、同時にこれらの場所にも、懽子内親王の足跡が見え隠れしています。

泉とか滝などに祀られる女神「瀬織津姫」を追っかけて取材した場所と、今回の三河吉野朝伝説の場所がなぜかリンクしてくるのも、興味深く不思議な感じがします。

古墳や塚、陵墓があった場所が、豊川稲荷の狐塚の真北に位置しているのは、偶然でしょうか?また、図を見ても分かりますが、この美佐々木は御油の御坊塚の真東になっています。偶然には思えないけど、これも偶然なのかな?

三河吉野朝(三河の南朝の歴史)については、日本の正式な歴史としては認められておりません。今回のこの話は、地元の言い伝えや古文書の類を手掛かりに、私たちなりにまとめてみたものです

南北朝の歴史は、とにかくややこしくて、分かりにくくて、歴史ファンでも手を出しにくいといわれるものです。かの司馬遼太郎も、南北朝を題材にした作家は命を取られるみたいなことを書いていました。おそらく調べるにつれて、言い難いこと及び言ってはいけないことが出てきて、結局それが言えないがために、難解な歴史になっているのではないかと思います

でも、この地方にまつわる南朝伝説は、大変面白そうなので、今後も近所をウロチョロしてみたいと思います

御油といえば、かつて5年ほど住んでいたことがある場所で、松並木沿いには友達の家もあったり、今は無くなってしまったローソンで楽しくバイトしていたりと(過去記事その1その2)、懐かしく感じます。今回久しぶりに訪れた御油は、住宅が増えたり道路が整備されたり、松並木も歩きやすいように整備されていたりと、その頃と景色が変わってしまった部分もありましたが、また南朝の伝承を訪ねて出没する予定です

奥山半僧坊のおまけ記事を別ブログに紹介しましたのでご覧くださいませ☆

水神社の案内看板

車で何気に、下地の旧東海道を走っていたら、水神社を案内する看板が出ていてビックリした

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少し前にこの道を通った時にはなかったような・・・???

まだ新しそうな看板のようで、最近水神社を訪ねてくる人が多いんだろうななんて思った次第です。地元の方が作ってくれたんですね、きっと

確かに、水神社はちょっとわかりにくい場所にあるし、ヤフー地図にも記されてなかったので、私たちも最初、場所を探すのに、この近辺をウロウロしてしまったなぁなんて思い出します。北風が吹きすさぶ中、寒かったな~

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看板は、地図ののあたりです


過去記事はこちらです。
「瀬織津姫(セオリツヒメ)と水神社」
「水神社スピンオフと地震の話」




龍の神社へ初詣

2012年が明けてはや3週間が過ぎてしまいました。遅ればせながらですが(^_^;)、新年明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願い申し上げます

さて、今年は辰年ですね。辰=龍ということで、愛知県岡崎市の岡崎城内にある「龍城神社(たつきじんじゃ)」へお参りに行ってきました。

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岡崎城のすぐお隣にある龍城神社は、東照宮の一つで、徳川家康・本多忠勝・天神地祇・護国英霊が祭神として祀られています。

1455年、岡崎城を築城した際に龍神が現れ、城の井戸から水を噴出させながら天に昇って行ったという龍の井があります。この井戸は徳川家康が誕生した日の朝にも金龍が昇天し、吉兆の事あるごとに龍神が現れたといわれているそうです。

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すぐお隣の岡崎城の入り口には、こんな看板も。

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名古屋城の「おもてなし武将隊」は有名ですが、岡崎城にも「葵武将隊」なるものがいるようです
*武将隊の写真が、ぶしょったい(三河弁)です。すんません(^_^;)

さてさて、徳川家康といえば、この岡崎城で生まれたということで、岡崎公園内に「初湯の井戸」があります。徳川家康の先祖の出身地といわれる豊田市の「松平郷」にも徳川家康が誕生の折りに「初湯につかう水をくんだ井戸」なるものがありました。

「徳川家康=岡崎、三河の武将」というのが定説になっていますが、前回のブログでもちょっと触れましたが、徳川家康と松平元康が戦ったという話があり、実は、この二人は全くの別人で、どこかの時代に入れ替わっているのでないかというそんな裏話的なものを見つけました。

なぜ私たちがこんな裏話に興味をそそられたかというと、パワースポット巡りと称し、あちこちの神社仏閣などを巡っていると、徳川家康に関する妙な逸話が残っている場所に何箇所か遭遇したからです。

●静岡県袋井市の可睡斎にある「徳川家康が敵に追われて、寺の機転で隠れて助かった岩穴」。
●静岡県の菊川には、敵に追われた家康が、恐怖のあまりにオナラをしてしまい(切な屁というらしい)、そこから名づけられた「へっぴり坂」というのがある。
●浜松市には「負けて逃げる途中に、あまりに腹が減ったために茶屋で餅を食べていたら敵に追いつかれて、慌てて逃げたために餅代を払わず無銭飲食し、餅屋のばあさんに追いかけられて代金を払った」という場所がある。
●三方ヶ原の戦いで、武田信玄に敗れた徳川家康は、脱糞しながら、まくれて浜松城に逃げ帰った(これは定説ですが)。
●岡崎市の山中八幡宮に、三河一向一揆で徳川家康が敗れて逃げ隠れた「鳩ヶ窟(はとがくつ)」という洞窟がある。

