2012.04/29 [Sun]
天皇賞・春 終わった。そして山田寺仏頭のお話
いやはや、予想外しました
なんと1着が1枠1番のビートブラックでした。大本命のオルフェーヴルはまったく見せ場なしで、下から数えたほうが早いくらいの大惨敗でしたね
我々が予想したジャガーメイルは、4着でした。惜しかったな~(―”―;)、といっても馬券は買ってないので・・・
ブログ読んで買っちゃった人(たぶんいないと思うけど)、ごめんなさいです
さて、勝ったビートブラックには、何かサインが出ていたのでしょうか?
つい最近サイン競馬情報を交換することになった方がいて、この方の影響で、今回十年ぶりくらいにサイン読みをやってみたのですが、ビートブラックは我々のサイン読みには全然引っかかってきませんでした。
この方は、今回の天皇賞のサインについて、「小沢の判決が関係ありそうだ」と数日前から言っていました。小沢が無罪になったことを、白→1枠(白色の枠)と見て、その枠にいるのがビートブラック。限りなく黒に近いのに無罪(白)ということでしょうか。そういえば、小沢って一郎って名前だから、イチロウで1枠1番だったのか?お金に汚い大物政治家が馬券に絡んできたってことかなぁ?今回は、大本命が飛んで万馬券になっているので、小沢関係で資金稼ぎをした人がいるのかなぁ?ブツブツ・・・
かつての自民党政権下では、選挙が近くなると、競馬は鉄板で固まるという話もありましたが、現政権下においては、このセオリーは通用しないのかな?最近の競馬は情が無くなってしまったという話もあるので、サイン読みの世界も変化しているのでしょうか・・・
ということで、我々のサイン予想も大いに、大外しをしてしまいました(^_^;) まあ、サイン競馬とはこんなものでもあって、ハマる時には実にお見事ですが、外した時にはしょーもないくらいグダグダです
「はぁ~、しかし、予想が見事にぶっ飛んじゃったなぁ~」と話していたら、「ぶっ飛んだ→ぶっ飛び→仏頭」という連鎖が頭の中で駆け巡り、なぜか奈良の興福寺にある「山田寺の仏頭」のことを思い出してしまいました。もの凄くくだらないシャレで・・・、すみません(^_^;)
では、「山田寺の仏頭」のお話に入っていきます


奈良の飛鳥に山田寺というお寺があります。かつてこのお寺の本尊だった仏像が、12世紀の終わりに、興福寺の三代目の本尊として祀られました。しかし、応永18年(1411年)の火災によって、仏像の胴体は焼失してしまい、首から上の頭だけが残されました。残った頭は、新しく作られた本尊の台座の下に収納されたため、長い年月その存在が忘れられた状態になっていましたが、昭和12年(1937年)の東金堂解体修理により発見されたということです。現在は興福寺の国宝館に展示されていますので、阿修羅像を見に行った時に見かけたことがあるのではないかと思います。

<ウィキペディアより>
先日、奈良の興福寺で阿修羅像を見てきたという方が、「最近の阿修羅像は、今風のカッコいいライティングがされていて、オシャレになっていた」と言われていたので、私たちも、「阿修羅もいいけど、山田寺の仏頭もなかなかいいんだよね」なんて話をしたのです。
ちょっと前にこんな話をしていたせいもあって、ぶっ飛びから仏頭へ繋がった次第ですが、興福寺に収蔵されている山田寺の仏頭には、実は、因縁話が潜んでいるということなんですね。先ほど簡単に説明したものが一般に言われている内容ですが、では、どんな因縁話があるのでしょうか。
山田寺は、7世紀半ば頃、蘇我入鹿の従兄弟にあたる、蘇我倉山田石川麻呂(そがのくらやまだのいしかわのまろ)の邸宅のそばに作られた寺院で、石川麻呂の自害後に完成しました。現在は山田寺跡となっており、往時の姿はなくなっていますが、かつては大きな伽藍や塔を持つ、荘厳な寺院だったようです。
やがて、興福寺の末寺となり、藤原氏の私有物となってしまいました。文治3年(1187年)、興福寺の僧兵が山田寺に押し込み、無断で本尊の丈六三尊像を持ち去りました。そして、この持ち去られた仏像が興福寺の本尊となり、その後の興福寺の火事により胴体を焼失し、仏頭だけが残りました。
山田寺創建の発願者の石川麻呂は、蘇我入鹿の従兄弟にあたりますが、大化の改新・乙巳の変(いっしのへん)で、自身も蘇我一族でありながら、蘇我を裏切り、蘇我入鹿の暗殺に加担した・・・、ということを歴史で習った記憶があるかと思います。
入鹿暗殺を目論んでいた中大兄皇子と中臣鎌足は、蘇我宗家の内部の亀裂を利用する目的で、蘇我氏傍系の石川麻呂を引きずり込んだということです。その結束として、石川麻呂の次女の遠智娘(おちのいらつめ)が中大兄皇子の元に嫁ぎました。この娘が持統天皇や大田皇女(おおたのひめみこ)の生母です。