これらの話を耳にする度に、「この人は静岡でやたらと敵に追われているけど、何で?何をしとったの?」とか岡崎の山中八幡にも隠れた穴があるのを見て、「ここでも追われて隠れたのって何で?」と引っかかりを感じていたのです

定説にある武田に敗れた話は史実だと思いますが、それ以外の各地に残る逸話は、あまりに情けないというか、弱いというか・・・

三河の一向一揆というのは、家康が三河に地盤を築いている最中のことなので、命からがらというのは何となく納得はいきますが、遠州地方に残る「追われて逃げ隠れた」という逸話は、ちょっと変な気がするのです。家康が浜松城を拠点として遠州を支配し始めている時なので、そんなに追われるようなことがあるのだろうかという疑問が湧いてきます。

もっと分かりやすく言うと、この当時の遠州地方は今川家が滅んで、支配者がいない状態、空き家状態なのに、なんでそんなピンチを何度もしなければいけないのか?

三方ヶ原の敗戦の逸話が形を変えて各地に伝わったというのは、ちょっと苦しい気がするし。

一番情けないと思うのが、餅を無銭飲食してしまったことですが、これは三河と遠州を支配するれっきとした大名がするようなことかなぁ???まるで志村けんのバカ殿のコントのようです

トロイの木馬にもあるように、シュリーマンがトロイア戦争の伝説をそのまま信じて、発掘できたように、伝説となっている話というのは、必ず元になっている話があると思っています。「火のない所に煙は立たず」という感じで、徳川家康の逸話にも何かあるのではないかと、何となく疑問に思っていたのです。

八切止夫(やぎりとめお)という名古屋生まれの小説家がいます。1987年に死去されていますが、「八切史観」といわれる独自の史観にもとづく(ちょっとトンデモ本?)歴史小説などを発表された方です。「上杉謙信女人説」が最近では知られているのではないでしょうか。

八切氏は「徳川家康は二人だった」という小説を出されていますが、この話の元となったのが、明治35年に発刊された、村岡素一郎著の「史疑徳川家康」という本です。

この本は、当時華族会の会長をしていた徳川家から猛反発をくらい、発行禁止となってしまいました。明治の歴史学会からも封じ込められてしまいました。

それから数十年後、この話を元にして、八切氏が独自の歴史検証を行い、発表したわけです。

さて、家康二人説とは。

まず大河ドラマでみるような、正史とされる徳川家康は、元の名前が「松平元康」であり、後に改名して「徳川家康」となりました。家康は岡崎城に生まれ、三河の小さな国主ゆえに、駿府の今川家に人質に出されますが、この途中、田原の戸田氏にさらわれ、尾張の織田家へ人質として渡されます。そして、今川と織田が三河の安祥(安城)で戦った際に、人質交換として、今川家の人質になりました。この幼名・竹千代が成人して、松平元康になり、今川義元の死後、岡崎城を取り戻し、やがて徳川家康となります。

これが皆さんがよく知る徳川家康ですが、次にもう一つの徳川家康です。

駿府に世良田二郎三郎(せらたじろうさぶろう)という人物がいました。この人物は上州の新田郡得川郷(現・群馬県太田市徳川町)を出自とする者ですが、この人物こそが後の徳川家康となる人物だそうです。

この世良田二郎三郎は、武士でも農民でもなく、山賊のようなことをやっていたのか、もしくはささら者と呼ばれる階級に属していたのか、何をやっていたのかは得体が知れない男でした。

世良田二郎三郎は、駿府の今川義元が上洛するにあたって、松平元康の子供、竹千代(信康)を誘拐しました。松平元康は今川軍の先陣を努めているので、討ち死にする確率が高く、もしそうなった時に三河の跡継ぎが手中にあれば、三河を乗っ取れるのではないかと世良田二郎三郎は企てたからです。

しかし、有名な桶狭間の合戦で今川義元が亡くなると、今川家は勢力を失いますが、織田も三河を攻めるわけでもなかったので、中途半端な状態に置かれた三河を手に入れようと、また世良田二郎三郎は画策し、まずは浜松城を落とし手に入れました。

今川家から誘拐された竹千代は世良田二郎三郎の手元にありましたが、この人質の竹千代を織田に渡して、松平元康を織田の仲間に入れようと画策した世良田二郎三郎は、途中、田原の戸田氏と計らって、竹千代を織田に渡しました。竹千代(信康)は、信長の元で人質生活を送ることになりました(信長に可愛がられていたようです)。しかし、松平元康は織田方につくことを拒んでいました。

そして、矢作川上流から松平元康に攻め込んだ世良田二郎三郎でしたが、烏合の衆ばかりの世良田勢は、松平勢に負けて降参。しかし、この時、世良田次郎三郎は抜け目なく立ち回り、山中城(山中八幡の近く)を落として、そこの城主におさまり、うまいこと松平元康の同盟者となってしまいました。
*世良田二郎三郎が松平元康を攻めている頃、豊川市三上でも両者が戦い、負けた世良田二郎三郎が権現山に隠れたという話が残っているのではないかと推察します。

やがて、世良田二郎三郎は、松平元康に協力して手柄を立て、その勢いに乗った松平元康は、織田信長の人質になっている、長男・竹千代(信康)を奪還しようと考え、尾張の森山へ兵を進めました。

しかし、そこで家臣に松平元康は討たれ、殺害される。これが世にいう「森山くずれ」です。(正史でいう森山くずれというのは、この時より26年前の天文4年のことで、討たれたのは、元康の祖父の松平清康となっています)。

主君を失い困った家臣は、多くの手柄を立てている世良田からの「俺を身代わりに仕立てよ」という申し出に、これが一番安全な策だと賛成。この時に、松平元康と世良田二郎三郎が入れ替わったということです。

まんまと入れ替わった世良田二郎三郎は、そのまま織田信長と交渉し(信長も気付かなかった)、竹千代(信康)を取り返し、そのまま竹千代の後見人におさまってしまいました。

この後は、三河を乗っ取った世良田二郎三郎が、後々の徳川家康になるのです。自分の出自の地、上州新田郡得川郷から徳川に改名し、得川郷には葵が多く自生することから葵の御紋となったとさ。ちなみに松平家の御紋は桐紋だったそうです。

旧宝飯郡小坂井町には伊奈城がありますが、ここが葵の御紋の発祥の地だということを小さい頃から聞かされていました。校歌にもあったし。しかし、かの徳川家の御紋の発祥の地だという割には、さほど話題にならないのはなぜ?という疑問が常にあったのですが、こーゆー話があったんだったら、何となく納得するわいってな感じです。

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*伊奈城の看板。

この話ばかりでなく、徳川家康の出身地とされる三河の地域が、天下を平定した後、まったく優遇されていないのは何でだろう?とも思っていました。出生の地である岡崎が御三家の一つになってもおかしくないのに、岡崎をおさめていたのは家来の水野家とか本多家とはどういうことでしょ?石高も低いし

明治維新になり、15代将軍の徳川慶喜は、明治政府から「祖先の生まれた地、駿府にお帰りなさい」と言われ、駿府に移住し余生を送ったということです。あれ~?徳川の祖である家康が生まれた地は、岡崎じゃなかったっけ???「祖先の生まれた地、岡崎か豊田松平郷にお帰りなさい」とは言われなかったのね?これも変な話ですねぇ(^_^;)

とまあ、色々と何ともややこしい話で、まだまだトンデモナイ話は尽きませんが(^_^;)、とりあえず今まで述べてきた話から言うと、三河の松平元康の長男の竹千代(信康)は、世良田二郎三郎(徳川家康)の子供ではないというのが分かると思います

正史によると、武田に密通したという罪により織田信長から長男・信康と妻・築山殿を自害させよとの命令を徳川家康は受け入れます。そして、徳川家康の長男とされる松平信康は、遠州の二俣にある二俣城で自害させられましたが、この方のお墓は、江戸時代ずっと荒れたままになっていたという話を聞きました。自分の本当の嫡男ならば、その後、徳川信康という名を与えて丁重に祀るとかできただろうに、この方は松平信康とか岡崎信康という名のままです。信康の母、築山殿も家康の正妻になるのですが、いとも簡単に殺してるし。自分の子供じゃないし、自分の奥さんじゃないし、おそらく入れ替わりの事実も知られているだろうから、本当は家康自身が殺したのだろう。

で、最初に出てきた遠州などに残る逸話に戻りますが、これは世良田二郎三郎が、駿府や遠州などで一獲千金の悪だくみをしていた時の話だとしたら、ああいった情けない話はあると思います。

そして、世良田二郎三郎が竹千代を誘拐した時に、等禅坊という僧侶の助けを借りました。その後、世良田二郎三郎が家康となって天下平定した後、等禅坊はこの時の手柄で、遠州に立派なお寺を立ててもらった、これが可睡斎だそうな。

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*可睡斎にある家康が隠れたとされる“出世六字の穴”

おそらく山中八幡の鳩ヶ窟の話も、世良田二郎三郎が山中城を攻略する時に関係する逸話じゃないかと思う次第です。

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*山中八幡の鳩ヶ窟

ささら者の世良田二郎三郎が立身出世のために色々やったことが、その後徳川家康の伝説となったのですが、情けない話が多いのも、のし上がるために必死だった証しだと言えるのではないでしょうか。