石川麻呂は、蘇我氏宗家を裏切った褒美として、大化改新政府から右大臣を与えられました。ところが、わずか4年後、異母弟の蘇我日向に、「中大兄皇子を暗殺し、謀反を起こそうとしている」と密告され、妻子らとともに、造営中の山田寺で自害。しかし、この事件は、どうも中大兄皇子や中臣鎌足の陰謀だったようです。
石川麻呂が自害した後、二田塩(ふたつたのしお)という人物が、すでに冷たくなっていた石川麻呂の首を切り、肉を切り裂いた。そして、遠智娘は、夫である中大兄皇子に父を殺されたことを悲しみ、無残な仕打ちをした二田塩の「塩」の名を恨み、発狂して亡くなったといわれています。
発狂して死ぬなんて、よほどのことあったのではないかと思ってしまいますが、そうなんです、この「塩」の名を恨み発狂したという話は、人物の「塩」を言っているのではなく、石川麻呂の首を塩漬けの「スシ」状態にしたことを言っているのではないかということが、関裕二氏の「蘇我氏の正体」に書かれていました。
生首を塩漬けにするというのは、百済の方の風習で、それを知っていた中臣鎌足が、中大兄皇子に入れ知恵をし、石川麻呂の首を塩漬けにして戦利品として持ちかえらせたのではないかと。そして、それを見せられた娘の遠智娘は、父の「塩」まみれの変わり果てた姿に恐怖し、発狂したのではないか・・・
その後、山田寺は、孫にあたる鸕野讚良皇女(うののさららのひめみこ・後の持統天皇)や天武天皇の援助によって造営され、天武14年(685年)3月25日、本尊の丈六仏(丈六三尊像・現在の仏頭)の開眼が行われました。これはちょうど石川麻呂の三十七回忌にあたるので、非業の死を遂げた石川麻呂の追善だったのではないかということです。
「塩漬けのスシ」にされた石川麻呂の生首と、火災にあって仏頭だけが残り、何百年も忘れられたまま塩漬けにされ、現代に蘇ったということが、なにやら因縁めいた話に思えてきます。
サイン競馬大外しの反省話から、仏頭の話になりましたが、前回のサイン競馬の話に中にも、持統天皇が出てきていて、そして、また、この話も持統天皇と繋っておるのでありまする。
サイン競馬の記事は、ハズした時のいい訳が大変なのだ
なぁんて言いつつも、さあ、次のサイン競馬はダービーかな?と、懲りもせず口走るエネ研なのでした
なんと1着が1枠1番のビートブラックでした。大本命のオルフェーヴルはまったく見せ場なしで、下から数えたほうが早いくらいの大惨敗でしたね
我々が予想したジャガーメイルは、4着でした。惜しかったな~(―”―;)、といっても馬券は買ってないので・・・
ブログ読んで買っちゃった人(たぶんいないと思うけど)、ごめんなさいです
さて、勝ったビートブラックには、何かサインが出ていたのでしょうか?
つい最近サイン競馬情報を交換することになった方がいて、この方の影響で、今回十年ぶりくらいにサイン読みをやってみたのですが、ビートブラックは我々のサイン読みには全然引っかかってきませんでした。
この方は、今回の天皇賞のサインについて、「小沢の判決が関係ありそうだ」と数日前から言っていました。小沢が無罪になったことを、白→1枠(白色の枠)と見て、その枠にいるのがビートブラック。限りなく黒に近いのに無罪(白)ということでしょうか。そういえば、小沢って一郎って名前だから、イチロウで1枠1番だったのか?お金に汚い大物政治家が馬券に絡んできたってことかなぁ?今回は、大本命が飛んで万馬券になっているので、小沢関係で資金稼ぎをした人がいるのかなぁ?ブツブツ・・・