事実、上州の新田郡徳川郷(群馬県太田市)には、徳川家光が建てたという世良田東照宮もあるんですよ。大正時代に起きた世良田事件にもこの話が関係してくるようです。

今回は初詣に龍にちなんだ神社で岡崎城に行ったことから、とんでもない方向に話が飛んでしまいました。タイトルと中身がだいぶ違っちゃいました

八切氏の話は読んでいると脳みそがシェイクされるような衝撃を受け、話を整理するのがとても大変なのですが、今回は家康の二人説についてピックアップしてみました。

独自の切り口を持つ八切史観は、日本の歴史的な身分制度を紐解くことや、日本民族の成り立ちや分類などを調べてみると、意外なモノが見えてくるようです。

単なるトンデモ話で楽しんでいただければ幸いですが、でも、実はかなりディープな問題をはらんでおります。そのことについては私たちは門外漢ですので、あしからずです。

邪気、マイナスエネルギーについての考察

先日、10数年振りに大風邪を引いてしまったコブメロです

焼けつくように猛烈に痛む喉と熱に三日ほど寝込んでおりました。おまけにかかりつけの病院が、たまたま慰安旅行のため二日間もお休みということで( ̄▽ ̄;) 、なすすべもなく?ひたすら寝ておりました(>_<)

熱といってもそんなに高熱があるわけでもなく、単なる風邪だと思いつつも、あまりの喉の痛さと脈打つほどの頭痛や全身の脱力感に、もうこのまま元気になれないのではないか、いやひょっとしたら以前かかった急性蓄膿症の再発ではないかとなどという、情けなさや不穏さに気分はドヨヨ~ン

が、しかし、この苦しさの別な所では、身体の芯にずっと滞留していたような、蓄積されていた疲れというか、毒素というか、そんなモノが溶けだしていくような、妙なさっぱり感も感じておりました。腰や背中の奥が軋みながらもどんどん軽くなっていくような感じです

そんな妙な感覚の中、なんでこんな風邪を引いたのかな?と寝ながらアレコレ考えてみたのですが・・・。

そういえば、最近は友人T氏から教えてもらった邪気抜きの技を頻繁に使っていたなぁと。ずいぶん前に教えてもらった時には、まあ、あまり真剣に使ってなかったのですが、最近は手ごたえがいいような気がして多用していました。そのせいで、邪気をかぶってしまったのか?

それとも、盆休みにT氏の所へ遊びに行った時に、首から思いっきり邪気を抜いてもらい、その後、喉の皮膚がガサガサにめくれていました。「喉や首に溜まっていた邪気が更に溶けだして、皮膚から放出されているのか?」なんて思っていましたが、その影響なのかしら?

風邪引きは邪気のせいなのか?

邪気やマイナスエネルギーといわれるものは、捉え方や考え方は人さまざまなので、う~ん、どうなんでしょうね

では、邪気・マイナスエネルギーについての考え方にどんなものがあるかを、ちょっと書いてみます。

まずは、私どもの友人のT氏。

彼は邪気抜きが得意です。密教法具になぞらえた手印を使い、不調の箇所に溜まった邪気をグングン抜き取っていくというやり方です。邪気抜きの経験を重ねている彼には、邪気というものがかなり実体化しているようで、臭いがするとか抜けていく手ごたえが手に伝わるといった感覚があるようです。その挙句、待合室のエアコンのフィルターに邪気が染みついて臭いが取れなくて困っているとか、なぜか奥さんまでもがカレーライスのにおいに耐えきれなくて(カレーって邪気のにおいに似てるのか?)、ここ数年カレーが食べれなくなってしまったとか言っておりました。ここまで邪気にリアリティが出ているのは凄いけど、カレーが食べれなくなるのは残念ですね。T氏の奥さんはメニューも豊富でお料理上手だから、食卓からカレーの一つが消えても大勢に影響はないと思うけど、メニューが貧困なコブメロの場合、そんなことになっちゃったら大問題ですわ( ̄▽ ̄;) 

カレーの話はさておき、リアリティがあったがために人に不快感を与えてしまった人もいます。

T氏と似たような邪気抜きをされる治療家。治療中に手で「ペッペッ」と自分の身体を祓うかのような仕草をしました。たまたまその患者さんが勘のいい人で「私が何か飛ばしましたか?」と聞くと、「いや、邪気が飛んできたから」と言ったそうです。それを聞いた患者さんは、汚そうに祓った仕草にプライドを傷つけられ、その人からの治療を二度と受けたくないと思うようになってしまいました。邪気をリアルに捉えるのはいいのですが、汚いとか臭いとか、顔をそむけるといった行為を相手の前で表現することが問題なのではないでしょうか(逆にこういう表現の方が効果があったと思える人もおりますが・・・)。

そして、こんな変わった邪気の処理法もあるようです。

身体の不調な場所に気を送り、そこから邪気を抜くというやり方なのですが、その出てきた邪気を紙袋に入れ、邪気が漏れないように、紙袋の口をキュッと塞ぎ、急いでトイレに駆け込み、邪気をトイレの水に流すという・・・。一部始終を見ていた友達は唖然としたそうです

以上の話は邪気をリアルに捉えている人のお話でしたが、邪気を実体化させない考え方もあって、現代レイキ協会の土井氏は本の中で邪気についてこのように述べています。

邪気といわれる現象は、エネルギーの流れの滞りのことである。流れの滞った場所に不調や不調和が起きる。清らかな水が流れる川に、ゴミなどが詰まりその流れが滞ると、川の水はやがて濁った汚い水となってしまう。流れも止まってしまう。しかし、その流れをせき止めているゴミを取り去れば、また川は流れを取り戻し、やがて元の清らかな水の流れる川へと姿を取り戻していく。流れを止めている部分にレイキを送り、流れが良くなれば、おのずと邪気は消える、調和が戻ってくる・・・。

土井氏は、邪気をかぶるとかもらうとか考えるのではなく、邪気はエネルギーが停滞している状態とみています。エネルギーが円滑に循環している状態であれば、心身ともに健全であるので、邪気がくっついただの、もらっただのなどという考えは起こらないかもね、なんて思います。

クラニオセイクラルという技術の中に「エネルギー弾道」という技術がありますが、これは身体の組織が必要とするエネルギーがそこに集まるという考え方です。これも、土井氏の話やレイキでいう必要な所へエネルギーが自然と流れるという話に繋がるかなと思いますね。

「ライトボディの活性化」というエネルギー瞑想では、エネルギーが円滑に循環している状態とは、感情のエネルギーが、喜怒哀楽すべてにおいて執着を持たず、自然な形で坦々と循環している状態だと説明しています。

「相手にヒーリングを行った後に自分が体調を崩すのは、相手の邪気やマイナスエネルギーを受けてしまったのではないか?」という疑問について、相手のマイナスエネルギーを受けたのではない。自分のエネルギーコンディションが落ちていた、疲れていたために、相手がエネルギーを受け取ることが出来なかった。そのためエネルギーが無駄になった、行き場をなくしたと教えています。

行き場をなくしたエネルギーによって、自分の感情が不安定になったり、風邪をひいたり、体調を崩したりという結果になることがある。自分のエネルギーが自分に帰ってきて、自分のエネルギーに自分がやられる・・・、自家中毒を起こしてしまったようなものでしょうか 

また、相手の問題や感情に引きずられる=共鳴してしまった場合にも同じようなことが起きるということです。できるだけ相手のエネルギー(対象物・物事)を客観的に中立に観察するようにと指導しています。

そういえば、エネルギーをやり始めたばかりの人が遠隔ヒーリングとか遠隔でエネルギーを送ることに夢中になっていた頃の話です。

その人が仲間と二人で、ある問題を抱えて悩んでいる女性に、「そういう状態にはヒーリングが効果があるから遠隔でやってあげる」と申し出たのです。ところが、悩んでいる女性は「遠隔ヒーリングはやってもらいたくない、いやだ」と断ったそうです。しかし、この二人は「やるといいから」と強引に遠隔を行ってしまいました。すると、遠隔ヒーリングを終えた後、自宅のリビングにあるガラステーブルにビシッとヒビが入っていた。またもう一人の人は、車のフロントガラスにビシッとヒビが入ったと・・・。この二人曰く「遠隔した相手が念を送り返してきたからこんな凄いことが起きた」とのことでしたが、相手の人が遠隔を嫌がっていたということで考えてみれば、単に、自分たちのエネルギーが行き場をなくして戻ってきただけじゃないの?とも思えるのですが・・・。

エネルギーワークやヒーリングを行う際には、客観的で、中立で、坦々と自然にエネルギーが流れるコンディションを作っておくことや相手との信頼関係が重要なようですね。

そして、もう一つ。脱カルマという話があります。

山手国弘氏の脱カルマ説によると、カルマは自分の脳内にある毒であり(脳毒)、それは時々溶けだしてくる。その量は人間を数万回殺すことができるものであり、その溶けだしたカルマにより、病気になったり、不調が起きたり、問題が起きたりすると。カルマの溶けだす分量はその時々の状況で違ってくるが、カルマが身体の中心線に大量に溶けだすと命にかかわる病気が引き起こされる。カルマの溶けだすきかっけはプラズマである。プラズマが発生する理由は様々であるが、感情の喜怒哀楽でも起きるし、滝行で水に打たれたり、水浴びやシャワーなどでも発生するという。溶けだしたカルマの解消、放出には睡眠が重要な役割を持つが、大人になるにつれて睡眠だけでは解消されにくくなる。その分、意図的にカルマを解消、放出することが必要になる・・・云々。

山手さんは、現代ヨガの会を主宰していましたが、残念ながら10数年ほど前にお亡くなりになりました。瞑想を一日20時間もやっていた人で、クンダリーニが上がって尻が焦げたとか瞑想中に意識を広げたら低気圧に穴があき、それは気象衛星ひまわりで観測されていたとか・・・、面白い逸話の持ち主です。私たちは実際にお会いしたことはありませんが、道場に通っていたT氏は、「巨大なモノリスのような人だ」と言っておりました。

脱カルマ説については、山手さんのとある一日の講演録の中で語られています。CD13枚にも及ぶ内容で、とてもとても簡単には紹介できるものではありませんが、宇宙の始まりから、有機生命体としての人間の進化、脳の進化、カルマなど、すっごく面白い話がいっぱいです。