かつての自民党政権下では、選挙が近くなると、競馬は鉄板で固まるという話もありましたが、現政権下においては、このセオリーは通用しないのかな?最近の競馬は情が無くなってしまったという話もあるので、サイン読みの世界も変化しているのでしょうか・・・

ということで、我々のサイン予想も大いに、大外しをしてしまいました(^_^;) まあ、サイン競馬とはこんなものでもあって、ハマる時には実にお見事ですが、外した時にはしょーもないくらいグダグダです

「はぁ~、しかし、予想が見事にぶっ飛んじゃったなぁ~」と話していたら、「ぶっ飛んだ→ぶっ飛び→仏頭」という連鎖が頭の中で駆け巡り、なぜか奈良の興福寺にある「山田寺の仏頭」のことを思い出してしまいました。もの凄くくだらないシャレで・・・、すみません(^_^;)
では、「山田寺の仏頭」のお話に入っていきます



奈良の飛鳥に山田寺というお寺があります。かつてこのお寺の本尊だった仏像が、12世紀の終わりに、興福寺の三代目の本尊として祀られました。しかし、応永18年(1411年)の火災によって、仏像の胴体は焼失してしまい、首から上の頭だけが残されました。残った頭は、新しく作られた本尊の台座の下に収納されたため、長い年月その存在が忘れられた状態になっていましたが、昭和12年(1937年)の東金堂解体修理により発見されたということです。現在は興福寺の国宝館に展示されていますので、阿修羅像を見に行った時に見かけたことがあるのではないかと思います。

<ウィキペディアより>
先日、奈良の興福寺で阿修羅像を見てきたという方が、「最近の阿修羅像は、今風のカッコいいライティングがされていて、オシャレになっていた」と言われていたので、私たちも、「阿修羅もいいけど、山田寺の仏頭もなかなかいいんだよね」なんて話をしたのです。
ちょっと前にこんな話をしていたせいもあって、ぶっ飛びから仏頭へ繋がった次第ですが、興福寺に収蔵されている山田寺の仏頭には、実は、因縁話が潜んでいるということなんですね。先ほど簡単に説明したものが一般に言われている内容ですが、では、どんな因縁話があるのでしょうか。
山田寺は、7世紀半ば頃、蘇我入鹿の従兄弟にあたる、蘇我倉山田石川麻呂(そがのくらやまだのいしかわのまろ)の邸宅のそばに作られた寺院で、石川麻呂の自害後に完成しました。現在は山田寺跡となっており、往時の姿はなくなっていますが、かつては大きな伽藍や塔を持つ、荘厳な寺院だったようです。
やがて、興福寺の末寺となり、藤原氏の私有物となってしまいました。文治3年(1187年)、興福寺の僧兵が山田寺に押し込み、無断で本尊の丈六三尊像を持ち去りました。そして、この持ち去られた仏像が興福寺の本尊となり、その後の興福寺の火事により胴体を焼失し、仏頭だけが残りました。
山田寺創建の発願者の石川麻呂は、蘇我入鹿の従兄弟にあたりますが、大化の改新・乙巳の変(いっしのへん)で、自身も蘇我一族でありながら、蘇我を裏切り、蘇我入鹿の暗殺に加担した・・・、ということを歴史で習った記憶があるかと思います。
入鹿暗殺を目論んでいた中大兄皇子と中臣鎌足は、蘇我宗家の内部の亀裂を利用する目的で、蘇我氏傍系の石川麻呂を引きずり込んだということです。その結束として、石川麻呂の次女の遠智娘(おちのいらつめ)が中大兄皇子の元に嫁ぎました。この娘が持統天皇や大田皇女(おおたのひめみこ)の生母です。