山手さんが語るCDにも相当なエネルギーがあって、T氏の奥さんは2階でT氏がCDを回すと「あっ、山手さんのCD回したな」とすぐに感じるそうです。

しかし、山手さんの話を実生活に取り入れると、社会通念と噛みあわないことがあったりして(常識がぶち壊れるみたいな)、社会生活がやりにくくなるというジレンマも起きてくるので、その辺の折り合いが難しいところですかねぇ^^; 

この山手さんの話は邪気の話に似てはいますが、山手さん風のカルマ論ですので、参考程度にお読みくださいな。

さてさて、風邪をきっかけに、邪気やマイナスエネルギーについてこんなことを考えてみた次第ですが、喉の痛みも取れてきたと思ったら、今度は猛烈な咳で夜も眠れず・・・(*_*)

そこで、自分の症状に照らし合わせながら、野口晴哉の「風邪の効用」を読み直してみました。簡単に言うと、風邪は身体の毒素をリセットするためにはちょうどいいということですが、経過の仕方が重要であるということでした。熱があるうちは逆に動いてもいいが、熱が下がると一旦平熱より下がる時期があるから、その時は安静にすること。さもなくば風邪を上手に経過させることができなくなるということです。

咳は胸郭を緩める行為ではあるけど、私の場合、経過が下手くそで咳が長引いてしまったのかなぁ?やっぱ胸椎1番がくっついているのがいかんのかな?薬は出来るだけ少なくしたのになぁ・・・、ブツブツ( )`ε´( )

身体の毒を排出するための行為が風邪だとしたら、そうそう、面白い感覚がありました。寝ていたら、右足の足首に、突然ズキンと何かで突かれたような痛みが来て、それが固い石のような塊のような感じになって、かなりの痛みを伴いながら足の薬指の先端に向けて移動していくのを感じました。「イテテテテ・・・」と思っていたら、指先からスコンと抜けていきました。尿管結石が尿道を移動して抜けていく時の感覚ってこんな感じなのかな?と想像してみたりして(^_^;) 山手さんによると、カルマは手や足の先端から抜けるといいますので、溶けだしたカルマの毒出しだったのかも?なんて思いました。

邪気、マイナスエネルギーについて、あれこれ書いてみましたが、じゃあ、お前たちはどういう立場をとるんだってことになりますが。

邪気をT氏の言うように、実体化したものとして扱ってみると、確かに邪気を抜くと痛みが楽になったり、固い筋肉がゆるんだりと手ごたえは感じました。この世界も有りなんだなと思います。

一方で、邪気のことを意識せずにエネルギーを使ってきました。治療で使うことによって、相手の邪気が飛んできたり、邪気に被ばくするといったことは感じませんでした。なので、これも有りだと思います。

邪気ありきで治療をした方がやりやすい時もあるけど、あまりにもリアリティのある邪気を取り出してしまった時に、処理が困るのかな?なんて思います。放射性廃棄物の「最終処分場」ではないけれど。

以前、T氏は抜き出した邪気を、地球のマントルに捨てていました。ところが、瞑想の指導が終わった時、師匠から「地球にかなりゴミを捨てただろ?」と、瞑想中にその様子を見抜かれてしまったそうです。「地球はゴミ捨て場じゃないんだから、やめなさい」と注意されたのですが、その後、捨て場をどうしたのかは不明です。こっそり不法投棄してるのか?

今度聞いてみよう(*^_^*)





*CommentList

「石山寺~佐久奈度神社~日吉大社」 近江めぐり・その2

佐久奈度神社を出発して、もう一度石山寺方面へと戻り、そこから大津市内を経由して、坂本へと向かいます

7年くらい前にも、坂本を散策しに訪れたことがあったので、何となく景色を覚えていて、道に迷うことなく到着。良かった~(^^)

大津市坂本という町は、琵琶湖の南端の西側、比叡山の東側の麓に位置しています。天台宗総本山比叡山延暦寺や日吉大社の門前町として古くから栄え、比叡山の隠居した僧侶が住む里坊が日吉大社参道の両側に並んでいます。安土桃山時代には、明智光秀により坂本城が築城されましたが、本能寺の変の後、城主となった浅井長政が大津城を築城すると、坂本城は廃城となってしまったとのこと。

穴太積み(あのうつみ)と呼ばれるこの地域特有の石垣の町並みや清らかな水の流れるとても風情豊かな所です。天台宗を開いた最澄生誕の生源寺やロープウェイで比叡山に登れるなど見どころもたくさんありますよ

さて、駐車場に車を止め、日吉大社へと向かいます。

山王権現日吉大社は、日本全国にある日吉、日枝、山王神社の総本宮で、東本宮に大山咋命(オオヤマクイノミコト)、西本宮に大己貴神(大国主神)が祀られています。

創祀は崇神天皇7年、およそ2100年前とされる。古事記に「大山咋神、此の神は近淡海国の日枝の山に坐し」とあり、これが東本宮の大山咋命のことですね。で、ここに記されている日枝の山(ひえのやま)というのが比叡山のことなのですが、日吉大社が、元は日枝大社といわれていたのは、ここからきていたんですね。

スサノウノミコトの御子の大年神(オオドシ神)と天知迦流水姫神(アマチカルミズヒメ神)の御子が大山咋神です。

そして、天智天皇7年(668年)、大津京の鎮護のため、大神神社の神、大己貴神を勧請し、こちらを西本宮にお祀りしたということのようです。それ以降、元々の神である東本宮の大山咋神よりも、西本宮の大己貴神の方が上位とされ、「大宮」と呼ばれるようになったとか・・・。

日吉大社は、平安京の表鬼門(東北)に位置することから、都の鬼門除、災難除のお社として崇敬されてきていて、代表的なご神徳は、方位除け、厄除けとなっています。また、猿を神のお使いとしていて、“神猿(まさる)”さんという神の使いの猿がいらっしゃいます。「まさる=魔が去る=勝る」として、魔除けの象徴となっています。境内地で2匹の猿が飼育されて、可愛かったですよ~(*^_^*)

豊臣秀吉は、幼名を「日吉丸」、あだ名が「猿」ということで、日吉大社を特別な神社としていたらしく、織田信長の比叡山の焼打ちで焼けてしまった日吉大社の復興に尽力したという話です。

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↑こちらが神猿さん。西本宮にいらっしゃいます。


日吉大社には21社ものお社があるそうで、よく分からないままに、東本宮から西本宮へと歩いてみました。


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↑東本宮。この背後は山です。


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↑中七社。新物忌神社。天知迦流水姫神(アマチカルミズヒメ神)。


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↑井戸がありました。キレイな水です。


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↑涼しげな水音の聞こえる境内。ここは水の美しい場所なんだなぁって思う・・・。湧水は飲んでいいのかよく分からなかったので、二葉葵に水をかけてきました。が、後で調べてみたら飲めるようでした(^_^;)


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↑悪王子社と書かれた石碑。「悪王子って何?」と思って調べてみたら、悪王子とは、スサノウノミコトの荒魂で、「悪」というのは「強力」という意味だそうです。


東本宮を出て、歩いて行くと、途中、「三宮遥拝所」「牛尾宮遥拝所」と書かれたお社がありました。二つの宮の間には上の方へと続く階段のような坂道が・・・。遥拝所ということは、この上にメインの宮があるってことなんですが、さすがに早朝からブラついている身体では、ちょっと登る気力が出ずに、簡単に断念。

後ほど調べてみると、八王子山という378メートルの山を登ると、磐座の金厳岩、三宮、牛尾宮の社殿があるそうですが、これが結構きつい坂道なんだそうです。「登らなくてよかった~」と思う反面、「磐座があるなんて、行ってみたかった~」と複雑な心境。

たくさんのお社をみながら、西本宮に到着。先ほどの写真の神猿さんはここにいらっしゃいますよ。

西本宮を出ると、こんな石がありました。

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↑大威徳明王が宿る霊石。すぐ側を川が流れているので、周りは涼しく感じるのですが、なぜかこの石の周辺は、産毛がモヤモヤとするような、クモの糸がまとわりつくような、暖かいような感じがありました。


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↑牛頭天王(スサノウ)が宿る霊石。ここもモヤモヤした感じがありましたが、大威徳明王の石の方が分かりやすかったような気がします。


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↑三角形になった山王鳥居。


我々は、東本宮から入ってしまったので、順路が逆になってしまいました(-_-;) この鳥居の所が正面になりますので、ここから散策した方が順当な順路になると思います。

さて、一通り散策を終え、一路帰路へとつきました。はぁ~、くたびれた~

んで、恒例の「帰って来てからの旅のおさらい」をやってみると、何とまあ、とりこぼしの多かったことを発見し、超残念な思いに・・・(>_<)

日吉大社の摂社の唐崎神社(そういや道中に看板があったっけ)、日吉大社のすぐお隣にあった日吉東照宮、先ほども出た八王子山などなど、「行けてない所がこんなにあったんかい~( ̄▽ ̄;)」ってな感じですが、日帰りじゃ限界もあるし、予定していた三井寺にも行けなかったし、またリベンジかけるべしっ!フンガ~(il`・ω・´;)


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さて、おさらいとして、こんなラインを引いてみました。

さすがに歴史の宝庫な場所なだけあって、よく知っているところがライン上に並んできますね。まあ、一部超ローカルな場所が入ってますが・・・(^_^;)

大神神社から大己貴命を勧請したということで、日吉大社と大神神社が南北ラインで並んでいます。そして、そのライン上には、物部氏にゆかりの石上神社、大海人皇子(天武天皇)が身を隠し挙兵したという吉野、そして玉置神社が並んできます。ついでに大神神社を起点に東を見てみると、伊勢の斎宮、答志島、神島となっています。

瀬織津姫が祀られている佐久奈度神社の南には奈良の長谷寺、北には石山寺。瀬織津姫の別の姿といわれる十一面観音のいる長谷寺がこんな風に並んでくるとは、意図的にそうなっているのかどうかに興味をそそられる所ですね。