石川麻呂は、蘇我氏宗家を裏切った褒美として、大化改新政府から右大臣を与えられました。ところが、わずか4年後、異母弟の蘇我日向に、「中大兄皇子を暗殺し、謀反を起こそうとしている」と密告され、妻子らとともに、造営中の山田寺で自害。しかし、この事件は、どうも中大兄皇子や中臣鎌足の陰謀だったようです。
石川麻呂が自害した後、二田塩(ふたつたのしお)という人物が、すでに冷たくなっていた石川麻呂の首を切り、肉を切り裂いた。そして、遠智娘は、夫である中大兄皇子に父を殺されたことを悲しみ、無残な仕打ちをした二田塩の「塩」の名を恨み、発狂して亡くなったといわれています。
発狂して死ぬなんて、よほどのことあったのではないかと思ってしまいますが、そうなんです、この「塩」の名を恨み発狂したという話は、人物の「塩」を言っているのではなく、石川麻呂の首を塩漬けの「スシ」状態にしたことを言っているのではないかということが、関裕二氏の「蘇我氏の正体」に書かれていました。
生首を塩漬けにするというのは、百済の方の風習で、それを知っていた中臣鎌足が、中大兄皇子に入れ知恵をし、石川麻呂の首を塩漬けにして戦利品として持ちかえらせたのではないかと。そして、それを見せられた娘の遠智娘は、父の「塩」まみれの変わり果てた姿に恐怖し、発狂したのではないか・・・

その後、山田寺は、孫にあたる鸕野讚良皇女(うののさららのひめみこ・後の持統天皇)や天武天皇の援助によって造営され、天武14年(685年)3月25日、本尊の丈六仏(丈六三尊像・現在の仏頭)の開眼が行われました。これはちょうど石川麻呂の三十七回忌にあたるので、非業の死を遂げた石川麻呂の追善だったのではないかということです。
「塩漬けのスシ」にされた石川麻呂の生首と、火災にあって仏頭だけが残り、何百年も忘れられたまま塩漬けにされ、現代に蘇ったということが、なにやら因縁めいた話に思えてきます。
サイン競馬大外しの反省話から、仏頭の話になりましたが、前回のサイン競馬の話に中にも、持統天皇が出てきていて、そして、また、この話も持統天皇と繋っておるのでありまする。
サイン競馬の記事は、ハズした時のいい訳が大変なのだ
なぁんて言いつつも、さあ、次のサイン競馬はダービーかな?と、懲りもせず口走るエネ研なのでした




スティーブ・マックイーンと松田優作で来ちゃいましたね


)
おそらく、ジャガーメイルは人気薄だと思うので、ジャガーメイルの単勝なんて美味しいのかも?もしくはジャガーメイルからの馬連がおもしろいのかな?なんてね

ちなみに、中京競馬場へ行って、馬券を買って、帰りに、知立駅の立ち食いソバ屋でおソバを食べてくる・・・、というのが、かつてのドグオの必勝パターンでした
また、やってみるってか?
きゃ~、どうなる?!











さらに、駐車場が拡張されたり、待合用の小屋ができたりと、規模も拡大していて、なんと、観光バスやマイクロバスが立ち寄っている時もあるほどなんですね。通りがかるたびに「今日もすごい列ができてるわ~


おや?背後よりみみっちいというドグオの声がするが、サプライズな体験には変わりはないのざぞ 






















)の天井には、菊紋と一緒に三つ柏紋が描かれています。この柏紋と柏木神社との繋がりや柏木の浜にも柏の木が三本植えられているといった、新たな謎が浮上してきました。



何のためにこんなことをさせたのか、家康は何を想定していたのかが興味をそそるところです
あ~あ、なんだかんだ言って、やっぱ花火はやめられないのね~(^_^;)















> 








、実はある場所を遥拝するための場所だったのではないかということなんです。


























?

パアーになっているんじゃないか!?なんてことを危機的状況の中思うんです。
パアーか!?』、そんな風に思うものなのです!笑)





























凄い記事ですね。リンクさせて頂きました。