日吉大社の西側には比叡山がありますが、比叡山の南北ラインを見てみると、南に東大寺、北に福井県小浜市にある神宮寺となります。

東大寺といえば、二月堂でお水取りという行事が行われますが、東大寺のお水取りで使われる水は、小浜市の神宮寺から10日間かけて、東大寺の若狭井という井戸に届くとされています。神宮寺と東大寺の間には不思議な地下水路で繋がっているとの伝説もあるとか・・・。神宮寺から東大寺へ水を送る行事は「お水送り」と言われ、東大寺のお水取りに先がけて行われるのです。

そして、日吉大社から東へと目を向けてみると、これがまたとってもローカルですんませんって感ですが、徳川家康の一族の出身地、愛知県豊田市にある「松平郷」、不思議な十一面観音が秘仏となっている愛知県新城市の田峯観音、鬼の舞や湯ばやしといった神事で民俗学的にちょっとミステリアスだといわれるお祭り、“花祭り”で知られる愛知県東栄町にある槻神社(祭神・瀬織津姫)があるのです。

松平郷、田峯、槻神社はたまたまそんな風に並んだだけかなとも思えますが、日吉大社と日光東照宮は30度のラインで並んでしまいました。どうして30度のラインで並ぶのか?

徳川家康の呪術的ブレーンといわれる天海僧正は、明智光秀の一族と関係しているのではないかと噂のある人という視点で考えてみると、明智光秀の居城があった坂本にある日吉大社(比叡山)からのパワーを得るために、意図的にパワーラインを作ったのではないかと思えてきます。

30度のラインというのは、夏至の時の日出の角度(北東に約30度)、冬至の時の日没の角度(南西に約30度)ですが、そう、日吉大社と日光東照宮は、夏至の日出の位置に日光東照宮、冬至の日没の位置に日吉大社というレイラインの配置になり、
“一年で一番太陽のパワーの強い日出=活力”
“一年で一番太陽のパワーの弱い日没=再生の力”
というパワーラインが作られているってことになるんですね。

もうちょっと簡単に言うと、日吉大社から見ると夏至の日出が日光東照宮の方向で、日光東照宮から見ると冬至の日没が日吉大社からってことになります。どうよって感じですね

以前読んだ本には、富士山から北東に30度の位置に江戸城があって、江戸城から北極星の方向に日光東照宮があるって説明してありましたが、これだと若干方位がズレてくるし、そんなややこしいことをやらなくても、日吉大社から北東に30度のラインを引けば、モロ日光東照宮でした。

しかし、徳川家康という人は・・・。何を企んでいたのか・・・(^_^;)?

徳川家康といえば、ちょっと不思議な話を聞きました。

豊橋市と豊川市の隣接するあたりに権現山という丘があるのですが・・・。

この地域に伝わる伝説とやらに、「豊川の下流の三上という所に、浜松から徳川家康が攻めてきて、それを岡崎から来た松平元康が迎え撃った。戦いに負けた徳川家康は浜松に逃げ帰るが、一時立てこもった丘を現在、権現山という・・・。」こんな話があるのです。

松平元康とは、徳川家康が「家康」に改名する前の名前です。ってことは、この話だと本人同士が戦ったということになります。どーゆーこと

徳川家康は、どこかで人が入れ替わっているという説があるそうで、なんだか謎の多そうな人ですね。

ちなみに、今NHKで放送中の大河ドラマ「江」の旦那さんの徳川秀忠の生母は、西郷の方と呼ばれたそうですが、豊橋市石巻西郷あたりの出身だそうです。

さてさて、こんな感じの近江巡りでしたが、家に帰って来てからも、何だか身体が熱くて、石山寺の暑さがまだ続いているような感じでした。次の日の午前中まで、身体の火照りは続いておりましたが、この熱感は、百間滝に初めて行った時の熱さに似ているかな?といった感じで、ひょっとしたら石山寺の硅灰石にマジで岩盤浴のような効果があるのか?!それともあの場所一帯に何かあるのか?!なんて考えてしまふ。

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友人と共に、ちまたにある様々なエネルギー、療法、ヒーリングなどを実践することをきっかけに出来上がったのが「東三河エネルギー研鑽会」です。

エネルギー研鑽を整体にも応用しながら施術をする日々を送りつつ、その一方で神社仏閣やパワースポット、地元の古代史などを通じ、記紀神話を超えた謎を模索&探索中。

参考までに、東三河とは、愛知県の東部にある豊橋市を中心とした地域で、古い時代には穂の国と呼ばれていました。

私たちは、その豊橋で1996年より整体をやっています。

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整体の日常やスピリチュアルな体験を元に、リアリティある経験談を報告しますので、どうぞ楽しんでいって下さいね(^^)

ちなみに私どもには、特別な霊能力や超能力があるわけではなく、エネルギー療法を誰にでもできる技術として研鑽しています。宗教活動や物販もしておりませんので、整体へは安心&お気軽にお越しくださいネ!


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